一応、本家こっち↓
装幀家:水戸部功 | ヒーロー見参!!
【深は新なり】
何か新しい事をしようとしてむやみに足を埒外に踏み出すのは危険なことである。それよりも自分の携わっておる事、研究しておる事に専心して、深く深くと掘り下げて行くことによって、其処に新しい水脈が発見されて来る、その事が尊いのである。
「深は新なり」とは、俳人・高浜虚子の言葉です。
僕はこの言葉がとても好きだ。すべての新しいモノがそうであってほしいと願う。
「新しいモノは何か?」という疑問から始めるのではなく、自分にとっての興味関心・好き嫌いや問題意識なんかを、ただただひたすら、ただただ静かに、深く深く追求し続けるだけで、知らず知らずのうちに「おいおい、なんだそりゃ」と世界が度肝を抜くようなモノが生まれていた、そんな物語の方が絶対にかっこいい。
今回は、ブックデザイナー・水戸部功。
俳人・高浜虚子の「深は新なり」と「客観写生」という2つの言葉を元にして、ブックデザイナー・水戸部功の仕事と、その美学についての物語を作りたい。
「デザイナー」という言葉を使った方が一般受けしやすいかなと思って「ブックデザイナー」という表記にしましたが、個人的には「装幀家」の方がかっこいいので、ここからは装幀家・水戸部功として話を進めます。
まず、水戸部功って誰?ってことで、その仕事を並べてみる。
ほんの数例ですが、こういったシンプルな装幀が特徴的。
『これからの正義の話をしよう』と『虐殺器官』が代表作かと。
BIRD GRAPHICS BOOK STORE 水戸部功
↑上記サイトは、装幀についてググってるときに偶然見つけたサイト。 素敵な装幀の本が、装幀家のクレジットと共に紹介されている。マニアック路線。気になる装幀家の名前で検索すれば一覧で表示されます。
あと、『NAVERまとめ』でもまとめがあったので、載せておきます。
【本】なんかシンプルだけど目にとまる水戸部功の装丁
本の装幀とは、表紙にイラストや写真を使うことで人々の興味をかき立てるモノだ。しかし、水戸部功は文字だけのシンプルな装幀を手がけている。『これからの正義の話をしよう』などを皮切りに、近年「文字だけ」装幀で書店が賑わっているが、水戸部功はその火付け役とでも言える。新しいスタイルを生み出した水戸部功の発想は、どこから来るのだろうか。
大学時代はメディアアートを専攻していたと言う。
しかし、「本は最も本質的なメディアアートになり得る」として、装幀の世界へと進んでいった。
建築からグラフィックまでジャンルの境界をなくすバウハウスの理念に共感を覚えました。 本はそのちょうどいいバランスがとれるとも感じました。by水戸部功(Pen 2014年6/15号[美しいブック・デザイン])
雑誌『Pen』2014年[美しいブックデザイン特集]にて、「本作りは建築っぽい」みたいなコメントがあって「へー、おもろいなー」と思ったことがあるのだけど、それをふまえてもっと具体的に言うと、本は「劇場」なんだと思う。
つまり、装幀とは劇場をデザインすることに近い。ペラペラとした紙の束があれだけ「ビシッ!」としているのは装幀のおかげ。建築家が安全性や快適性を追求し、人々の生活をより快適なものにするのに対して、装幀家は紙に書かれた文章を保護すること(安全性)をひとつの目的としている。 さらに「この本、おもしろそうだな」と興味を持ってもらえるように外見をデザインすることも大切だ。本は商業的であり、個人宅の建築設計というよりは、商業施設の建築設計のようだ。その上で、本を開き文字を追うことで読者それぞれの物語が始まるのでなんかそれって劇場っぽいな、と思った。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』がふと頭をよぎる。
(http://blog.goo.ne.jp/ichi-ka110_119goo02tb/e/54e93f3529c0389c2af12eb79327d4bf)
映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のワンシーン。これは映画館だけど。
