今日から『攻殻機動隊』新シリーズ!
これ↑を観ると、やっぱり底力というか、名作としての歴史というか、『攻殻機動隊』シリーズの1作1作の破壊力がむちゃくちゃやばいなと思える。層の厚さというべきかな。こんなアニメ他にない。
ということで、
『攻殻機動隊』テレビアニメの新シリーズが今日から(TOKYO MX)スタート。
テレビシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』と『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』をリアルタイムで観てなかった僕としては、よだれがとまらん!ってぐらい嬉しい。やばい。楽しみ。
カッコいいにも種類がある。
「カッコいい!」という感覚が好きだ。
カッコよさ、あるいはカッコよさから生じる憧れは、個人を未知の領域へと連れていく。
だから、「なんかカッコいい」は正義だ。
きっとヒントがある、なにかしらのヒントが。
しかし、でも待てよと思うこともある。
「カッコいい」という感覚は、一体なんだろうか、と。
つまり、「カッコいい」と感じるとき、「何に対して」「どうして」「カッコいい」と感じるのだろうか。
「カッコいい!」にも、僕が観測できた範囲だと2通りあって、それは「視覚的にカッコいい!すげー!」と「物語的にカッコいい!やばい!」という感覚。
「物語的にカッコいい!」っていうのは、いつも言ってることなので割愛。
「視覚的にカッコいい!!!」
でいつも最初に思い浮かぶのは、キング・オブ・ポップ=アンディ・ウォーホル。
森美術館でずらりと並ぶ実物を初めて見たときのリアクションがこちら↑
アンディー・ウォーホル展の資料室で、ウォーホルが女性誌を集めていたっぽいことがわかったので、vogueを並べてみた。「カッコいい!(視覚的に)」でしょ。意味=物語は、特にないんだけど、「カッコいい」。そういうもん。
アメコミは個人的に「カッコいい」のかもしれないので、「物語的にカッコいい」に近いかも。
カッコいい。
カッコいい。
…「カッコいい」?
この差は一体なんだ?という話。
あと、ふと思い出したんだけど、映画の予告編を見て、「なんかえらく無駄にカッコいい映画やなー」と思った映画。
以下、 google様で「かっこいい」で画像検索した結果。
まあ、「カッコいい」わな。
おまけ。
でも、こういう「カッコよさ」を求めているわけじゃない。お察しの通り。
最近、雑誌のレイアウトとか広告とかのビジュアルを考える機会が多いんだけど、そこにも「カッコいい」があります。「カッコいい」雑誌、「カッコいい」(を狙った)広告。あるいは、すごく個人的な話をすると、美術書とか美術カタログって「カッコいい」んです。それは、作家さんの市場価値を上げようと思ったときに、ペラペラなチラシみたいな美術カタログ・作品図版じゃブランディングとしてダサいからで、「カッコいい」デザインとか重厚な雰囲気とかにして高級感とか権威性を演出する。
えっと、まあ何が言いたいかっていうと、「カッコいい」をもっと追究してみようかなって話。特に、イラスト的な「カッコいい」は難しいので、デザイン的な「カッコいい」を。そうすると、タイポグラフィーが重要になるのかも。
自分が「カッコいい」と感じたモノを「カッコいい」デザインで紹介したい。
そして、「カッコいい」という憧れは、未知の世界への鍵になる。
美術書みたいなカッコよさも大事だけど、インテリ・お洒落な感じのしない、ちょっと泥臭いというか冒険の匂いがするような「カッコいい」デザインを考えてみたい。
それはきっと、ワクワクするような「カッコいい」だ。
SF的想像力の死、あるいは個人的想像力のスゴさ
「SF的想像力は死んだ」
なんていうフレーズが頭をよぎった。
それは、
をせっかくだからとボケっ―と観つつ、
故人のDNAを木に埋め込んで「生きた墓標」にする « WIRED.jp
