parisったので。
夏休みでパリ旅行。
ええところでした。
パリで出会ってテンションあがった美術作品3選。
①ジャクソンポロック
これはもうどこいっても大好き。王道。
②ヴェルサイユ宮殿に恒常設置されているアニッシュ・カプーア『DESCENSION』。
地中に埋められた渦巻き。
その流れは速く、かなり暴力的な作品。
水が吸い込まれるときの「ゴポゴポ」という音と地鳴りのような「ゴゴゴッ…」という音が鳴り、作品によって周辺の大地が実際に揺れている。
柵に触るとまじで揺れが伝わってきて、怖い。恐怖感ある。
それでも、水の流れってすごくきれいで、どんなに観ていても観飽きない。
この作品と出会ったとき、豊島にある内藤礼の『母型』を思い出した。
その他、アニッシュ・カプーアの作品。
上にある鏡の作品もそれ。
③フォンダシオン ルイ・ヴィトンにあるchristian marclayの『crossfire』。
写真撮ってないので、他から拝借。
(Christian Marclay - Exhibition | DHC/ART | EN)
暗室の4面にでかいスクリーンを設置し、各映画に登場する銃撃シーンをえんえんと流すっていう作品。最高です。戦争映画の銃撃シーンにテンションあがっちゃう人間は、もれなく興奮すると思います。一応、ストーリー仕立て(?)で、銃を取り出し、銃弾を充填し、撃鉄を鳴らし、発砲(後の銃撃戦)という流れがあって、いい感じの手に汗握る緊張感アリ。きっと批評性とかあると思うんだけど、とりあえず感覚的に好きな作品。映像の連続再生とか、わりとMADっぽくて、銃撃のタイミングをずらしてリズムつくってるので聴いてて心地良い。
旅行で初めてカメラ持ってたのでパシャパシャすんの楽しかった。
自分が観て感じた光景の細かいところを上手く再現するのって難しいなと思う。
同時に、カメラって自分の感覚を正確に伝えようとしてああだこうだとこだわることの難しさとオモシロさを体感できるいい道具だと思った。
そんな感じで、以上です。
ダンスってかっこいいな。
居間にある付けっぱなしのテレビから、聴き覚えのある曲が流れてきた。
それは、ダンサー・Koharu Sugawaraがオリジナルダンスで使っている曲『Rather Be by Clean Bandit』で、とても素敵な曲。「もしかして…!(Koharu Sugawaraが踊ってる!?)」と思って、居間に向かうと、テレビでは27時間テレビのワンコーナーとしてチビッ子ダンスバトルをやっていた。Koharu Sugawaraが愛した曲をバックにダンスを踊るのは、h!nataというチビッ子ダンサー。たぶんだけど、Koharu Sugawaraからの影響があるであろうダンス(上半身の軸に力が込められていて、その力強さが波のように手足へと流れる感じ?)で、「お、かっこいい」と感じたから上手いんだと思う。
27時間テレビ自体はまじでむちゃくちゃ糞なんだけど、どれだけ糞かって言うと、h!nataの対戦相手はどじょうすくいのダンスを踊る子どもたちで、番組の空気としては「どじょうすくい(笑)」で、審査員の判定がある前に、ナイナイの岡村がどじょうすくいの子どもたちに向かって「負けたけど、どう?」って質問をするぐらい糞なんだけど、おいおいふざけんなよ少なくとも努力をしてきた子どもたちを番組全体で晒し上げるような空気を作るとかどんだけ腐ってんだとか思ったけど。
それでも、こんだけ糞みたいな世界だけど、それでも、それでも、ひとつ希望があったのは、審査員・仲宗根梨乃がコメントを求められて「(h!nataちゃんに対して)あなたのエモーションは伝わった」というような感想を二言、三言伝えるシーンがあって、その伝え方が真剣な表情と情熱のこもった声色でしかもちょっと早口でそれがすごくかっこよかった。それはまるで「私たちはこんなぐちゃぐちゃとした糞みたいな場所で出会ったけど、それでもこれだけはどうにかして絶対にあなたに伝えたい」という、ひとりのダンサーとして未来あるダンサーに対する真剣で本物のエールだったと思うから。
どじょうっ子たちも頑張ってほしいなー。
チームラボは正義だ。
誰かの作品を観て、涙がとまらなくなるのは2回目だった。というより、その1回目も2回目も、同じ作家さんなのだけど。
やっと行けました。
会期延長だったのでピーク時よりもたぶん空いてました。
泣ける=良い!素晴らしい!という単純な図式じゃないことは百も承知なのだけど、それでも、どうしても、「涙がとまらなくなる」という状況には、すごく特別なことがあるんだと僕はわりと真面目に信じている。少なくとも、そのときにこみ上げてきた嬉しさや悲しさ、悔しさなんかっていう感情が嘘っぱちだったなんて思いたくない。
チームラボさんの作品はどれもこれも素晴らしい。のですが、その中でも、思わず泣き出すほどテンション上がっちゃった作品が 『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点 - Light in Dark』でした。
