SF的想像力の死、あるいは個人的想像力のスゴさ
「SF的想像力は死んだ」
なんていうフレーズが頭をよぎった。
それは、
をせっかくだからとボケっ―と観つつ、
故人のDNAを木に埋め込んで「生きた墓標」にする « WIRED.jp
バイオアーティストの福原志保さんの活動に
「おおーーー!!!すげーーーー!!!!」とテンションあがっているときだった。
結局、Googleが目指している世界は、映画『ブレードランナー』あるいは『スタートレック』、『攻殻機動隊』が提示した未来像の後追いでしかないんじゃないか、そんなことを考えた。Googleという知と金が集う大組織だったとしたら、もっともっともーーーっとスゴイモノが出てくるに違いないという大きな期待。今のところは、想像の範囲内だった。未来はきっとこうなるだろうという予想の範囲内だった。
(映画『ブレードランナー』)
「脳」の現在地がどこなのか知りたくて、ミチオ・カクの別著作がおもしろかった記憶があったので、途中まで読み進めているコチラの本、「脳の未来」についての本。今のところ、想像の範囲内。予想の範囲内で「未来」はやってくるようだ。
すごくワガママだけれども、
もっと僕の脳内を「スパコーーーーーーン!!!!!!」とぶっ飛ばしてくれるような「未来」はないのだろうか。
『フューチャー・オブ・マインド―心の未来を科学する』が、僕にとって未来の再確認でしかなかったのは、自分自身で「脳」について人並み以上には勉強しているからだろうとも思う。つまり、知識を得さえすれば、程度の差こそあれど、「未来」を想像することができる。
SF的想像力は、そういう「A=B、B=C、だからA=C」という思考の流れでしかなくて、「A=B、B=C」を知らない人からすると、いきなり「A=C」を提示されてしまうと「ドッヒャーーーーーー!!!!!」とぶったまげる。
『ブレードランナー』
『スタートレック』
『攻殻機動隊』
がやったことは、
いきなり「A=C」を映像で魅せるという衝撃だった。
もちろんそれはそれでスゴイことなんだけど。
しかし、究極のROM専な私からすると、
(あるいは、フィクションで「未来」にずっと触れていた私からすると)
「もっともっともっとオモロイもんはないんか!」と叫びたくなる。
(「自分でやれ!」というのは勘弁してください)
そう思ったときに、ふと意識が向くのは、やっぱり「芸術」という領域。
バイオアーティスト・福原志保さんの研究作品を知ったときの衝撃。
ヘイワードギャラリーでマーティン・クリードの『MOTHERS』と遭遇したときの衝撃。
東京国立近代美術館でジャクソン・ポロックの大作と出会ったときの衝撃。
「科学=SF」に「芸術=個性」が加わったとき、もっともっとスゲーもんが出てくるんじゃないかという期待。
「個性」というブラックボックスがおもしろすぎる。
最近、外食の回数が減ったのだけど、それは「美味しいモノはお金を出せば食えるし、たいていその美味しさは想像の範囲内だから」かなと考えている。その一方で、自炊は楽しいし回数が増える増える。それは美味しくできたときの「この私がてきとーに作ったのになんか美味かったぞ…!?」という驚きが好きだからだ。
ビジネスでの成功者が、芸術に興味を持つという話を(どこかで)聞いたことがある。ひとつの天才のスタイルとして、「知識量と演算能力がアホみたいに高い」というタイプが(僕の中に)あって、つまり「1を聞いて10を理解するタイプ」なのだけど、そういう天才たちはきっとビジネスで成功する。だけど、そういう天才たちって、もうこの世界そのものが(ある程度)想像の範囲内になっちゃうんだろうなとか思うわけで。
だからこそ、「芸術」という知識量と演算能力(=SF)だけじゃ到達できない世界に興味を持つのかもしれない。
そもそもフィリップ・K・ディックやジーン・ロッデンベリー、士郎正宗にとっての芸術がSFだったのだと思う。
ひとが造り出した場所の中で、もっとも美しい場所であると確信する - ぐちゃぐちゃと書き殴る。