生命は生命の力で生きている

先日、KITTEで開催されたチームラボの展示会にいってきた。

そもそも、1周年記念か何かのイベントにチームラボの作品を依頼&展示するという発想に至ったKITTE陣営グッジョブ!。東京でチームラボの作品が複数並ぶというのは、珍しいんじゃないかな。というか、KITTEのような公共スペースでは海外でも少ないかもね。最近、猪子さんのメディア露出も増えている気がするし、日本の公共の場に進出して、あわよくば2020年オリンピック開催式での演出に関わってほしいなあ。というのも、彼(あるいはチームラボ)ほど、日本の文化を丁寧に解釈して、それを大衆ウケする技術(テクノロジー)にまで昇華している人は他にいない。日本の芸術史にとって、葛飾北斎岡本太郎ぐらいのビッグネームにはなると思う。僕の中で、伊藤計劃と同様に、猪子寿之は作品も思想も大好きなひとり。日本文化(日本人)とは何か?という根本を見つめ、その根本だけは残して他は現代に即した技術(ハイテクノロジーによって「きれい」で「すごい」作品たち)を導入することで、それらの作品たちは人々の心を掴みえる、作品としての強度を持っている。

Life survives by the power of life / 生命は生命の力で生きている | teamLab / チームラボ

日本の京都で創られたスーパーマリオブラザーズというゲームは、世界で初めて、(西洋的な空間認識では)完全にフラットな平面による横スクロールという概念を生んだゲームです。世界中で大ヒットしています。2Dのころのスーパーマリオのシリーズは、完全なレイヤー式の背景で空間を表現しています。伝統的にはレイヤーで空間がデザインされているため、身の回りにレイヤーでデザインされた空間が多く、それゆえに、空間に対し、人の導線が、横に動くことが多いため、日本人が素直に横スクロールという概念を発明できたのではないかと思うのです。 これは、現代の日本人も、日本の伝統的空間認識を、無意識のうちに受け継いでいたからではないだろうか、と思うのです。

スーパーマリオドラクエのようなレイヤー視点構造と日本庭園や洛中洛外図屏風における視点移動の構造を引っ張ってきて、同じ土俵で扱うこの発想はすごく好き。まさに「その発想はなかった」感。そういうの大事。そして、その発想をアイデアだけに留めずに、作品にしちゃうのだからもうぐうの音も出ない。

上記リンクの作品『生命は生命の力で生きている』は、KITTEでの展示会にも展示されていたのだけど、感動しすぎてちょっと泣いた。もしこの作品が寂れたギャラリーに展示してあって、僕以外に誰もいなかったとしたら、我慢せずに泣いたと思う(KITTEで泣くのはさすがに人が多すぎる)。この『生命は生命の力で生きている』は、僕が思う「美」を完全に体現していた、と言っても過言ではない。「美しさ」とは、「変化し続けるモノ」である。それは、ゆらめく炎であり、水面で反射する光の輝きであり、いつまでもいつまでも押し寄せる波のしぶきであり、人の意など介せず忙しなく動き続ける虫たちである。(もちろん、動物も。あるいは人間すらもそうかもしれない)そういった永遠に変化し続けるモノとして、その片鱗として、『生命は生命の力で生きている』はそこに存在していた。変化し続けるモノ=自然であり、移ろい続ける四季であり、栄えては枯れる木々や花々であり、そういった要素を昔の人々は絵を描くことで表現してきたのだけど、猪子寿之率いるチームラボは最先端のテクノロジーによって、その「美しさ」を更新した。『生命は生命の力で生きている』は、ある程度のループは存在したように思う(2巡ぐらいしか観てないので…)けど、自立型制御の車が未来の主流になると言われている昨今において、永遠に変化し続ける作品も可能かもしれない。

そのアンサーに近いなあ、と思うのが、

Peace can be Realized Even without Order – Diorama Version / 秩序がなくともピースは成り立つ – Diorama Version | teamLab / チームラボ

個々の映像(村人?)が自立的に動く作品。ひとりの村人に近づくと、そいつだけその接近に反応を示すのだそうで。それでいて、全体で「秩序」が成り立つという、作品の美しさ(見た目)もさることながら、法による国家を無批判に信じてきた我々に対して、「意外とそうじゃないかもよ?」という問題提起もひとつ。つまり、「美しさ」を持ちつつも、文脈(テキスト)としてもすごい。

これまでの社会は「抑制こそ秩序」であり、「秩序こそ平和」であったように感じる。そして、「異物の駆逐」によって、論理的に問題を解決しようと していた。その結果、法によって禁止事項が増えていく。しかし、それは、限界かもしれないし、ハッピーじゃないかもしれない。ネットワークによって人々がつながっている新しい時代は、違う方法によって、平和が成り立つのではないか?それは、悪いことを禁止していく方法で はなく、より良いことを気持ちよくさせる方法を探していくことかもしれない。ずっとずっとむかしからあったプリミティブな踊りの土着の祭りの中で、人々が解放され、一切の秩序がないにも関わらず、非常にピースな体験をした時に、昔の人々は、何か、そんなことを、本当は気付いていたのではないかと、思わせたりもするのだ。

時代の空気感・流れを捉えた文脈(テキスト)です。

 

最近、「作品の強度(どうすれば人々にとって心を動かす作品となるのか?)」について考えることがあるのだけど、やはり歴史に倣うことは大事なことかも。何百年・何千年と培ってきた「強度」は、底知れない力を持っている。現代美術を観ていて思うのは、結局「いいなあ」と思える作品は絵画作品が多い。いわゆるインスタレーションのようなモノは、文脈として腑に落ちても作品(見た目)として好きじゃないモノ(心惹かれないモノ)が多い。それはインスタレーションという歴史が浅いこと、つまりノウハウがまだまだ少ないからかもしれない。絵画の技法は、過去何千年もの間人々がその技術や手法を磨いてきたものであって、やはりそれには「強度」が宿る。僕の立場で言えば、小説というモノは、過去の作品から(それは聖書であり古典であるが)の引用が多い。過去に書かれて今でも残っているような小説が持っている「強度」をまず得ること。その「強度」を無意識レベルで扱うことができれば、自然と重みのあるいい作品が出来るのではないか。そして、その無意識レベルでの「強度」が、「才能」や「天才」だなんて言われちゃうのだけど。世の中すべて、地道な積み重ねなんだろうなあーと思うこの頃。

 

話が大きく逸れたけど、今後もチームラボの活躍に期待!

そして、『生命は生命の力で生きている』を観て涙を流した理由として、「美しさ」というのもあるけど、単純な悔しさもあったので、僕も何か強度をもった素晴らしい作品を残したいなあとかなんとかモゴモゴ。

 

追記:

『生命は生命の力で生きている』の作品冒頭の木々を描く表現として、日本を代表する書道家紫舟さんの筆を採用するあたりはもうほんとにお見事。