『ゼロの未来』が良さげ

 

うおおおおーーーーー!!!またキターーーー!!!!!!!

むっちゃおもしろそーな映画!ビジュアルやばい!開始10秒くらいのシーンとか、素敵すぎる!世界が想像する未来像は、映画『ブレードランナー』でしかないと思うのだけど、軌道修正するとしたら、映画『ゼロの未来』みたいなビジュアルかもしれない。暗くてテクニカルじゃなくて、ポップで軽薄でエンターテイメント。

 

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映画『ブレードランナー』のワンシーン

 

とにかくビジュアルがやばい(そもそも予告編だとそれ以外に評価できないんですけどね)。ゼロを解明する(と思われるゲーム?)世界の感じもすごくいいし、Minecraftっぽくて、ベインズリーのキャラデザもなんかちょっと古臭くていい。まあ、もちろん「ゼロ」についての映画っていうのも哲学好きにとってはすごく気になるところ。5月上映の映画ですが、今から楽しみ。

 

『Project itoh』劇場特報

『Project itoh』

 

続報キターーーーーーーー!!!!!!!!うおおおお!!!!

それぞれの作品のアニメ映像の最新バージョン!!!

屍者の帝国』の映像は初ですか。いいですね。やばいです。

輪郭が濃い感じの作画がなんかもう最高すぎますね。英国感万歳。

虐殺器官』の14秒のところの映像とか、クオリティ高すぎてプロジェクトの本気度がビンビンと伝わってくる。

 

私が伊藤計劃信者であるという贔屓目をなくしたとしても、この3作はアニメ映画史上に残る名作揃いになるのでは…映画マニアの伊藤計劃の小説作品を映画化しよう!だなんてスタンスですから、下手なもんは作れんでしょう。むちゃくちゃ楽しみでならない。わーい。

ヒーローに救われた少年はずっと少年のままなのか。


QREATOR AGENT INC.

 

わーーーーーーーーーー。

すっげーいい会社だ。QREATOR(クリエイター)の総合営業代理店。

かっこいい…。定義は違うけど、QREATOR≒HEROみたいなもんだと勝手に脳内補完した。少なくとも、「モノ」を創る人たちってところで、そのチョイスがいい感じすぎる。

青木俊介 ロボットクリエイター/ユカイ工学株式会社 代表取締役

川原あやか お姫様プロデューサー

草彅洋平 編集者/株式会社東京ピストル 代表取締役

佐渡島庸平 編集者/株式会社コルク 代表取締役社長

大五郎 書家(書道研究途上社代表、早稲田大学嘱託書家)

田中紫紋(映像作家/デザイナー)

中村洋基 PARTY クリエイティブディレクター

のぶみ 絵本作家

ハヤカワ五味 ファッションデザイナー

(以上、一部)

 

しかも、けっこうガチ勢。

 みなさん、『ヒーロー見参!!』で特集したいレベル。

 

ありとあらゆる世界において、新しい、そして驚くべき「モノ」を創る「ぶっとんだ人」。
そんな人たちのことを、僕たちはQREATORと呼ぶことにしました。
起業家、職人、ファッションデザイナー、学者、医師、漁師、作家、芸術家、アスリートなどその職業の種類に関わらず、見た人を感動させるきめ細やかな作品を創っている人。
社会のなかで当たり前とされている価値観をがらりと変えてしまうサービスを創っている人。

 

ADVISERとして尾原和啓さんと四角大輔さんっていうのもなんかもうすげー。

代表の方も、元々よしもとで芸人さんたちのプロデュースをされていたらしい。

実力もあるのかー。

 

ネットの海の、そのまた片隅で、ああでもないこうでもないと自論をこねくり回すよりもまず先に、こうやって実行して発言した方がカッコいいよなー。

 

うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。

僕にとってのHEROのために、僕に何ができるだろうか。

編集とは何か。

 


『ヒーロー見参!!』簡易バージョン - ぐちゃぐちゃと書き殴る。

 

とりあえず、これカッコいい。


Brooklyn-Based Artist Dustin Yellin Takes Over The New York City Ballet

マイブームは、井上有一。


井上有一 展 2013 | Tomio Koyama Gallery

 

あと、やっぱり坂口恭平さんはyappariカッコいい。


現実を脱出するために――「思考せよ」と恭平は言った【第1回】|坂口恭平のつくりかた|坂口恭平/九龍ジョー|cakes(ケイクス)

 

 

芸術とは、自分にとっての現実を他人と共有する行為?


Out of Sight (敲敲) - YouTube

 

Great!!

すっげーいい。

この世界はなんだって思いのまま(なのかもしれない)。

地面を掘るペリカン

道路を走るサカナカー。

青い空をゆらゆらと浮遊する巨大クジラ。

 

映画『インターステラー』から、SFにおけるヴィランとは?