「へい!どうしてわざわざ高いお金払ってまで芸術作品を観にいくんだい?」と聞かれたら、「こういう作品に出会いたいからだよ!」と自信を持って笑顔で答えたくなるような、脳みそをスパコーーーーン!!!とぶっ飛ばしてくれるような、それはそれは迫力のある映像と音楽の作品。
youtubeの動画じゃそのスケール感が全然伝わらないんだけど、会場の照明が落とされた暗い場所で、自分の背丈よりも高くて両手を広げたよりも幅広い映像画面7つ(だったかな)が、Uの字に並んでいて、お客さんはその巨大な映像画面の間をふらふらと観て歩き、時には寝そべって(!)観賞する。作品の世界に入っていける!というとさすがにちょっと大げさですが、たぶん正確な単語としては「体験する」に近い。youtubeの動画は(申し訳ないけども)あくまでも「視聴」でしかないんだ!と。
会場の作品は、Uの字に並んだ映像画面の間を「カラスたち」が縦横無尽に愉しそうに飛び回る。そして、映像画面に手を伸ばしたらそのまま「カラスたち」の世界に手が届くんじゃないかと錯覚するぐらいに奥行きと立体感があった。例えば、映像のちょうど2分頃のところの「カラスが遠ざかってる」シーンによって、「映像の中に広がる無限の空間」みたいなのを体感できる。映像画面を入口にして、その先に別の世界が広がっているかのような奇妙な感覚。遠くの方で気持ち良さそうに羽ばたく鳥を眺めることが、これほどまでに心地よい感情を抱かせるものだとは思ってもみなかった。しかも、「カラス」の軌跡に花々がリズムよく咲き乱れるとかもうね素敵すぎるよ。
(http://www.team-lab.com/news/miraikan)↑実際の展示風景こんな感じ。
日常では絶対に出会えないであろう、そういう空間に出会えること。
それは、例えば、豊島美術館で出会った「こんな美しい作品を、空間を、時間を、僕と同じ人間が作ったのか…!」というこの上ない喜びと驚きと感動。あるいは、もっと単純に「なんじゃこりゃスッゲー――!!!!」というワクワク感が全身を駆け巡るような感覚。僕がせっせと美術館やギャラリーに足を運ぶのは、1/100回あるいは1/1000回だとしても、そういう瞬間に出会えることを知っちゃったからだ。それがゲイジュツってやつだ。
つまり、「芸術」というのは「作家が自分という存在と真摯に向き合い、とことん追求し、それを他人と共有するために作品というカタチにする行為」なんだと私は信じている。「自分」と向き合うと、だんだんと「核」のようなモノ、その個人にとってすごく大切なモノに辿り着くのかなって信じているんだけど、 チームラボ、つまり代表である猪子さんという個人の、その奥深いところにある「何か」によって、「こんなにも美しいモノが生み出されたのか…!」とふと思い至り、その瞬間、ぐわーと涙が込み上げてきた(会場が暗かったので遠慮なく)。
なんというか、チームラボさんの作品は、すごく素直で、とても真面目で、純粋無垢に「美しい」。それが映像美や草木、花々の美しさにも繋がってくる。誰かの奥底にある大切なモノが、どうしようもなくむちゃくちゃに美しかったら、これほど素敵なことはないですよね。
自分でも小説を書き始めて、作品をつくるとき、自分の中にある経験や感動、知識の範囲でしかモノは作れないんだというすごく当たり前の事実に気付いた。あるいは、ストーリーからキャラクター、文体まで、自分が「コレいい!」と感じるモノの積み重ねでしか作品は生み出せない。
だからこそ、チームラボさんによって生み出された作品の「美しさ」に、「すげえええ…」ってむちゃくちゃ心が震えた。それは称賛の意味もあったけど、だいたいは憧れと嫉妬と絶望がぐちゃぐちゃと複雑に混じり合った感覚。ちょうど仕事や作品が上手くいってなくて、自信喪失した時期だったのも大きい。自分自身に対する不甲斐なさ。何してんだ俺という非力感。「美しいモノ」を想像できる感性(と知識)と、それをこの世界に再現する技術をもったチームがあって、ぜんぶひっくるめて「すげえええ…(いいなあ…かっこいいなあ…)」って。
まあ、途中でものすごいプライベートな事情を挟みましたけども、そんなん抜きにしてもチームラボさんの個展むちゃくちゃ最高です。「チームラボの作品は美しすぎる、行儀よすぎる」という批評もあったりして(アート作品には毒気があるべき論)、実際そういう傾向あるかもとか思ってたけど、むしろ「美しいは正義」だよ、と。美しすぎて泣ける展覧会。誰かにとっての「美しさ」が、自分にとっての「美しさ」であることの奇跡。かっこいい作品はやっぱり僕にとってはヒーローであり、暗いどん底から救いの手を差し伸べてくれる。頑張ろう、頑張りたいと不思議と思えるもんです。
今日から『攻殻機動隊』新シリーズ!
