どうして現代アートは数千万円・数億円もするのか?

 

現代アートは難しい。
意味不明だ。
んでもって、理不尽にバカ高い。

そう評価されることに対して、たくさんのアートファンが「いやいや、アートっていうのはね…」と、どうにかしてその理由と魅力を伝えようと頑張っている。

かくいう僕も、そのつもりでして。

「アートって意味不明だし、全然感動できないし、しかもむちゃくちゃ高額じゃん。なんでなんですか?」みたいなところを「なるほど、そういうことか」と言わせるために今回のブログを必死で書きます。

 

 

日本人にとってのアートって、たぶん↑コレだと思うです。

「感じるままに描く」とか「あなたが感じたことが大事です」とか。

で、確かにこの通りなんだけど、それがすごく大事なんだけど、でもちょっと説明が足りない。アートがおもしろくて(個人的に)どこか切ないのは「感じたまま感じた」あとの、その先です。その先があります。この説明不足が、現代アート意味不明論に繋がっているのかもしれないと思っています。

 

 「感じるままに描く、鑑賞する」ってどういうこと?

 

まずは、「感動する」ってなに?どういうこと?というところから。
「ヒトは何かすがりつきたいモノと出会ったときに感動する」と考えているんですが、「感動する」ということは現実逃避みたいなもんで、ヒトが現実から精神的に逃れるために生み出した感情であり、それはイマココ(現実)にないからこそ想像であり、理想であり、フィクションであるということ。

 

この2人、特に翠星石たんだけは自分の理想そのものだったんです。
自分のようなゴミを人間として扱ってくれ、恋愛感情まで持ってくれるんです。
あの忌々しい学校で、主人公と机に背中合わせで座るシーンや 「一生部屋から出ずに一緒にいたい」みたいなこと言ってたシーンを見た時は、喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、恋愛感情、ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。
特にあの学校のシーンは反則です。
自分のトラウマを抉っておいて そこに理想そのものを描いたんです。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp


上記は、マイベストヤフー知恵袋で、オタクにとっての“感動”が伝わってきます。

『喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、(恋愛感情、)ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。』

喜びと切なさ。
これこそが、“感動”だと思っています。

ゴミのように扱われる学校生活(現実)↔学校の教室で翠星石たんとイチャつく(理想)

ヒトそれぞれ(オタクにもパリピにも)直面している現実がまずあって、それに対して、“感動”が生まれる。

 

 

逆にいうと、「何に感動するか?」ということは、個人個人が直面している現実によって変わる。

だから、ヒトって「好きなモノは選べない」んですよ、根本的に。残酷なことに。

“感動”を表現する芸術家って、自分の感性に正直に生きてて自由気ままなイメージだと思うけど、むしろ彼らはむちゃくちゃ不自由な人たちなんです。デザイナーや企画職の方で「芸術家みたいに0から何かを生み出すことはできないです。条件や制約がないと…」みたいなコメントしている方がいますけど、芸術家だって制約あるんやで…と(小声)で言いたい。芸術家だって別次元の人間じゃねーぞ、と。「自分が何に感動するのか?」ということを突き詰めて考えれば、条件や制約が自然と見えてくるのではないでしょうか。

 

 

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 郭熙『早春圖』

士大夫山水画を愛するのはかれらが公事に縛られて自然を満喫することができないからで、だとすれば山水画こそがイマジネーションの旅をおこすためのものなのだと主張しているのは、ある意味では郭煕の三遠による精密な人工自然づくりを、つまりは「山水をいざなう装置」を表現したかったということだった。by松岡正剛『山水思想―「負」の想像力』

 

以上が、アートを生み出す原動力である“感動”と、必要条件としての“現実”の話でした。

 

 個人的な“感動”を、人類全体の“感動”へ

 

さて、以下本題です。
「アートって意味不明だし、全然感動できないし、しかも高額じゃん。なんでなんですか?」に対しての解答です。

「アートは(少なくとも、世界で評価されるアートは)、個人的な“感動”を人類全体の“感動”にまでスケールアップして表現したモノ、プレゼンテーションしたモノ」なんです。

“感動”は、現実と密接な関係性を持って生まれるモノなのだから、“私”の感動は、その“私”が所属している時代(現実)とも繋がっている、関係性がある。つまり、「“私”が生きている時代(現実)は、〇〇な時代で、“私”はその現実に対して△△な影響を受けました。だから、“私”は☆☆に感動するし、☆☆な作品を作りました」と客観的に語ることができる。この客観性のあるなしが「感じるままに自由に描く」子どもたちの絵が評価されない理由だと思います。

「自分が何に感動するのか?」ということを突き詰めると“時代”にぶつかる。

そして、“時代”が原因だからこそ、“私”が所属している時代や国、階級、ジェンダー、社会問題を主語にして語ることができる。つまり、究極的には、主語を“私”から“人類”へとスケールアップすることができる。