バイオアーティストの福原志保さんの活動に
「おおーーー!!!すげーーーー!!!!」とテンションあがっているときだった。
結局、Googleが目指している世界は、映画『ブレードランナー』あるいは『スタートレック』、『攻殻機動隊』が提示した未来像の後追いでしかないんじゃないか、そんなことを考えた。Googleという知と金が集う大組織だったとしたら、もっともっともーーーっとスゴイモノが出てくるに違いないという大きな期待。今のところは、想像の範囲内だった。未来はきっとこうなるだろうという予想の範囲内だった。
(映画『ブレードランナー』)
「脳」の現在地がどこなのか知りたくて、ミチオ・カクの別著作がおもしろかった記憶があったので、途中まで読み進めているコチラの本、「脳の未来」についての本。今のところ、想像の範囲内。予想の範囲内で「未来」はやってくるようだ。
すごくワガママだけれども、
もっと僕の脳内を「スパコーーーーーーン!!!!!!」とぶっ飛ばしてくれるような「未来」はないのだろうか。
『フューチャー・オブ・マインド―心の未来を科学する』が、僕にとって未来の再確認でしかなかったのは、自分自身で「脳」について人並み以上には勉強しているからだろうとも思う。つまり、知識を得さえすれば、程度の差こそあれど、「未来」を想像することができる。
SF的想像力は、そういう「A=B、B=C、だからA=C」という思考の流れでしかなくて、「A=B、B=C」を知らない人からすると、いきなり「A=C」を提示されてしまうと「ドッヒャーーーーーー!!!!!」とぶったまげる。
『ブレードランナー』
『スタートレック』
『攻殻機動隊』
がやったことは、
いきなり「A=C」を映像で魅せるという衝撃だった。
もちろんそれはそれでスゴイことなんだけど。
しかし、究極のROM専な私からすると、
(あるいは、フィクションで「未来」にずっと触れていた私からすると)
「もっともっともっとオモロイもんはないんか!」と叫びたくなる。
(「自分でやれ!」というのは勘弁してください)
そう思ったときに、ふと意識が向くのは、やっぱり「芸術」という領域。
バイオアーティスト・福原志保さんの研究作品を知ったときの衝撃。
ヘイワードギャラリーでマーティン・クリードの『MOTHERS』と遭遇したときの衝撃。
東京国立近代美術館でジャクソン・ポロックの大作と出会ったときの衝撃。
「科学=SF」に「芸術=個性」が加わったとき、もっともっとスゲーもんが出てくるんじゃないかという期待。
「個性」というブラックボックスがおもしろすぎる。
最近、外食の回数が減ったのだけど、それは「美味しいモノはお金を出せば食えるし、たいていその美味しさは想像の範囲内だから」かなと考えている。その一方で、自炊は楽しいし回数が増える増える。それは美味しくできたときの「この私がてきとーに作ったのになんか美味かったぞ…!?」という驚きが好きだからだ。
ビジネスでの成功者が、芸術に興味を持つという話を(どこかで)聞いたことがある。ひとつの天才のスタイルとして、「知識量と演算能力がアホみたいに高い」というタイプが(僕の中に)あって、つまり「1を聞いて10を理解するタイプ」なのだけど、そういう天才たちはきっとビジネスで成功する。だけど、そういう天才たちって、もうこの世界そのものが(ある程度)想像の範囲内になっちゃうんだろうなとか思うわけで。
だからこそ、「芸術」という知識量と演算能力(=SF)だけじゃ到達できない世界に興味を持つのかもしれない。
そもそもフィリップ・K・ディックやジーン・ロッデンベリー、士郎正宗にとっての芸術がSFだったのだと思う。
ひとが造り出した場所の中で、もっとも美しい場所であると確信する - ぐちゃぐちゃと書き殴る。
浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』第2巻・感想!