書こう書こうと思いながらも1ヶ月ほど経っちゃいましたが、映画『インターステラー』についての感想と、SFにおけるヴィラン(悪役)とは誰かという話をして、「だからSFっておもしろいよね!」ということを書きます。

 


映画『インターステラー』最新予告編 - YouTube


映画『インターステラー』オフィシャルサイト

 

 ストーリーとしては、まあきっと大方の想像通りで、地球が滅亡しちゃうから優秀なお父さんパイロットが娘を残して人類を救うために宇宙へと飛び立つっていう感じで、現代版『アルマゲドン+21世紀宇宙の旅』と言ったところでしょうか。細かいところで色々と言いたいこともあるのだけど、極限状態での人間のちっぽけさとか、アンハサウェイと同じ宇宙空間で何十年何百年も一緒にいるってむちゃくちゃ幸せじゃね?とかあるのだけど、とりあえずまともな『インターステラー』論としてはコレ↓がいいと思う。


思想家 東浩紀が感動した父娘の物語『インターステラー』の到達点 - 映画インタビュー : CINRA.NET

いつか、映画監督という映画製作の流れで映画論を書いてみたいもんです。

一応、偶然にも、『メメント』も『インセプション』も『21世紀宇宙の旅』も観てるんだけどなーー、映画監督という視点は一切抜けていた時期なのでサッパリわかんなかった。

 

さて。

僕が語れるのは、ヒーローについて。

そして、ヒーローにとっての(皮肉にも)存在証明でもあるヴィラン(悪役)について、だ。

物語のあるところに、必ずこのヒーローvsヴィランの対立構造が現れる。

 

インターステラー』のヒーローは、当然ながら、宇宙飛行士のクーパー。

そして、上映中にこの映画のヴィランを認識したとき、背筋がゾクッと震えた。地球滅亡というのもストーリー上のヴィランになりえるが、クーパーにとって最も大切なのは、自分の娘であるマーフであり、極論、地球よりもマーフだ。マーフが生きてさえいれば、地球がどうなってもいい。

だから、クーパーの娘に対する愛に共感している僕が思わずゾッとしたのは、「地球外での1時間が地球での7年分に相当する」というどうしようもない事実だった(正確にはとある惑星での時間だが)。つまり、映画『インターステラー』に登場するヴィランは、「1時間=7年」という残酷にも呆気なく過ぎ去る時間だった。父親のクーパーが宇宙へと飛び立ったとき、マーフは10歳である。80歳で死亡すると仮定して、タイムリミットは70年=たったの10時間だ。最初の惑星でそれを自覚しているがゆえに焦るクーパーの姿を見せつけられ、「時間の経過」という人類には到底手も足も出ないような事象の恐ろしさを改めて痛感した。ほんとうに、痛いほどに。

そして、さらには、その極めつけは、(詳しいトラブル・状況は忘れたけど)現状打破の解決策を必死に模索するクルーたちの熱い議論の果てに叫ばれた言葉、「次元を超えるしかない…!」という結論、とその絶望感。マーフを救うには、4次元に生きる人類が5次元に到達すること。しかも、今すぐに。もうなんかその結論が出ちゃった瞬間に涙が溢れてきちゃって、「ああ、もう…なんなんだ、ちくしょー…」と、立ちはだかるヴィランの絶望的な強さには無力感しかなかったよ。

 

映画『インターステラー』のヴィランとは、そういう「物理法則」であり「科学」だ。そしてそれは同時にSFにおけるヴィランでもあり、SFのおもしろさはココにある。つまり、SFとは(言うまでもなく、今さらだが)Science Fictionなのである。Scienceとは「①A=B、②A=C、③B=C」の世界であり、人類がどんなに「B=Cは嫌だ、頼むからやめてくれ…!」と言っても、どんなに父親が娘に対する愛を叫ぼうとも、「いや、B=Cだから」と冷たく突き放す世界だ。SFは物語を科学的に構築する。科学的検証によって出された結論はむちゃくちゃ正論で、もうそれしかないという結末だ。たとえその結論が人類の感情としてどんなに許容できなくとも。その残酷さがSFのおもしろさだ。「A=B、A=C、だからB=C」というある種の暴力性が、SFにおけるヴィランの圧倒的な強さと立ちはだかる絶望感となる。

 

「いやそうなんだけどさ…、」という葛藤のような心境、SFは人類の(特に僕の)心をむちゃくちゃにぐちゃぐちゃにする。それがまた中毒性があって病み付きになるのだけど。SFのおもしろさは、「SFはもしもの世界」であったり、人類あるいは生命規模というストーリーとしてのスケール感があって「自意識を吹き飛ばす装置」としてはむちゃくちゃ優等生だったりと、色々と他にもおもしろい要素があるわけですが、映画『インターステラー』を観て、SFにおけるヴィランとその絶望的な暴力性を痛感したので、今回はその魅力を少しでも伝えることができたら嬉しいなああー、と。

 

ちなみに、SFの暴力性という意味でのオススメは、

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 

 と、

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 

 