人類が直面してきた現実が時代ごとにまずあって、その変化する現実に反応して人々の“感動”が生まれる。“私の感動”をスタート地点として、時代の変遷の中に生きる“私”を客観的な視点をもって表現すると、あら不思議、「私が感じるままに描いた作品」が世界でも闘えるような作品へと生まれ変わる。

 

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www.moae.jp

(前回と前々回に引き続き、↑3度目の登場。時代によって人々のすがりつくモノ=感動するモノが変わる例として秀逸すぎるので多用してる)

 

具体例として、『シュルレアリスム』という芸術運動があります。
(↓※こういうのです)

matome.naver.jp

シュルレアリスム』は、第一次世界大戦後のヨーロッパで起こりました。ご存知の通り、この大戦は大量破壊兵器や毒ガスなどが初めて実戦投入された戦争であり、死者およそ800万人という、勝っても負けても人類にとっては悲劇的な結末を迎えました。

科学をはじめとした人類の理性が、大量虐殺を可能にする殺戮兵器を生み出した。
人類の理性が私たちの暮らしをもっとよくするに違いないと信じられていた夢と希望の時代から、理性に対する絶望の時代へと移ります。

それが当時のヨーロッパ人たちが直面していた“現実”でした。

シュルレアリスム』とは、そうした“時代”に生まれた、理性に支配されない無意識の世界を追求する芸術運動です。

理性に絶望したヨーロッパ人たちは、無意識(非理性)の世界にすがりつきました。

そういう時代だったし、そういう現実があったんです。

 

sphinxis.com

例えば、球体関節人形作家のハンス・ベルメールシュルレアリストです。

(僕にとって、むちゃくちゃカッコいいヒーローのひとり。)

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“時代”としては、ナチスドイツの政権下。
理性主義が行き着いた合理主義という思想によって、同性愛者、遺伝病や精神病者などが排除されていった時代。それは残酷な“現実”です。

その現実に対して生まれたハンス・ベルメールの美学=“感動”、「何にすがりついたのか」。

それは『アナグラム』という『シュルレアリスム』の手法。

アナグラム』とは、意味のある言葉を無意味な言葉にする手法です。

当時は「健康な金髪碧眼で白色人種のドイツ民族(意味のある人種)」が正義であるとされた時代です。
7万人の障害者や難病の患者が「生きるに値しない生命(無意味な人種)」として『安楽死計画』の犠牲となった時代です。
一説によると、恋人のウニカ・チュルンは統合失調症だったとも言われています。

そんな“時代”が生み出したハンス・ベルメール球体関節人形
意味のある単語を入れ替えて無意味な言葉にする『アナグラム』を、ハンス・ベルメール球体関節人形にも応用し、意味のある各パーツを入れ替えて無意味な球体関節人形を生み出した。

ハンス・ベルメール球体関節人形を通じて、ナチスドイツの政権下という“時代”が見えてきます。

 

「アートは文脈を知らないと理解できない」と言われますが、そんな難しいことじゃないです。
つまり、アートの文脈とは歴史です。人類史です。
この地球上で唯一「感動する生き物(※ここ超重要)」である“ヒト”が積み重ねてきた歴史であり、アート作品はその各時代を反映した歴史的遺物です。

少なくとも、世界の舞台で評価されるアート作品は「感じるままに描く」だけじゃなく、「じゃあ、そもそも、その感動はどんな現実に対応して生まれたモノなのか?」までより深く掘り下げて理解して言葉にして、そうしてようやく生み出されるモノだと思います。「文脈を知らないと理解できない」の“文脈”とは、「どんな現実に対応して生まれたのか?」という問いに対する答えであり、その解説が美術史です。

つまり、人類史そのもの。

 

そして、アートは市場に流通する商品なので、その価値付けは、価格を決定し保証する根拠は、美術史における重要性ということになるのではないでしょうか。

もしも、あなたがツタンカーメンのマスクやアンネ・フランクの日記に価値がないと言うのであれば話は別ですが、その時代時代をより的確に映してきたアート作品が何千万円・何億円という価値を持ったとしてもそれは不思議ではないでしょう。

※ここまで人類というスケールで語っていますが、だいたいのアート作品は国とか民族とか、そのぐらいのスケールが多いイメージです。例えば、村上隆の作品は、オタクを主語にして、その感動(すがりついたモノ=アニメ的表現)を作品にしました(彼自身もオタクです)。オタクは戦後の日本人を象徴するひとつの人種であると定義して、アメリカに敗北した日本という現実を客観的に見つめ直して、オタクを世界史と接続することで村上隆は世界で評価されたと考えています。

 

地球上で唯一“感動する”ヒト

 

