ぼくは50代になっても涙を流せるか?

2012年、僕は1つのヤフー知恵袋の質問と出会うことができた。

この2人、特に翠星石たんだけは自分の理想そのものだったんです。
自分のようなゴミを人間として扱ってくれ、恋愛感情まで持ってくれるんです。
あの忌々しい学校で、主人公と机に背中合わせで座るシーンや 「一生部屋から出ずに一緒にいたい」みたいなこと言ってたシーンを見た時は、
喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、恋愛感情、
ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。
特にあの学校のシーンは反則です。自分のトラウマを抉っておいて そこに理想そのものを描いたんです。

本気で恋したキャラが二次元で、本気で悩んでます。 最初に恋したのは「NHKによう... - Yahoo!知恵袋

 

僕のブログなんて読まなくていいから、この知恵袋だけは読んでほしい。

 

 

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、ロボット工学の山海嘉之さんが特集されていたのだけど、めちゃくちゃかっこいい。山海さんはつらいことがあっても、「スパイシー!」と心のなかで叫びながらまた歩いていくらしいのです。吹き荒れる豪雨のなか、両手を広げて「スパイシー!!!」と叫びながら必死に前へと進む山海さんの姿が脳の片隅をよぎる。帰宅は夜中の2,3時で、そこからまた作業に入るという。睡眠の量によって測れるものではないけど、かっこいいなあ、と思うわけで。しかし、同時に、そりゃ寝れるわけないじゃん、とも思う。それは山海さんが背負っているモノ、期待の重さ。筋萎縮性側索硬化症(通称、ALS)という難病を抱える大切な息子と、ただ少しでもいいからコミュニケーションがしたいという家族の想い。山海さんの研究は、不可能かもしれないと思っていた家族のもとに届いた、たったひとつの希望だった。研究としてはまだ確立していない一縷の望み。そりゃ、寝れるわけないじゃん、と。そんな状況を、山海さんはどう思っているのだろうか?と思いながら番組を観ていた矢先、ALS患者の家族から届いたメールを読んで、思わず涙ぐむ山海さん。「ああ…」と僕は思う。と同時に、自然と涙があふれていた。「そりゃ必死だよね…そうだよな」とその期待に応えたいという山海さんの想いに共感する、その一方で「これほどの想いを持って打ち込める何かを、僕は見つけることができるだろうか?」というある種の羨ましさと悔しさも、正直あった。想像以上に大変なんだろうということはなんとなくわかるし、人の尊厳にも関わることなのでお気軽に発言する内容でもないけど、僕はそこに確かな悔しさを感じていた。

どうしようもなく高い壁を前にして、どんなに努力しても届かなくて、それでも諦めきれなくて、だから涙を流しながら誰かのためにもがき苦しみ必死にあがく。それほどまでに自分を追い込むモノとは一体何か。自分は世界に対して何を成し遂げることができるのか?そう思ったときに、ふと思い出すのが先ほどの知恵袋の質問者。彼が芸術的才能等々の何かを持っているかどうかはわからないけど、孤独に鬱々と日々を過ごしてきた人が生み出すモノ、いわゆる常識とか社会というモノから少し外れたところにいる人が生み出すモノ、そこには世界をひっくり返すような凄まじい力があると思っていて。そういった人たちを救い上げることはできないのだろうか。あるいは、もっと身近な話で言えば、大学を卒業したら就職するという常識みたいなモノに縛られて苦しむ人たち。今でこそ「無意識レベルでの興味関心・好き嫌いこそ人類の核心だ!」とか得意げに吹聴しているけど、僕の原点は「なんか違うんじゃねえかな。どうすりゃ人は幸せになるの?」という素朴な疑問だった。それは現代に生きる人々の「なんか違うんだけどなあ…」であり、現代的価値に上手く適応できずに苦しむ人々の「なんで世界はこうなんだろう?」という、相互に歪んだ現状でもある。そういえば、1年ぐらい前に思ったこと(以前のブログ...my scope: 変な人を紹介します。)と、何一つブレていない。現代社会において、理解されていない人たち。蜷川実花さんのSwitchインタビュー観た兄がポツンと「これはもう悪趣味だな」と言ったのだけど、それは彼女(たち)が、自分の感覚に対してちょっとだけ正直なだけであって、僕らだって僕らの感覚にもっと正直であっていいはずなんだ。「こうあるべき」という確立した概念(=常識)は確実にこの世界に存在していて、そこから溢れてしまった人たちをその世界に対して通訳する。そうすることで、現代社会で「なんか違う」と感じている人たちも、「常識」から疎外されている人たちも、どっちも救えるんじゃないかって思っている。