アート業界をゲーム化しちゃえばいいのに


「刀剣乱舞」人気で爆発的売れ行きの「名刀伝」 通常の5倍もの大規模重版が決定 - ねとらぼ

なんやこれ。、すごいな。

艦これ』に続いて、名刀バージョンで女子向け。関連本バカ売れ。すげーな。

なんというか、巷には「現代アートの入門書」みたいな本が「おいおい、またかよ…」ってぐらい量産されていて、その量は「現代アート、ムズイ…ワカラン…」と言われる風潮をどうにかしようと頑張っている方々に比例していると思うのだけど、でも『艦これ』とか『刀剣乱舞』とかみたいにゲーム化しちゃった方が早いんじゃないかな。

芸術家の方々って、『HUNTER✕HUNTER』の念能力者は芸術家である。 - ぐちゃぐちゃと書き殴る。でも書いたように、むちゃくちゃ物語化しやすいと思うんですよ。作品名がそのまま必殺技になるし作品はビジュアルとしてもかっこいいし、以前にも言ったけど、『ダダハナニモイミシナイ』という意味破壊装置によって攻撃するトリスタン・ツァラと、「私たちはその人生に自分自身で意味を見出して生きていかなきゃいけない」という『実存主義』を唱えたサルトル(は、哲学者だけど)とのバトルとかめちゃくちゃ観たいわけですし、そういう対立構造みたいなのって美術史にはわんさかあるわけじゃないですか。みんなが「ワカラナイ」というアートの文脈を、少年漫画的な物語としてもういちど見せる。芸術家=ヒーローなわけですし、「ちょwwwおまwww」みたいなおもしろいエピソード持ってるじゃないですか。「誰だれの影響を受けた」「未来派からダダイズムへ」みたいなのはデジモンみたいにしてもいいし。

 

著作権とかむちゃくちゃ難しい問題が転がってそうだけど、そういうのもアリだと思うんですよ。西洋的なアートの浸透ってたぶんもう無理で、日本人にとってはストーリーとしてのアプローチの方がしっくりくるんじゃなかろうか。

何かを作るのは予想以上にやっぱり難しいよ

挫折しそう。

伊藤計劃のようなSF小説を書くんだ!」と豪語して数カ月。ストーリーはもうできているので、ディテールを補完しつつあとは書くだけなんだけど、むちゃくちゃ挫折しそう。何がやばいかっていうと、今さらなんだけど、「いい文章ってなんだろう」っていうこと。そのシンプルだけどアホみたいに難しい問題に当然のごとくぶち当たって、ああでもないこうでもないとひーひー言うております。

 

っていうか、「芸術とは何か」という疑問からスタートしていることもあり、「いい文章」はちゃんとわかっているんだよ。それは(僕にとっては)伊藤計劃のような文章だ。しかし、お察しの通り、いざ自分が文章を書こうと思ったときに、その伊藤計劃のような文章が出てくるかというとそんな単純な話じゃないわけで。だから、『虐殺器官』を読んで、その書かれた文章の何が伊藤計劃の文章として機能しているのかということを研究しないといけない。いい悪いの判断は感性的だけど、生み出すときはまず理性的な作業が必要なのだと思う。重要なのは、感性は教育できるということ。反復練習によって、おそらく脳のシナプスの繋がりを自分好みに編集できる。

 

自分で文章を書くことで、「いいモノを観ろ、本物を体験しろ」と言われるその理由がよくわかった。自分が書いた文章に対するいいか悪いかの判断は、自分が観て聴いて体験したこと以上のモノは出てこない。知識も同様だ。当たり前だけど。アイデアがふと思い浮かんだとしても、「ああ、あのときの知識だ」とか、あるいは「ああ、あれとあれの組み合わせだ」とか、そういうリアクションしか生まれない。そうときはいつも知識の壁のようなモノを感じる。自分の中にあるモノの限界を、物理的なイメージ(矛盾)の壁として触れている感覚。知識の檻に閉じ込められているような。知識を増やせば増やすほど、その檻がどんどん壊されていってきっとおもろいモンができるだろうと思ったりもする。

 

これまた伊藤計劃の「意味をあざ笑うレイヤー」という話だけど、僕らが文章を読むとき、物語の流れというレイヤー以外にもっと別のレイヤーも受け取っているんだろうなと思う。それはつまり空気感とかそういうモノであり、文章のディテールに依存している。細かい人物・背景描写ということではなくて、「選ぶ」なのか「選択する」なのか「チョイスする」なのか、ということ。テクスチャー(肌触り)を楽しむということ。 - ぐちゃぐちゃと書き殴る。で、語ったような細かさは小説も同じだ。とか言いつつも、言うのは簡単だがやるのはむちゃくちゃ難しい。締切もあったりと「間に合うかな…」という憂欝感と焦燥感にやられてもうテンションだだ下がりですが、やるしかありません。