ヒーロー見参!!

PS:意識より愛をこめて

ヘイワード・ギャラリー見聞録

ロンドン旅行から地味に日が経ってしまったので、だいぶ新鮮味が落ちつつあるのだけど、最後にひとつだけロンドンネタでエントリを書こうかと思います。ロンドンでは行きたい場所が多かったのでもはや時間との勝負だったのだけど、その一方で、幸いな事に、木金は夜遅くまでやっている場合も多くてまじ感謝。ってことで、木曜日の夜に「ヘイワード・ギャラリー」なるところへ行ってきました。

Hayward Gallery | Southbank Centre

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「ロンドンにある“イケてる”ギャラリーのひとつ」というもっぱらの評判で、実際行ってみると、ギャラリーを訪れている人々もどことなく“イケてる”風な方々ばかり(いわゆる業界系っぽい方とかお美しいファッション系のお姉さん方、ロンドン在住の芸術家の卵っぽい方々等々)。しかも、ほかの多くの美術館が入場料無料のなかでも、ここは有料で11ポンドほど。そんなヘイワード・ギャラリーですが、このときの展示は、マーティン・クリードという芸術家の個展。先ほどちょこっと調べたら、2001年にターナー賞を貰っているようで(知らんかった)、実力のある方だったのですね…。ギャラリーの実力なのか、マーティン・クリードの実力なのか、それは判断できないけど、それでもこのギャラリーでの時間がロンドン旅行におけるハイライトであったと思う。ざっくり言ってしまえば、とても良かったのである。

Martin Creed | Southbank Centre

 ヘイワード・ギャラリーを訪れる前に、その前日・当日においてテート・モダンやテート・ブリテン、サーチ・ギャラリーなどの絵画と彫刻、小さなインスタレーションばかりの場所を攻めていたことも大きかったのかもしれないけど。

 

ヘイワード・ギャラリーの「マーティン・クリード展」では、入場したその瞬間、どでかい「MOTHERS」という文字がぐるんぐるんと規則正しく回っている、という光景と出会う。何を言っているかわからないと思うが、おれも何をされたのかわからなかった… そんなに広くない部屋である。そこをどでかい「MOTHERS」という文字が回っている。その部屋いっぱいを半ば暴力的・無機質的な迫力で、ただただ物言わず、ただただ「MOTHERS」が回るだけであり、ただただ圧倒されるのみ。パコ---ーンっっっ!!!と、脳天をぶち抜かれたかのような衝撃で、よもやわけがわからないのだが、それでも一種のアトラクションのような大きなモノに対するワクワク感と、恐ろしいほどに現実的な質量感(鉄なので接触したら大怪我する)と、「MOTHERS」の文字から連想が生まれる謎(これは何を意味している?)とで、一気にテンションが上がるというか、こういうモノと出会ってなにがしかの興奮や感覚が沸き起こってくるこの瞬間のために僕は芸術を求めるのだと痛感した瞬間だった。もっと傲慢に言ってしまえば、ロンドンにあるヘイワード・ギャラリーという場所に足を運んだからこそ得られた快感であり、生の芸術に触れることのおもしろさを実感しているからこそ得られた快感である、と。

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Martin Creed Work No. 1092

↑これがグルグルと回る。


少し話が逸れるが、建築学科だった兄が美術館という機能についてコメントをしていた。万国博覧会を筆頭にして、世界中に散らばっているモノを一箇所に集めて鑑賞できるようにするという機能を持っていたかつての美術館や博物館。インターネットが普及し、検索ひとつで世界中のモノを見る・知ることができる現在において、その美術館や博物館というスタイルは古いのではないか?と。たしか、この話は、それこそロンドンに行ってダミアン・ハーストの作品を生で観たい!と言った時だったかもしれない。それに対して僕は、懐古厨的な頭の硬さを内心では認めつつ、美術館や博物館のスタイルは芸術を体感するという視点においていまだに重要であると反論をした。例えばダミアン・ハーストの作品を生で体感することで、雰囲気や質量感というなにがしかの感覚を得られると信じたい。ウォーホル(森美のウォーホル展の感想は後日)やナム・ジュン・パイクなどの芸術家たちは、この流れにいち早く反応した人たちなのかもしれないとも思うけれど。この流れとは、つまり美術館不要論である。“オリジナル”という価値を否定したウォーホルの大量生産や、映像やハプニングに傾倒したナム・ジュン・パイクの作品は、美術館本来の機能がなくても成立する。テレビやインターネットという場や、市街地という人が集まる場があれば、美術館で展示される必要性はない。これは当時世界を席巻していたであろう経済成長の影響が大きいのかもしれない、とその背景が気になるところではある。


