伊藤計劃は2度死んだ

尊敬するSF作家・伊藤計劃の「伊藤計劃:第弐位相」を読み終えた。もし伊藤計劃ルネサンス期の偉大な画家であれば、このブログという形式は、親しい友人との往復書簡とか個人的な日記ということになるのだろうか。惚れ込んだ作品をつくった作家がどういった人間なのか、「虐殺器官」という作品をつくった伊藤計劃とはどういった人間なのか、何が好きで何の影響を受けてどんなことを考えていたのか。それが知りたくて彼のブログを読み始めたのだけど。

そして、とうとう読み終わった。読み終わってしまった。

彼に関する手がかりがまたひとつなくなってしまった。なんか「伊藤計劃とはなんだったのか」とかっていう書籍を書きたい(笑)ぐらいに彼のことを調べたい。生前交友のあった方々にどういう人物だったのか、を聞きたい。死ぬ瞬間はどうだったのか、聞きたい。

「第弐位相」は、彼の映画に対する愛と、彼の監視社会萌えなどのフェチズムと、仕事に関する愚痴(笑)と、そして肺ガンとの闘病生活が綴られていて、2009年1月1日の新年の挨拶で、刻一刻と状況が悪化していく病状の様子を告げるエントリー(というか、ブログ自体も)が途絶えている。2009年に亡くなってしまうことは知っていたので、2009年の記事になったとき、「あー、いよいよだな…」と思っていたら、そこでプツっと途絶えていた。そこから3ヶ月後の3月20日に亡くなっているので、その期間に何があったのかはわからなくて。「死は突然」というのもなんとなく、気味が悪いほどに実感したりもした。死ぬ直前まで小説を書いていたんだなあ、とも思う。

もっと伊藤計劃のフェチズムを読みたかった。

 

最後に「Running Pictures -伊藤計劃映画時評集1-」に載っていて、「あ、この人は作品だけじゃなく、人間としても好きだな」と最初に思った文章を。

映画に何を求めるのか、それは人によって様々でしょう。逃避であろうとなんだろうとそれは別に否定されるべきではありません。しかし、「アルマゲドン」や「コン・エアー」などのブラッカイマー作品に人が集まっているのを見るにつけ、私はそこで「感動する」観客の猛烈な「怠惰」を感じます。泣いても別に構いません。映画が観客の涙を搾り取る商品として「設計」されているのですから「泣く」のは当然です。(中略)それは、マクドナルドをとりあえずの食事に使うのと一緒の行為なのです。完全に規格化された味が「まあとりあえず旨い」と味覚に感じさせるように、「まあとりあえず泣ける」という「システム」に過ぎないのです。実際「アルマゲドン」の脚本は制作過程でコンピューターを何度も通過しています。いうなれば「涙」というチェック項目のついたソフトウェアのフィルターを通過するように、それは「設計」されているのです。主人公の死で涙を搾り取ろう、じゃあ主人公と別れを演じるキャラがあった方がいいな、じゃあそれを娘にしよう………創造の力を侮辱し、コケにし、商品にする過程がそこにはあります。だから泣いて当然だし、そのことには何の意味もないのです。

ですがその涙を「感動」という言葉にすり替えてしまう人の何と多いことか。僕は「アルマゲドン」で「感動」した、という人にはこう言うことにしています。「それは、君が世界に対して怠惰な証拠だよ」と。彼らは世界から「感動」を見つけ出す努力をしていない。だからとりあえずの涙を「感動」にすり替えて満足しているのだと。

世界は美しい。コンクリートの汚れのパターンも、廃屋を覆う蔦も、テーブルの木目のパターンも。川面が反射する光のパターン、通り過ぎる女性の髪が風にたなびくモーション、僕らの世界は美しさに満ちている。その美しさの集合体として世界があり、空気があり、光がある。そのような美しく醜い世界。