はい、キマシタ。
浅野いにお最新シリーズ『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の第2巻です。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 2 (ビッグコミックススペシャル)
- 作者: 浅野いにお
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2015/02/27
- メディア: コミック
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第1巻については、もうこれでもか!とばかりに当ブログでもべた褒めしているのですが、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』でぐぐると、検索結果の1ページ目にその前記事が登場するという怪奇現象が起きてる。「Oh...」と、なんだか背筋がピンとなりますね。居住いを正すなど。だって、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(以下、『デデデデ』)に興味を持って検索をした方々が、前記事を参考にして購入するかどうか決める(かもしれない)じゃないですか。「んな責任重大な…」と感じながらも、
以下、『デデデデ』第2巻の感想です。
『デデデデ』は、21世紀という現代社会が生み出した、あるいはその21世紀を生きる漫画家・浅野いにおによる「第2の『寄生獣』」になるかもしれない。
なんてことをふと思いました。ほんのちょっとだけ。
いやはや、言わずと知れた名作・鬼作な『寄生獣』なんですが、だからと言って「『デデデデ』は人類批判の漫画だ!」とかそういうわけでもない。現代社会において“そこ”を主題にして取り上げちゃうとすごくチープになっちゃうから。でも、『デデデデ』第2巻では、『寄生獣』の要素・モチーフが「『侵略者』たちが人間のふりして社会に紛れ込んでるのかもしれない」という台詞や謎の少年の描写などから時々見え隠れしていて、浅野いにお自身も多少は意識しているんじゃないかなと、なんとなくふとそう思っちゃったしなんだかキャッチーだからそのアイデアをそのまま書いちゃいました。
だから、正確に言うと、『寄生獣』=「侵略者と人類」漫画であるとして、『デデデデ』は浅野いにおが「侵略者と人類」という物語を描くとこうなる、みたいな漫画かなってことで。もちろん、人類と侵略者を対比してそこから何が浮き上がってくるのかということはまったくの別問題ですが。
あと、ドラえもん的要素も相変わらず健在です。むしろ、『いそべやん』という漫画の中の漫画の話だったモノが、おんたんたちパートにも浸食し始めている(かも)。
ということで、『デデデデ』2巻は、1巻の延長・深化で、とりあえず登場すべきキャラは全員登場したかな?という印象。新キャラは、ソニーを想像させるような企業の広報を担当しているソバカス素朴系女子(であり、渡良瀬先生の彼女さん)と、その辺のキナ臭さを嗅ぎまわる若手ジャーナリスト、駿米大オカルト研の青年、あと1巻でキホちゃんと付き合った小比類くんがむちゃくちゃキャラ立ちし始めた。いいぞ、もっとやれ。
1巻登場のキャラたちも第2巻でだんだんと輪郭がはっきりしてきて、その2巻のラストがもう日常終了のお知らせなので、3巻からいよいよガラリと物語が動き出すかもしれない(し、結局動き出さないかもしれない…!)。なんにせよ、1巻で衝撃を受けた「過剰なリアリティ」と「女子高生たちの可愛さ」は相変わらずで、そんな彼女たちの日常が描かれているわけですから、「そのネタ知ってるニヤニヤ・ああ、そりゃそうなんだよな…そうなんだけど…」という快感と違和感がぐちゃぐちゃと僕の心を刺激するし、攻撃するし、そこで「侵略者というファンタジー」が加わるもんだから、もうね、ナニガナンダカワカラナイヨ! でも、まあ、とりあえず「むちゃくちゃおもしろい」ってことだけは確かです。
2巻を読んで思ったのは、浅野いにおワールド(=浅野いにおの快感原則)が、『おやすみプンプン』・『ソラニン』・『うみべの女の子』・『その他各種』を経て研ぎ澄まされて、ひとつの漫画の中で再構築されているのが『デデデデ』なのだと思う。
個人的な話をすると、
テクスチャー(肌触り)を楽しむということ。 - ぐちゃぐちゃと書き殴る。
でも書いたように、細かさ・ディテールの積み重ねによって、その世界の美しさやその世界の肌触りが立ち現れるモノだと私は思っている。つまり、『デデデデ』には、浅野いにおワールド(=浅野いにおが見ている世界=興味関心好き嫌い)が、描写にしろ台詞にしろ設定にしろ、ありとあらゆるところで、過剰なほど細かく詰め込まれている。