これ↑を観ると、やっぱり底力というか、名作としての歴史というか、『攻殻機動隊』シリーズの1作1作の破壊力がむちゃくちゃやばいなと思える。層の厚さというべきかな。こんなアニメ他にない。
ということで、
『攻殻機動隊』テレビアニメの新シリーズが今日から(TOKYO MX)スタート。
テレビシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』と『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』をリアルタイムで観てなかった僕としては、よだれがとまらん!ってぐらい嬉しい。やばい。楽しみ。
カッコいいにも種類がある。
「カッコいい!」という感覚が好きだ。
カッコよさ、あるいはカッコよさから生じる憧れは、個人を未知の領域へと連れていく。
だから、「なんかカッコいい」は正義だ。
きっとヒントがある、なにかしらのヒントが。
しかし、でも待てよと思うこともある。
「カッコいい」という感覚は、一体なんだろうか、と。
つまり、「カッコいい」と感じるとき、「何に対して」「どうして」「カッコいい」と感じるのだろうか。
「カッコいい!」にも、僕が観測できた範囲だと2通りあって、それは「視覚的にカッコいい!すげー!」と「物語的にカッコいい!やばい!」という感覚。
「物語的にカッコいい!」っていうのは、いつも言ってることなので割愛。
「視覚的にカッコいい!!!」
でいつも最初に思い浮かぶのは、キング・オブ・ポップ=アンディ・ウォーホル。
森美術館でずらりと並ぶ実物を初めて見たときのリアクションがこちら↑
アンディー・ウォーホル展の資料室で、ウォーホルが女性誌を集めていたっぽいことがわかったので、vogueを並べてみた。「カッコいい!(視覚的に)」でしょ。意味=物語は、特にないんだけど、「カッコいい」。そういうもん。
アメコミは個人的に「カッコいい」のかもしれないので、「物語的にカッコいい」に近いかも。
カッコいい。
カッコいい。
…「カッコいい」?