装幀とは、「建築」と「グラフィック」だ。
そして、言わずもがな本は何百年という歴史を誇るメディア媒体だ。
こうして、水戸部功は「メディアアート」というエリアから「装幀」というエリアへと至った。装幀編スタートである。
しかし、何かを追い求めて前進するヒーローの行く手には、それを遮る困難が待ち受けているものだ。行く手を阻む険しい道かもしれないし、凶悪がゆえに敗戦を強いる悪役かもしれない。それはロールプレイングゲームの鉄則だ。だからこそ、装幀ワールドを突き進むと、どうしても避けては通れない強敵が現れる。それは、水戸部功の師匠でもあり、装幀の歴史でもある装幀家・菊地信義の存在だ。
文芸書の装丁でイラストレーションが基準になっていたというのは、要するに鈴木成一さんが基準になっていたということで、その鈴木さんをどう乗り越えるのかは、ずっとテーマにしていることです。(中略)いま鈴木成一さんのお名前を出しましたが、もっというと、その先にいる菊地信義さんを見ているんです。菊地さんが80年代から90年代にかけて生み出した、タイポグラフィや装画とのコラボレーションによる装丁の潮流、それが2000年代に入り、エンタテインメント性の高い作品が主流になるのと同時に鈴木さんがイラストレーションを用いて菊地さんの方法論を現代的に落とし込んだと思っています。by水戸部功(IDEA No.358)
水戸部功と菊地信義は、実際の師弟関係にある。己の師を乗り越えんがために、努力を積み重ねる弟子という構図。「どこのバトル漫画だよ」とツッコミたくなるほどの激アツ展開じゃないですか。水戸部功は、デザインのスタイルだけでなく、その精神性や芸術性までも盗むべく弟子入りを果たした。菊地信義という精神を追求することは、装幀を学ぶということであり、装幀に興味をもった自分自身と向き合うことでもある。
デザインを学ぶというよりは、デザインに惹かれる自分を見つめ、自分のデザインをつくり出していくしかない。by菊地信義(新・装幀談義)
菊地信義にとって装幀とは何か。菊地信義はここで「囲い込み」と「解き放つ」を挙げ、「視覚的な要素で人の目を囲い込み、触覚的な要素で人の心を解き放つ」と語る。例えば、広告ポスターのようなグラフィックの場合、「かわいい」という印象を与えたいとき、「これかわいい!」と誰もが感じる記号(ハートマークやピンク色など)を使う。「ハートマークはかわいい」というような共通認識があるからこそ、デザイナーは「かわいい広告」や「かっこいい広告」が作れるわけである。本の内容が「かわいい」のであれば、表紙にかわいい記号を散りばめることで、書店にて「かわいい」本を求める読者の視線を捕まえることができる。(=囲い込み)
しかし、菊地信義は「囲い込み」のあと、例えば「かわいい」という印象をリセット(=解き放つ)したいと思うようになった。なぜなら、「これはかわいい本だ」と表紙デザインによって本の印象を提示してしまうと、読了後に「なんだ、期待したようなかわいい内容の本じゃなかった」という感想を持ってしまうことがあるからだ。
広告や書評、人のすすめなど、先行する情報が、書店での本との出会いを色づけています。(中略)読んだ人の「感想」にうながされ、読んでみることは悪いことではないのですが、人の「感想」を追体験するだけでは、読んだことになりません。「私」が作品から読み取る、あるいは作品によって「私」から読み出された意味や印象が大切なのです。(中略)しかし、装幀者のイメージだけで装幀された本は、私的な「感想」といってもいい。著名なアーティストの装幀は、それ自体が記号として使われているだけで、書評や広告での出会いとなんら変わりがありません。by菊地信義(新・装幀談義)
また、SF作家で映画ファンの伊藤計劃はこう言います。