そうすることで、漫画の中に立ち現れる「何か」。
その「何か」に僕はもう夢中になっているんだ。
おんたん・門出たちが現代的な会話によって繰り広げるなんだか楽しげな世界や「人類 vs 侵略者」という状況でシュミレーションされ得るリアルで不穏な世界など、そういったいくつかの細かい世界が組み合わさって成り立っている浅野いにおワールド。
2巻前半のキホちゃんと小比類くんとの会話なんて見事だなーと思う。
絶妙な加減で、女子高生の日常と「人類 vs 侵略者」の世界が混ざり合っている。
それは「サブカルにおけるにわか問題」でも「侵略者・A線を巡る陰謀論説」でもなくて、浅野いにおワールドにおける細かさ・ディテールの問題である。そして、このディテールがやばい(ボキャ貧)。『デデデデ』は、もちろんストーリーがあるし、それもだんだんと動き始めて楽しみなのだけど、まずはその世界情報量の多さに読めば読むほど圧倒される。
そして、なによりも「おんたん可愛い!」し、『イソベやん』って『ドラえもん』と『サザエさん』(磯野家)のオマージュで、どちらも日常系の二強であること、そして、インタビューでアニメ『けいおん!』について触れていること、から考えると、非日常的世界で日常系というジャンルを展開する(…!!)というなんともぶっ飛んだ作品になるかもしれない。第3巻がどうなるのか、あるいはその先の展開など、『デデデデ』がどういう方向性の漫画になるのかむちゃくちゃ気になるところ。
とにかく門出とおんたんのLINEスタンプはまだか。
美大の卒制展で「作品」を撮ってみた。
カメラの練習で、五美大展行ってきました。
自分が「いい!」と思ったモノの良さを、ありとあらゆる方法で説明できたらいいなーと思うわけです。
一応補足すると、「多摩美術大学、女子美術大学、東京造形大学、日本大学芸術学部、武蔵野美術大学」以上5つの美大による美大生のための卒業制作展のことを「五美大展」と言うわけです。
日本の美術館の展示は基本的に撮影不可が多いんだけど、五美大展は撮影OK!ってことで、フラフラと行ってまいりました。以下、淡々と撮影したモノを並べる。
カメラを購入するときにふと思ったのが、「マチエールを撮りたいな」と。
僕が「絵っておもしろなー」って感じたひとつの理由は、この「マチエール」だから。どんな大作であろうと、この絵の具ひとつひとつの積み重ねで絵画は生まれる。それってなんかすげー。あと、これはもう言葉では説明しづらいんだけど、ヌメっとかベタっとか、そういうのがなんか好きなんですよ。この質感にハマると、陶芸とかももれなく興奮できます。
映画『アメリカン・スナイパー』の感想。それがお前の宗教か
映画『アメリカン・スナイパー』は、その予告編にすべてが現れている。
「見えない。判断しろ。」という命令はとても象徴的な言葉だ。
この映画は「人間の根本的な弱さ」を描いた作品。いい映画です。
さて、さっそく観てきました、映画『アメリカン・スナイパー』。
公開2日後の映画館に足を運ぶとか初めてすぎて緊張した。人多すぎ。むっちゃそわそわした。
だがその中で一つだけ例外がある。
それはスナイパーだ。
狙撃には、その行為自体に始めから名刺が付いちまってる。
だからスナイパーだけは捕虜になれない。
自分達の仲間や指揮官を殺した仇として、必ずその場で殺される運命だ。
byサイトー『攻殻機動隊』より
スナイパー。
あるいは狙撃手。
凄腕と呼ばれるようなスナイパーは敵兵士にその気配を悟られることもなく、一撃でその命を奪い去る。彼らがフィクションであれなんであれ、その戦場での無敵感はむちゃくちゃカッコいい。息を殺して銃を構えて、その狙撃音と同時に着弾、血飛沫が舞って、敵兵士は崩れ落ちる。それはもう一瞬の出来事で、スナイパーは、地面にぐらりと倒れる敵兵士の姿を眺めながらも次の狙撃に備えて事務作業のごとく淡々と排莢と再装填を済ませる。
ある種の殺戮マシーンのように、自分の感情を一切差し込まないような冷静な動作と、狙撃という一連の動作によって生じる機械音と、薬莢が地面に落ちて響く「チリンチリン」という落下音と、そういう狙撃の描写には、あまり褒めすぎるのはよくないんだけど、ちょっとしたカッコよさを感じる。(もちろんフィクションとして)
