『読書について』を読んで、東田直樹さんを思い出した。

 

「読書は、僕にとって祈りに近い」

なんてことを感じたことがあった。

 

自分にとって心地良い言葉と出会うための行為。

心地よさというのは、救いであり、救いをもたらすモノは神である。

つまり、心地よい言葉は神みたいなもんで、神みたいなもんでっていうか、昔の人たちはそう呼んでいたんじゃないかっていう予想なんだけど。

 

『読書について』を書いたショーペン・ハウエルが言うところの思索って、自分にとって心地良いと感じる理屈を考えることなんだと思った。僕はその理屈を美学と呼びたい。何を心地良いと感じるか?というのは、何を美しいと思うか?と同じ疑問であり、美学を追求することこそが、思索なのだろうと。

 

例えば、僕は「人生は楽しい」という名の書籍に共感できない。いかに人生が楽しいかということを数章に分けて語ったところで、僕にとっては「人生は楽しい」というよりは「人生は楽しくない」という実感の方が強いので、どんなに正論だろうと承諾できない。正論よりも感情の方がよっぽどこの世界の真実だ。だから、「人生は楽しくない」という名の書籍があったら、僕はその書籍名にも内容にも共感し、心地よさを感じるに違いない。

 

現時点で、ヒトはそれぞれこの美学を追求するのがいいんじゃないか?と思っているし、そういう人のことを僕はカッコいいと感じている。

 

『読書について』で、素材と形式の話がある。その話を読んだとき、真っ先に思い出したのは、詩人の東田直樹さんのこと。その「新幹線の雨」という詩。素材は「何を」語るかであり、形式は「どう語るか」ということ。

 

「雨」という「素材」を、あなたは「どう語る」ことができるか?

 

新幹線に乗っている時の雨は、とても神秘的です。
「横殴りの雨」という表現がありますが、横一線に流れる雨粒が見られるのは、新幹線に乗った時だけではないでしょうか。

 それだけ早いスピードで移動しているからだと理屈ではわかります。けれども、僕にはこの雨が、特別なメッセージを伝えてくれているような気がしてならないのです。


 雨は普通、空から地面に向けて落ちていきます。その時々で強さは違いますが、一定のリズムを持っていると思います。
 僕は雨音が、時を刻んでくれていることに気づきます。そして、知らぬ間に数を数え始めるのです。体の中を突き抜けるようなリズムが耳にこだまします。


 しかし、新幹線の窓を打ちつける雨に、リズムはありません。まるで、人の涙みたいに、ぽろぽろとこぼれ落ちたり、さめざめと泣いたりするのです。
 ひと粒ひと粒が、自分の意思で窓に張り付いてきたかのような動きで、僕の目を釘づけにします。

 ただの雨粒なのに、それぞれが違う速さで流れ出したとたん、神様から命を与えられた存在に変るのです。

 感動とは、自分が知らなかった世界を見せてもらえた時、感じるものなのでしょう。
 泣いている人を励ますように、僕は新幹線の窓を見つめます。

 雨は、まだやみそうにありません。
 新幹線の窓は、濡れた瞳に似ています。

 やがて、雲の切れ目から、太陽の光が差し込むと、外の景色がくっきりと現れました。

 新幹線の窓にくっついていた雨は、もう全て消え去ってしまいました。
 雨粒は、空に帰って行ったのでしょう。

 新幹線の窓から見える空は、次々に形を変えて、心をなぐさめてくれます。

 涙の訳をいつか教えてもらいたいと、僕は願っているのです。「新幹線の雨」by東田直樹

 

 「雨」という「素材」を、僕は「どう語る」ことができるか?

 

東田直樹さんにとっての「雨」はとても美しい。

 

東田さんが見ている世界は、こんなにも豊かで切なくて美しいのかとため息が出る。

 

「形式」でモノを語るっていうのは、きっとこういうことなんだ。こういうことなんだって断定しちゃうと語弊があるけど、つまり、あるモノを通じて、美学を語るということであり、それがその人の深いところから生まれた言葉であればあるほど、その人独自の美意識が反映された他に類をみない独特な視点や言い回しになる。

実は今ちょっと嘘をついたんだけど、「形式」で語る場合であっても、美学を語る必要はない。その必要はないんだけど、僕にとってはそっちの方がカッコいいんだよねっていう話。美学は人それぞれ違うから、すべての人間が、例えば「雨」について自分にとって心地良い言葉で表現できるようになったら、それはとてもとても素敵な世界なんじゃないか?って信じてるわけで。

 

東田直樹さんはきっと、自分にとっての心地良い言葉を探している。

どうしたって他人と違わざるを得ない自閉症という世界を生きていて、そうじゃない僕たちがせっせと吐き出す言葉に心地良さを感じることもなくて、日常的に自分は他の人と違うということを痛感し、時には絶望し、それでも死ぬわけにいかないからたった独りで自分が「心地良い」と感じる理屈を探し求めてきたんだと思う。

 

「彼ら」は、どこか遠くまで行って、そこで何かを見つけてくる。その何かを持って帰ってきてくれて、僕らにも見えるように努力をしてくれて、それが僕たちにとっても美しいモノだったとき、その奇跡。その奇跡に挑む存在を、「彼ら」を、芸術家と僕は呼ぶ。

 

僕がもしも遠くに行きたいと願っても、きっと本を読むことでしかたどり着けない。

だから、僕は本を読み、自分の感情の輪郭を確かめながら、美学を磨く。

それはきっと、誰かを魅了するほどの美しさになると思うし、時にその鋭さが誰かを傷つけるかもしれない。

 

※追記。後日、本気モードでまとめてみた記事。↓

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