この差は一体なんだ?という話。
あと、ふと思い出したんだけど、映画の予告編を見て、「なんかえらく無駄にカッコいい映画やなー」と思った映画。
以下、 google様で「かっこいい」で画像検索した結果。
まあ、「カッコいい」わな。
おまけ。
でも、こういう「カッコよさ」を求めているわけじゃない。お察しの通り。
最近、雑誌のレイアウトとか広告とかのビジュアルを考える機会が多いんだけど、そこにも「カッコいい」があります。「カッコいい」雑誌、「カッコいい」(を狙った)広告。あるいは、すごく個人的な話をすると、美術書とか美術カタログって「カッコいい」んです。それは、作家さんの市場価値を上げようと思ったときに、ペラペラなチラシみたいな美術カタログ・作品図版じゃブランディングとしてダサいからで、「カッコいい」デザインとか重厚な雰囲気とかにして高級感とか権威性を演出する。
えっと、まあ何が言いたいかっていうと、「カッコいい」をもっと追究してみようかなって話。特に、イラスト的な「カッコいい」は難しいので、デザイン的な「カッコいい」を。そうすると、タイポグラフィーが重要になるのかも。
自分が「カッコいい」と感じたモノを「カッコいい」デザインで紹介したい。
そして、「カッコいい」という憧れは、未知の世界への鍵になる。
美術書みたいなカッコよさも大事だけど、インテリ・お洒落な感じのしない、ちょっと泥臭いというか冒険の匂いがするような「カッコいい」デザインを考えてみたい。
それはきっと、ワクワクするような「カッコいい」だ。
SF的想像力の死、あるいは個人的想像力のスゴさ
「SF的想像力は死んだ」
なんていうフレーズが頭をよぎった。
それは、
をせっかくだからとボケっ―と観つつ、
故人のDNAを木に埋め込んで「生きた墓標」にする « WIRED.jp
バイオアーティストの福原志保さんの活動に
「おおーーー!!!すげーーーー!!!!」とテンションあがっているときだった。
結局、Googleが目指している世界は、映画『ブレードランナー』あるいは『スタートレック』、『攻殻機動隊』が提示した未来像の後追いでしかないんじゃないか、そんなことを考えた。Googleという知と金が集う大組織だったとしたら、もっともっともーーーっとスゴイモノが出てくるに違いないという大きな期待。今のところは、想像の範囲内だった。未来はきっとこうなるだろうという予想の範囲内だった。
(映画『ブレードランナー』)
「脳」の現在地がどこなのか知りたくて、ミチオ・カクの別著作がおもしろかった記憶があったので、途中まで読み進めているコチラの本、「脳の未来」についての本。今のところ、想像の範囲内。予想の範囲内で「未来」はやってくるようだ。
すごくワガママだけれども、
もっと僕の脳内を「スパコーーーーーーン!!!!!!」とぶっ飛ばしてくれるような「未来」はないのだろうか。
『フューチャー・オブ・マインド―心の未来を科学する』が、僕にとって未来の再確認でしかなかったのは、自分自身で「脳」について人並み以上には勉強しているからだろうとも思う。つまり、知識を得さえすれば、程度の差こそあれど、「未来」を想像することができる。
SF的想像力は、そういう「A=B、B=C、だからA=C」という思考の流れでしかなくて、「A=B、B=C」を知らない人からすると、いきなり「A=C」を提示されてしまうと「ドッヒャーーーーーー!!!!!」とぶったまげる。
『ブレードランナー』
『スタートレック』
『攻殻機動隊』
がやったことは、
いきなり「A=C」を映像で魅せるという衝撃だった。
もちろんそれはそれでスゴイことなんだけど。
しかし、究極のROM専な私からすると、
(あるいは、フィクションで「未来」にずっと触れていた私からすると)
「もっともっともっとオモロイもんはないんか!」と叫びたくなる。
(「自分でやれ!」というのは勘弁してください)
そう思ったときに、ふと意識が向くのは、やっぱり「芸術」という領域。
バイオアーティスト・福原志保さんの研究作品を知ったときの衝撃。
ヘイワードギャラリーでマーティン・クリードの『MOTHERS』と遭遇したときの衝撃。
東京国立近代美術館でジャクソン・ポロックの大作と出会ったときの衝撃。
「科学=SF」に「芸術=個性」が加わったとき、もっともっとスゲーもんが出てくるんじゃないかという期待。
「個性」というブラックボックスがおもしろすぎる。
最近、外食の回数が減ったのだけど、それは「美味しいモノはお金を出せば食えるし、たいていその美味しさは想像の範囲内だから」かなと考えている。その一方で、自炊は楽しいし回数が増える増える。それは美味しくできたときの「この私がてきとーに作ったのになんか美味かったぞ…!?」という驚きが好きだからだ。
ビジネスでの成功者が、芸術に興味を持つという話を(どこかで)聞いたことがある。ひとつの天才のスタイルとして、「知識量と演算能力がアホみたいに高い」というタイプが(僕の中に)あって、つまり「1を聞いて10を理解するタイプ」なのだけど、そういう天才たちはきっとビジネスで成功する。だけど、そういう天才たちって、もうこの世界そのものが(ある程度)想像の範囲内になっちゃうんだろうなとか思うわけで。
だからこそ、「芸術」という知識量と演算能力(=SF)だけじゃ到達できない世界に興味を持つのかもしれない。
そもそもフィリップ・K・ディックやジーン・ロッデンベリー、士郎正宗にとっての芸術がSFだったのだと思う。
ひとが造り出した場所の中で、もっとも美しい場所であると確信する - ぐちゃぐちゃと書き殴る。