「感じるままに描く」ことは初期衝動としてすごく大切です。

コレがないとそもそもの創作行為が生まれない。

だけど、世界で評価されようと思ったら、どうしたって自分のことだけじゃダメで、世界にとって価値あるモノを提示しないといけない。「感じるままに描く」ということは評価が難しいブラックボックスであって、多くの人が違和感・不信感を覚えることは当然です。だって、何を良しとするか、何が好きで何が嫌いか、何に感動するのか?ということに優劣はありませんから。でも、プロの芸術家であるならば、世界で認められる芸術家になりたいのであれば、“自分の感動”が人類史にとってどういう立ち位置にあるのかを追求し、言葉にして、それをふまえて表現しないといけない。

そこで勝負しないといけない。感動の優劣ではなく、同じ時代・同じ国・同じ民族・同じジェンダー・同じ社会問題に直面している人々の“感動”を、読み説く努力をしないといけない。

 

鑑賞者もまた、感動に優劣はないので、「感じるまま」でいいと思う。

時代も国も民族も違う芸術家の作品すべてに感動することは難しいし無理ですし。

でも、たまにあるんですよ、おもしろいことに嬉しいことに、まったく違う時代・国・民族の芸術家による作品でもあっても、めちゃくちゃ感動しちゃうことが。それはきっとあなたにとって大切なモノ(感動、理想、憧れ、すがりつきたい何か)がどっかの時代の誰かと偶然重なったってことで、それはもう奇跡だと思って、その芸術家の作品でも作品集でもなんでも買っちゃってください。

僕としては、
「なぜ私は○○に感動するのか?」という疑問と真摯に向き合って、
自分にとって大切なモノと現代社会との関係性を丁寧に解読して言葉にして作品にしている芸術家は、ほんとうに、ほんとうにカッコいい人たちだと思っています。

もちろん、すべての人がアートを好きになることはないと思います。
でも、今のところ好きじゃなくても、例えば、世界史(こういうことがあったからこういう歴史的事件に繋がったみたいなこと)に興味があったりとか、上記の中川いさみさんの漫画のワンシーンを読んで「え、そうなんだ。おもしろいな」ってワクワクしちゃったりとかするような、知的好奇心旺盛な性格ならば是非ともオススメです。

んで、たまに(観れば観るほど、その確率は上がる感覚ですが)なんかもう、知識とか常識とかそういうモンすべてぶっ飛ばして、ただただ単純に「なんだよ、生きるの最高か!」ってテンションあがるような、理屈抜きでむちゃくちゃ自分好みなアートに出会えちゃうわけです。その瞬間がたまらんのですよ。

 

 

まあ、とりあえず、
この時代でこういう民族がいてこういう世界で!って文脈だなんだと言いつつも、初期衝動というか、ヒトの根っこにあるところ、芸術や感動というモノは、結局↑コレだと思うんです。
爪に可愛くネイルしたりとか自撮り写メをネットにアップしたりとかゴスロリファッションにハマったりだとかスローライフに憧れて鎌倉に住んだりとか仮想空間でネトゲ廃人になったりとか、別に世界の歴史とリンクしてもしなくても、どれだけ個人的な世界で完結していようとも、現状として“ない”からこそ、「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という“憧れの感情”(=感動)が誰にでも生まれるわけです。

それは、切ないくせに力強くてどこかポジティブで、明日もちょっと頑張って生きようかなと(無意識にでも)思えるモノだから、僕は芸術とか感動とかフィクションとか好き嫌いとかと称される何某かのモノや感情が大切だと思うし、おもしろいと思うし、なにより僕にとっての快感原則(=ヒーロー)なんです。(でもって、より多くの人が↑この感覚の虜に、惹き込まれてしまえ!と思うわけです)

地球上で唯一、“未来”という概念を知ってしまった生き物である、ヒト。
イマココ(現在)に対して生まれるココジャナイドコカ(未来)への憧れ。
何かに憧れて何かに感動して何かにすがりついているヒトが生み出したアート作品。
各時代や国家、民族などにおける“感動”の積み重ねである美術史、いわゆる“文脈”。
ルネサンスでも戦後でも大量消費大量生産の時代でも、それぞれの時代のイマココから生まれる“現代アート”。

 

僕もまだまだハマり始めて数年ですが、むちゃくちゃおもしろいですよ、アートの世界。

 

とりあえず、「お前がアート好きなことだけは伝わった」でも超嬉しい。「なんだかちょっとおもしろそうだぞ」と思ってくれたら心が両手をあげて万歳します。

 

アートといっても、様々なクラスタが存在するので、一概には言えない(卓袱台返しの当記事全否定)ですが、(いやでもほんとに言えないんですよ…、周知の通り、マネーゲームの商品という側面もあったり※それすらもアートにするわけですが※、表現技術としてのアートを追求している人もいるし、視覚的な心地良さってどうなんだろう?って思うし…まだまだ勉強足りてないですという逃げ口上な👊)

 

以上、無類のフィクションジャンキーからでした。