さて、話をヘイワード・ギャラリーに戻すとして、僕がここで思ったことは、ヘイワード・ギャラリーの展示の仕方(あるいは、マーティン・クリードの展示の仕方)は、とてもアトラクション的であるということ。「MOTHERS」の部屋では周囲をメトロノームがチクタクと囲っていて、隣の部屋ではドレミファソラシドを脈絡なく弾き続ける黒人男性がいたり、オナラのような音がブーブー聞こえたり、ぐしゃぐしゃに握り潰された紙くずや壁に突起物があったりと、いわゆる「現代アートがわからない」と人々に言わしめるような典型的な作品のオンパレード。僕も正直、具体的な意図はわかりませんでした。それでも、そのわけがわからなすぎるモノで溢れかえっている光景は、シュールというか、「やべえ!わけわかんねえ!!」というわけがわからないテンションが沸き起こってくる。そして、もっとおもしろいのは、それでも「何かの意味があるんじゃないか?」という疑問が半強制的に思い浮かぶこと。「なんでこれ?」と。「わけがわからないからこそ何かあるんじゃないか?」と思える、その作品(あるいは、その空間)が持つ求心力のようなモノ。それが凄まじい。

 

「なるほど!」という快感は素晴らしい。「そういうことか!」と腑に落ちる芸術は楽しい。しかし、「なんで?」という疑問も大事だ。けっこう前にエンターテイメントとアートの違いを考えたことがある。ディズニーランドやアクション映画は楽しいのだけど、その楽しかった想い出以外は何も残らない。一方で、アートとは異物のようなモノで、違和感や謎を残す、心のどこかで引っかかる。エンターテイメントは引っかからせてはいけない。完璧なエンターテイメントとは「完璧」であり、「あそこがダメだった」とか「あれはなんだったんだ?」とか、鑑賞者に思わせてはいけない。それに対して、アートは不完全なので、だから引っかかる。アートは、鑑賞者側が歩み寄る余地を残してくれる。最近思うのだけど、人生も同じようなもので。この社会(あるいは世界)に対して何一つとして不自由のない人(=人生が完璧な人)は、不自由のある人が立ち止まる場所を、スルーしてしまう。恋愛が上手くいかないから「どうしてだろう?」と考える。生まれながらの同性愛者であれば、「どうして自分は他の人と違うんだろう?」と恋愛や男女、人間について考える。呼吸ができる人は「なんで呼吸できるんだろう?」「呼吸ってなんだろう?」と考えない。歩ける人は「歩くこと」を考えない。それは当然のことだけど、どうしても忘れがちになってしまうこと。

マーティン・クリードの作品によって「なんだこれ?」という“疑問”を思い出すことができる。そして、それこそが芸術のおもしろさのひとつであると体感させてくれる。それも妙なワクワク感と一緒に。わけがわからない作品群を進んでいくと、最後の部屋にひとつの作品が置いてある。それは、白いバルーンがたくさん詰まった部屋だ。そして、鑑賞者たちはこの部屋に入って遊ぶことができる。正直、わけがわからない。だけど、なんだか、ワクワクするでしょ?その場に子どもなんて1人もいないし、いい年した大人しかいないんだけど、それでもみんな楽しそうに順番に並んでいる(10人限定なので)し、実際に中に入ったらワーキャーと大はしゃぎ。僕も楽しかった。わけがわからないんだけどなんかワクワクして、わけがわからなすぎて「なんだこれ?」と疑問に思える。ある意味で、この作品や展示は、エンターテイメントの側面もあるように思える。だけど、それは(だけどって言っちゃうとエンターテイメントを否定したいみたいで嫌だな)、それこそが芸術が持っている能力のひとつ。美しいモノ・ぶっ飛んだモノに人は惹かれる。だから、絵かきは絵の巧さや構図を学び、アイディアマンは人々が「いいね!」って言いたくなるアイディアを考える。そこにちょっとした毒を盛る。「なんで?」と徐々に疑問が沸いてくる毒だ。それこそが芸術のなせる技、醍醐味のひとつ。

work illustration

Martin Creed Work No. 628

 

そして、ヘイワード・ギャラリーの「マーティン・クリード展」は、その「わけがわからないアート」の寄せ集め(美術館的機能)ではなく、空間全体に漂うワクワク感と理解不能感というアートのアトラクションパークのような場所だった。

噂に聞きしヘイワード・ギャラリーは最高でした。
ロンドンを訪れることがまたあれば、絶対に行きたい。

マーティン・クリードの作品は、彼のサイトにたくさん載ってます。

Martin Creed Works

 

追記:

「芸術」「アート」「現代アート」など、言葉の意味がちょっと混在してる。