“分断”と闘う建築家集団・アセンブル/『アセンブル 共同体の幻想と未来展』
芸術とは、
「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という“理想”がまずあって、それがたとえフィクションだとしても、何かのかたちとして出現させようとすること(かもしれないと考えている)。
かつては、絵画や彫刻を通じてその“理想”を描いてきたわけだけど、ある意味で有名な便器おじさんことマルセル・デュシャンによって、「アイデアなどのかたちのないモノであっても、ひとはそこに理想を見出してすがりつくよね!」という方向性が提示されて(僕の仮説ですが)、少なくとも絵画や彫刻というジャンルを越えて、アート作品が多様化し始めたのが20世紀初頭。
例えば、「働けば誰もが自由にモノを買える」という資本主義的なアイデアは、フロンティアの開拓によって発展したアメリカにとっては、まさに“理想”だったわけで、20世紀のアメリカ人が大量生産大量消費の時代を嬉々として受け入れたのは、共産主義の脅威とも相まって、その“理想”と合致したからだと思う。そうして大量生産大量消費というアメリカ国民の“理想”を、フィクションとして出現させたのがアンディー・ウォーホル。
マルセル・デュシャン『泉』
( Andy Warhol and Screenprinting - ASU BOOKARTS )
という補助線を少し引いてから、表参道のGYREで開催された『アセンブル 共同体の幻想と未来展』がすごく良かったという話と、そのアセンブルがイギリスで最も権威のある美術賞・ターナー賞を受賞した理由を、書いてみようと思う。
そもそも、2015年12月にターナー賞を「地域再生に貢献したイギリスの建築家集団・アセンブル」が獲得したと聞いたとき、正直、「は?」と思った。
栄誉ある国際的な美術賞を、建築家が受賞したというのがまず「え?」だけど、それ以上に、ターナー賞といえば、僕の大好きなダミアン・ハーストが95年に受賞した素晴らしい賞であり、パンクとロックの精神を王として(違う)築き上げられた偉大なる大英帝国において、そんな福祉活動じみた優等生なアート作品が選ばれるなんて...と失望したわけです。鬱々としたダーティーな雰囲気で曇り空がお似合いのイギリス人は、サメのホルマリン漬けでも出しておけ、とそういう言い分である。
『生者の心における死の物理的な不可能』(1991年)
( 【完全解説】ダミアン・ハースト「生と死」 - 山田視覚芸術研究室 / 前衛芸術と現代美術のデータベース )
もはや心の中で中指を突き立てながらも、「とはいえ、ターナー賞というすごい賞をとった人たちの展覧会ならば観るだけ観ておかないとなー...」と会場に足を運んでみたわけですが、これがまあ素晴らしかったというオチなんですよ。
最近考えていたことと似ていた、という妙な言い方で褒めますけど、アセンブルの作品には以前の記事( どうして現代アートは数千万円・数億円もするのか? - ヒーロー見参!! )で書いた現代アートのおもしろいところがありありと含まれていて、やっぱりうんおもしろいなーとしみじみ思ったわけです。
建築家集団・アセンブル。
そのおもしろさのキーワードは、
『DIY』『実践』『公共圏』。
( Assemble and Study O Portable for Icon – harryborden.co.uk )
まずは、アセンブルについて
『アセンブル 共同体の幻想と未来展』では、アセンブルが手がけた建築的プロジェクトのうち、ターナー賞で受賞対象ともなったリバプールのトックステス、グランビー・フォー・ストリーツでの活動が主に作品として展示されていた。
前提として、このグランビー地区は、かつては造船業で栄えた地区だったが、1970年代の経済不況と1980年代の暴動、また自治体による住宅の強制買収によって多くの住民たちが土地を追われ、廃屋が立ち並ぶ荒廃した地区になったという。
それでも、ヴィクトリア朝の美しい街並みが残るグランビーを守ろうと、市民たちが20年もの間ずっと奮闘し続けている。そういった動きの中で、アセンブルは、グランビーにあるケアンズ・ストリートの廃屋を修復するプロジェクトを依頼される。
展覧会の会場では、そのプロジェクトの様々な取り組みが、写真作品や映像作品、模型やイメージイラストなどによって幅広く紹介されていた。中でも、廃屋の瓦礫を再利用して住宅の内装とするインテリアプロダクトが不思議と心惹かれるような素朴な質感で、観ていてとても心地よかった。というか、写真や映像もだけど、根本的に見せ方が上手いので、ビジュアルとしてもワクワクできるような素晴らしい展示だったことは、とても嬉しい誤算だった。