映画「ミュンヘン」におけるキャッチコピーにしても、「かわいい」印象を持った装幀の本にしても、あくまでもそれはコピーライターや装幀家の感想でしかない。「あの人はこう思ったみたいだけど、私はこう思った」なんていう感想の食い違いは当然あり得る。菊地信義は「読書とは、詩や小説の言葉から『自分を読む』ことです」と語っているけど、映画でも小説でも絵画でも「自分はどう感じたのか?」ということこそがおもしろい。だから、「かわいい」表紙デザインによって「これはかわいい本だ」と印象付けされた人々を、もういちどフラットな状態に戻す必要があった。そこで「解き放つ」ことが重要になってくるし、菊地信義はなるべく“私性”を排除しようとした。
では、「解き放つ」とは何か。本は「建築」と「グラフィック」なので、立体物であり平面でもある。それぞれ触覚と視覚が重視されている。つまり、目で表紙を見て、手に取って本の質感を感じる。それは表面の手触りや重さ、本の大きさなどであり、人それぞれで体型も身長も筋力も違うからこそ、記号のような“同じ感覚”がない。身体は共通化できない。ある人にとって軽い本は、ある人にとっては重たいし、ある人にとって手に馴染む大きさの本が、ある人にとっては大きくて持ちづらい。本は手に取ることで個人的なモノになる。あるいは、個人的なモノになるようにデザインすることが、装幀家・菊地信義の仕事でもあった。
私は、(中略)文字は装幀を構築する一要素として、まずその意味を主にすえ、書体の印象はほかの要素、図像や色といったものとの関係で考えてきました。しかし仕事をしていくなかで、書体からイメージを消すことができないだろうかという思いが強くなりました。by菊地信義(新・装幀談義)
印象(イメージ)からの解き放ち。それと同時に、菊地信義は装幀家の感想とでも言える“私性”の排除を試みる。文字の意味だけに重点を置いて、余計な印象を与えないようにすること、つまり、タイポグラフィが重要視されることになる。そして、装幀家・水戸部功の美学(興味関心や好き嫌い、問題意識など)も、タイポグラフィに辿り着いた。
一連の文字によるデザインというのは、あらゆる武装を排除したいという意志表明なんです。書体の選定による武装、イラストレーションという武装、ほかにも紙・素材による武装、箔押しなどの加工による武装と、装丁における表現方法として皆さんそれを駆使してデザインされている。(中略)何も身に纏っていない裸の状態で言葉を、つまり書名や著者名、帯文などをそのままぶつけたい。そのことによって、より刺激的にコンセプトが浮かび上がってくる、そういう見え方にしたい。完全なるミニマリズム。by水戸部功(IDEA No.358)
装飾された文字が作品全体の雰囲気をも華やかにしている。
水戸部功が装幀を手がけた書籍『これからの正義の話をしよう』が大ヒットを記録し、文字だけのシンプルな表紙デザインというひとつのムーブメントが生まれた。書店をフラフラと歩いていると、ほかの装幀家たちもイラストレーションをなくした文字だけの表紙デザインを取り入れているのがわかる。それは広告的イラストと文字(タイトルや著者名)という従来の装幀を刷新するような新しいデザインだ。「その新しいスタイルを提案したのが水戸部功である…!スゴイ!」………と言われがちですが、その仕事はすでに菊地信義が行なっていた。
などなど。これらは菊地信義による装幀。この他にも文字だけの装幀はたくさんある。 (ちなみに『考える皮膚』は、水戸部功が影響をうけた装幀だとか)
では、水戸部功の装幀とは何か。
それはタイポグラフィへのこだわりであり、『ゴシック体』の採用である。つまり、文字が持っている「印象」を排除することである。僕個人の感覚としては(そして、僕以外のひともそうだと思うけど)菊地信義が採用した文字、つまり『明朝体』からは、他者を断罪するような力強さを感じる。一方で、水戸部功が採用した文字、『ゴシック体』からは、文字がただそこにあるだけで何かの印象を受けることがない。菊地信義のような動的な装幀デザインに対する水戸部功のような静的な装幀デザインの関係性。かつてのバウハウスが提案し、インターナショナルスタイルとして世界中を席巻したムーブメントが想像される。