映画『アメリカン・スナイパー』は、160人を狙撃した凄腕スナイパーの伝記映画だ。 クリス・カイルというそのアメリカ人は、2003年から始まったイラク戦争において「伝説」と賞賛されるほどの大活躍を見せる。上映中もその腕前の数々を拝見できるわけですが、それにプラスして、てっきりスナイピングの地味な場面がずっと続く映画かと思いきや、地上戦というか突入シーンというか、激しい銃撃戦もあったりするので、戦争映画としても見ごたえ十分。同時に、戦争によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)がクリスの心を蝕んでいく様子も描かれる。
クリス・カイルの人生は「(戦況が)見えない。(自分で)判断しろ」という言葉を転機としてガラリと変わる。「160人を狙撃した」という英雄的事実も、PTSDが心を蝕むという悲惨な現実も、戦争という圧倒的な暴力を前にして「クリスが心の拠り所としたモノは何か?」という疑問とその答えに起因する。依存している、と言い換えてもいい。
「それがお前の宗教か。素晴らしい考え方だ」
と、アニメ『BLACK LAGOON』において我らが姉御バラライカ大尉が仰っておりましたが、その称賛は「人を殺せば殺すほど、永く生きることができる」と語ったヘンゼルちゃんに放った言葉でした。
ユダヤ人の大量虐殺を指揮したアドルフ・アイヒマンは、仕事として、つまり世紀の大悪党ではなくて命令に従うだけのただの小市民として、その大虐殺に加担していたと哲学者ハンナ・アーレントは指摘しているが、人間としての尊厳を持った他者を殺すとき、「命令だから殺した」「上官に撃つように言われたから撃った」という歪んだ自己正当化は、加害者の精神的抵抗と重圧を和らげる。こういうネタが好きな人間なら誰もが知っているミルグラム実験がそれを証明している。
仮説だけど、人類は自分以外の“大きな何か”に選択の決定理由を依存したがる。戦争という極限状態で「殺せ」と命じられた場合、「殺せと命令されたから殺した」と納得できる理由がある。自分の感情が抱いたぐちゃぐちゃとした違和感を、ひとつの言葉に固定化して、どうにかして落ち着かせる。
しかし、「見えない。(自分で)判断しろ」という命令はどうだろうか?
命令ではなくて、自分の判断で殺すかどうかを決めるということは、
「他者を殺した」という事実を自分ひとりで背負うことになる
結局、クリスは「上官の命令」とはまた違うモノに依存し始める。
それは「敵を射殺する=祖国を守る」というある種の“宗教”(=心の拠り所)だ。
そして、「他者を殺した」という罪悪感から自分自身を守るためだ。最初の射殺を正当化するために、狙撃をまた繰り返す。なんどもなんども、殺せば殺すほど罪悪感から解放されるという奇妙な構図が出来上がる。(特にクリスの場合は、その“最初”が重要だった)
しかし、戦場以外に自分の罪を正当化できるモノはないし、そもそも「他者を殺すこと」はどうしたって正当化できるモノじゃない
だから、壊れる。
クリスが「米国のために戦っているんです」と誇り高く語るシーンは、各所で「戦争礼賛映画」と批判されているのだけど、私には自分の戦争行為を肯定するために「愛国主義」という概念に必死になってすがりついているように思えた。それを信じなきゃ、信じられなきゃ、引き金を引くことなんてできやしない。
狙撃するたびに何かに堪えるかのように俯いていたクリスの姿が、僕の脳裏に焼き付いて離れない。
『アメリカン・スナイパー』は「英雄」の映画じゃない。
戦争という残酷現象が生み出した「モンスター」の話だ。
それも、同時に、環境次第によって人間であるならば誰だって、自分の存在証明のためにひたすら他者を殺戮するようになるという「あなた」や「私」の物語だ。
「160人を狙撃した」とか「ひとりの優しい父親」とか、そういった言葉が映画の紹介として並んでいる。あるいは映画批評で「戦争礼賛だ!」とか「いや、戦争批判映画だ!」とか言われている。だけど、たぶんきっと、『アメリカン・スナイパー』はもっと「私たちにとっての映画」だ。日々を何気なく過ごして、誰かを愛して、些細なことに幸せを感じている、そんな「私たち」に訪れるかもしれない「人間の弱さ」についての映画なんだ。
クリス・カイルという“個人”が特別なんじゃない。
いくつかの外的環境という“条件”すら揃ってしまえば、ちょっとした偶然の積み重ねによって、いつだって私たちも“クリス・カイル”になれる。
戦争映画好きも楽しめて、そうじゃない人にも観てほしい。
そして、「自分の正義を無意識が勝手に構築し意識がそれにすがりつき、そっちに突き進んでしまうことでどこか狂気を孕み始める個人」という僕の大好きで大切なひとつのテーマを、僕の快感原則を、「ああ、なるほど」と映画を通して触れてほしい。残酷描写が多い映画ですが、そこは薄目でちらりと覗く感じで、映画『アメリカン・スナイパー』をどうぞよろしく。
映画『ハングオーバー』のフィルか!途中まで全然気付かなかった…!