表参道・GYREで「アセンブル_共同体の未来と幻想」展を拝見。昨年の英国ターナー賞受賞者であり、15人のアーティスト/建築家集団アセンブルの(恐らく)日本初個展。こういう実践的な試みをするアーティストがターナー賞を獲ったという事自体が面白い。来年2/12まで。 pic.twitter.com/UP0Jys70CW
— 橋爪勇介 (@hashizume_y) 2016年12月9日
( Assemble wins 2015 Turner Prize )
インテリアプロダクトを撮影したコレ↑とか展示されてたけど、なんか遠近感(?)が妙で、浮遊感がありながらも柔らかい色調なので、すごく観ていて心地よかった。
アセンブルは、住民たちと一緒になって、荒廃とした地域を再生させていく。
彼らが考案したインテリアプロダクトは、瓦礫を材料として作るものだから誰でも実践することができて、そのレシピも展示されていた。また、そのプロダクトを手作りするための工房「グランビー・ワークショップ」もアセンブルによって設立されている。完成したプロダクトはネットで販売できて、その収益をグランビーの地域再生活動に還元するシステムも構築したという。
ここに、アセンブルのおもしろさがある。
それが『DIY』と『実践』というキーワード。
「◯◯のときにすべき10の方法」が好きな現代人
最近、『DIY』というアイデアがむちゃくちゃおもしろいぞとマイブームでして、コレについても色々と語りたいことがあるんだけど、たぶん本筋から逸れるのでそれは別記事で書くとして、とりあえず、2つ目の『実践』について説明します。つまり、「『実践』は美しい」んです。
「『実践』は美しい」....と言うと、えーと、「アートは日々の生活を豊かにする」みたいなふわっとしたノリになっちゃって、それはあまり好きじゃないので、もう少し具体的に言うと、美しいモノというのは「あ、コレなんかいいなー」と心惹かれるモノであり(仮説ですが...)、『実践』とは具体的な方法論のことで、つまり、身近な例でいうと、「◯◯のときにすべき10の方法」みたいなことです。
現代において人々が何に心惹かれるか?というと、僕たちは問題に対する具体的な解決策が大好きです。現代は「この絵すごく綺麗ですね。でも、これを買ったところで何かの役に立つんですか?」という時代です。
iPhone以降、やっぱり僕たちは、テクノロジーが詰まったガジェットに対して少なからぬ期待を持っていると思います。手のひらサイズの機械が僕たちの生活をガラリと変えてしまったという衝撃は、きっと薄く伸ばされたペーストのように僕たちの心にじわりと密かに浸透しているし、同時に、そうではないモノへの期待値を大きく下げてしまった。テクノロジーによって、クソッタレな現実が「きっと良くなるだろう」だ。
僕たちの生活を具体的に変えうる何かに対する期待。
それは、テクノロジーであり、方法論を語る文章その他であり、『実践』である。
「何かに対する期待」「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という現代の“理想”が、アートというフィクションの世界では、「コンテンポラリー・アート・プラクティス」という美術史上の動向として生まれています。
紛争やテロ、難民問題で揺れる政治情勢に、不透明さを増す世界経済。
表現の自由に対する規制も強まるなか、各地で起きている諸問題に対して、アーティストはどのような実践を行っているのか。
社会的使命を帯びた3人のアーティストたち−−
艾未未(アイ・ウェイウェイ)、ヴォルフガング・ティルマンス、ヒト・シュタイエルのインタビューでは、 芸術を拡張し時代と対峙する表現について話を聞き、さらに各都市での実践例や理論を通して世界と関係するための、アート・プラクティスの最新動向を検証する。by美術手帖2016年6月号
その『実践』が、
『アート・プラクティス』のひとつが、
アセンブルの活動であると言うこともできます。
『実践』という“アートの文脈”を踏まえているからこそアセンブルはおもしろいとも言えるし、具体的な方法論が求められる時代だからアセンブルのような集団が生まれたとも言えるし、ターナー賞の審査委員たちがアセンブルを『実践』という“アートの文脈”に組み込んだとも言えます。
これはもう卵が先か鶏が先かみたいなもんだと思いますが、僕たちには無意識のうちに心惹かれているモノがあって、それはどうしたって時代の変化とは不可分です。つまり、“アートの文脈”は世界史と連動しているしせざるを得ないし、そこがむちゃくちゃおもしろいしカッコいいわけです。