装幀界の巨匠・菊地信義は背丈ほどもある大剣を持った鋼鎧の重騎士。長年の経験によって積み重なり、攻防知略戦に富んだ技術と直感は、オールラウンダーながらも、一撃一撃に重さを持った破壊力が込められ、なにものにも臆さない鉄壁となる。一方で、水戸部功は一本槍を片手に振り回し、颯爽と敵陣を走り回るランサーのようだ。美学ともいえる大槍は、たったひとつの戦闘具でありながら、装幀という戦場において一点突破を成し遂げた。
この大槍こそが、水戸部功にとっての「私」なのだと思う。
デザイナーは、クライアントの要望に応えるのが仕事であり、作家性などいらないと言われる。水戸部功自身も「装丁は、個人の趣味や嗜好に依存せず、時代の文化に寄り添い、マーケットのことや編集のこと、さらに作家や版元の歴史はもちろん、自分が装丁する本の著者をどう育てていくかというところまで考える」と語る。
実際、ゴシック体の文字だけによる装幀デザインは、インターネット世代との相性がいいとか、不況の影響で出来ればコストを抑えたいという出版業界のお財布事情とも相性がいいとか、外的要因も大きい。それでも、著者や編集者、版元、マーケットを丁寧に読み取って、装幀という方法でカタチにしていると、その作家性が浮かび上がってくる。
そのため私は、「私」を引いて「他」を生きようと心がけてきました。なぜなら「他」を考えるのも、作品からイメージを読み取るのも、まぎれもない「私」でしかないからです。by菊地信義(新・装幀談義)
それはまるで俳人・高浜虚子の「客観写生」のようだ。
俳句はどこまでも客観写生の技倆を磨く必要がある。その客観写生ということに努めて居ると、その客観写生を透して主観が浸透して出て来る。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって客観写生の技倆が進むにつれて主観が頭を擡げて来る。by高浜虚子(俳句への道)
客観写生とは、花や鳥などの自然の風景を客観的に写し取る(読む)こと。その訓練を丁寧に積み重ねることで、やがて主観、つまり作家性、「個性」が浮かび上がってくる。著者や版元、マーケットにとっていいデザインとは何か?と考えて、それを選択をするのは、まぎれもなく「私」である。その選択の軸がブレないデザイナーの仕事には、意図せずとも主観(私or美学)が頭を擡げて来るのではないか。
「バウハウス」と「菊地信義」という水戸部功にとっての美学。自分にとっての興味関心を追求することで辿り着いた極地、新しいデザイン、新しいムーブメント。「深は新なり」なんだと僕は思うし、僕は願う。 本を読むとは、自分との対話であって、そのために装幀は他者の印象を排除すべきだと菊地信義は考えた。大量消費大量生産の時代の流れにそったシンプルだけど美しいという合理主義・機能主義を追求すべきだとバウハウスは考えた。「すべての造形的作業の最終目標は建築である」としたバウハウスの理念ともあいまって、建築的な「装幀」という場所に至り、菊地信義の美学を吸収して、書籍『これからの正義の話をしよう』の装幀を生み出したのだという「ひとつの物語」を僕は考える。
デザインを学ぶというよりは、デザインに惹かれる自分を見つめ、自分のデザインをつくり出していくしかない。by菊地信義(新・装幀談義)
自分が何に惹かれ、何に心を掴まれているのか。デザインという仕事に限らず、「自分」という個性を深く深く追求することで、見えてくるモノ。それが美学であると思うし、美学をカタチにして、社会との接点を持ちえるようにするのが「芸術」的行為。デザインとアートは別物であると言われがちだけど、根っこのところは変わらないし、それは生き方でもビジネスでもなんでもきっと同じなんじゃないか。
例えば、装幀について色々と調べているときに偶然見つけたこのサイトの熱量がヤバイ。
これはホントスゴイ。ランキング300まであって、ひとつひとつの漫画の装幀に対してコメント付き。毎年やってる。こういう「他人には理解されがたいけど、でも好きだから仕方ない」みたいな状態は、ものすごく健全だし、かっこいいわけです。もっともっとそういうのが増えればいいのにって強く願う。