Myブームはナカノヒトヨ
僕の快感原則を満たしてくれるモノはいつだってHAPPYだ。
自分という人間が無意識にしがみついている「快感原則」を、より補強してくれるような言葉に出会ったとき、この上ない喜びと安心感を得る。それは、誰かと、あるいは何かと繋がっているにちがいない!という人類にだけ許された(課された)喜び。なのかもしれないぞ!
たとえば本当にヤバいもの・エモいものは、突き詰めるほどスピってくから危険だ。真理に近づけば近づくほど、現実や社会からは遠ざかる。しかしそのドアをノックせずして、本質を掴むアートやイノベーションは生み出せないのもまた事実だ。
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) 2014, 12月 7
ヒトの能力は無限大といいながらも、死後や宇宙などあらゆる思考の深みにみは、必ず「これ以上先へは行っちゃダメだよ」というストッパーがかけられている。だからあなたが努力でいける範囲には、はっきりいって限界がある。(それゆえに禁断の果実もまた存在する。)
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) December 7, 2014
そのストッパーを天才が、あるいは禁断の果実が外してしまうとどうなるか?ミレニアム問題に挑んでたくさんの数学者が精神病を患ったり自殺したように、ヒトが身体(ハード)の限界を超えてしまうと、それはやはり崩壊を起こす。ベンジーは「ヒッピーの最終系は自殺」といった。
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) December 7, 2014
映画『コンタクト』で研究者のエリーがワームホールをくぐったあとに口にしたセリフは「言葉では表現できない」「詩だわ」「詩人を乗せるべきだった」。テクノロジーの発展とともに必要とされるのは、詩人だ。詩は、完全非言語化(ポストヒューマン)にいたる前のヒトにとって、最後の表現手段。
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) January 20, 2015
私が行ってる行為を一言でいい表すなら、それはトランスメディア・ストーリーテーリング。作家が物語を綴りそれを各々が語るのではなく、断片化した個々のストーリーをそれぞれが綴っている(綴っていた)ことに気づかせる=偶然ということばが存在しないことを気づかせる行為です。
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) February 7, 2015
これまでの時代はいわゆる「いっちゃってる人」を嫌遠する風潮が強かったけれど、これからは「たどり着けていない人」が置き去りにされてしまうから、私はできるだけ多くを誘うためにことばを使いたい。
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) February 8, 2015
スキルよりも人間性。交渉術よりも愛。己だけに課された信念・使命を持って、人生の物語(役割)を綴っているかがなによりもたいせつ。
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) February 8, 2015
あなたはタイムラインを、この世界を、目ではなく心というフィルターを通してみている。そのフィルターが曇ってたら、情報や景色が汚くみえてしまうのは当然のこと。まずはそのフィルターを掃除する作業から入ったほうがいい。世界は鏡。そして世界を作るのはあなたの知識と経験。日々の選択と行い。
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) February 10, 2015
漫画『火の鳥』のなかの一編のように、あなたはこのターンの人生の役割にもっと目をみはり、もっと耳をすます必要がある。それは数多と溢れる情報のなかから、あなたが「なに」に心惹かれるのかで、すぐに判断できる。ごまかすのは罪だ。それがあなたの過去であり、未来なのだから。
— なかのひとよ|Evolution (@Hitoyo_Nakano) February 21, 2015