例えば、グランビーの環境と似たどこか寂れた地区があるとすれば、アセンブルによるインテリアプロダクトの方法論は、別のドコカの地区にとってそのまま“希望”になり得るわけです。それはとても“美しい”と言えるのではないでしょうか。逆に言うと、同時代ながらもココジャナイドコカであれば、それはフィクションになってしまうというちょっと悲しい話でもありますが。
“分断”された世界で闘う建築家集団・アセンブル
アセンブルのことが「ああ、むちゃくちゃカッコいいなー、素敵だなー」と思ったのは、もちろん上記の『実践』についての話もあるんだけど、それ以上に、彼らの活動の根本的な想いとして存在する『公共圏』の話がもう最高すぎた。
正直、僕も会場で展覧会の趣旨を読むまでは全然知らなくて、それを読んで始めて、「あ、この人たちスゲー人たちだ」と思ったもんで、なので、以下に「あ、スゲー」って思った箇所を引用します。
但し、ハーバーマスの西洋近代的な理性中心主義に止まらず、むしろハンナ・アーレントの「複数性を包括する空間」という「共通空間」を構築するために地元に根ざしたコミュニティを再生していくことを目指している。
んで、このあとに「18世紀のヨーロッパでは〜」とかって『公共圏』について話が進むんだけど、いや、でも、僕はもう「複数性を包括する」というフレーズだけでご飯を3杯は食べられるぞというテンションで、妄想が勝手に始まっていた。ハンナ・アーレントについては、映画『ハンナ・アーレント』を観ただけで全然知らないんだけど、結局「複数性」というのは、「わたし」と「わたしとは全然違うあなた」のことだと思うんですよ。たぶん。
アセンブルが目指すところは、「わたし」と「わたしとは全然違うあなた」が一緒にいることができるコミュニティを作ることであり、そのための『実践』の数々ということなんだろうと。
なんていうか、「お前、俺と全然違うけどスゲーな!最高だな!😆😆😆」というコミュニケーションがあってもいいと思うんですよ。だから、最近は、ボーダー(境界線)について「どうしたもんか...」と思うことが多くて、だからこそ「複数性」というフレーズに「あ!これかもしれない!」と反応したのかも。
きっと、グランビーの住民たちも、経済的・政治的な理由によって“分断”を余儀なくされた人たちだったんだと思う。それは物理的にも精神的にも。
トランプ政権をひとつの象徴として、世界が“分断”され始めている現代において、アセンブルが『実践』の中に仕込んだ「複数性を包括する」という想いは、ことさら力強い意味を持ってくる。
トランプ大統領を支持する白人層だって、彼らの生活(=現実)が豊かであったなら、わざわざ“分断”を望むことはなかったはずで(そう思いたい)。
だからこそ、アセンブルの成功例は、僕たちにとっての「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という理想になり得るし、アメリカとメキシコの“分断”にとってもフィクションでしかないけれど、フィクションだからこそ、「いつかきっと」という希望にもなるんじゃないかって。
アセンブルがターナー賞を受賞したのは2015年12月で、いよいよ世界が不穏な空気に包まれていて、「わたし」と「わたしと全然違うあなた」との間に壁が生まれることで“分断”の時代に突入している2017年。
やるせないような、どうしようもなく残酷でクソッタレな現実に直面すると、それに対して理想が生まれてくることが常で、アートがおもしろいのは、やっぱりひとつにはこの部分で、世界史と切っても切れない関係性があるところだと思う。
ハンナ・アーレントが闘った、ナチス・ドイツという恐怖の歴史。
それに対抗するための「複数性を内包する」という思想。
その思想を受け継ぎ、この残酷な世界で『実践』を行う建築家集団・アセンブル。
だからこそ僕は、もちろんサメのホルマリン漬けも好きだけど、アセンブルがターナー賞を受賞したことに納得し、なんだかちょっと切実に、嬉しくも思ったわけです。
2/18(土)よりChim↑Pom展「The other side」を開催します(at 無人島プロダクション)。「ボーダー」をテーマに、昨年から今年にかけメキシコとアメリカの国境沿いで制作したプロジェクト。是非ご覧ください! https://t.co/OkrZc7e5Sj pic.twitter.com/giE311RWC9
— MUJIN-TO Production (@mujipro) 2017年2月6日