物語としておもしろいかどうか。

物語としておもしろいかどうか。

フィクションとしておもしろいかどうか。

ということを、価値観の選択基準として、意識しようと思う。

 

例えば、日本とイギリスは大陸を挟んで島国同士だから文化も似ているという、ひとつの物語。決定的な証拠はないけれど、僕は物語として「そうだったら素敵だ」と思うので、それを圧倒的に支持する。そうすると、茶の湯とコーヒーハウスの関係性やホラーや幽霊などの非現実が流行る様、日本庭園とイギリス式庭園の類似性など、「不確かだけど、ありえるかもしれない」という情報でさえ結びつき、ちょっとだけ人生がワクワクする。

 

あるいは、ヒトラーの存在や911事件といった出来事でさえ、心のどこかで否定することが出来ていない。きっと心のどこかでフィクションのように感じているのかもしれない。それはきっと想像力の欠如であるし、それはきっと伊藤計劃が「虐殺器官」で警鐘を鳴らすような人々の怠惰である。以下、思考保留。

 

ゾロアスター教はフィクションとしての正義(=神)を作ったけれど、その正義は疫病や略奪などむちゃくちゃ悲惨でノンフィクションな現実に対しては意味をなさないので、悪魔(フィクションとしての悪)を生み出したという。つまり、善悪論はフィクションなわけで、価値観の判断というモノも結局はフィクションでしかない。むしろ、善悪を始め、物事の価値観や性質、名称や意味さえもフィクションということになり、そもそもフィクションとノンフィクションの違いとはなんだろうか?という疑問にぶち当たる。あるいは、現実とは何か。

 

(思考保留:続き)このエントリを書いていて、「フィクションとしてヒトラーを肯定するか?」という問いに対して、「Yes」という返事を脳内から現実世界に出現させることに少し抵抗があった。そんなことを公の場に残していいのか、と。けど、ヒトラーをフィクションとして認めたからこそ生まれた映画や小説、アニメはきっと存在する。「HELLSING」はまさにその典型。


【H.264】少佐の演説(音量自重版)(ミラー) - YouTube

HELLSING」に登場するナチス残党で「少佐」と呼ばれる男の演説。

このイカレた感じが最高に燃えるわけですし、「HELLSING」という物語は、「少佐」という敵キャラによって作品全体に漂う絶望感がよりリアルに感じられるわけで。例えば、ヒトラーに対してある種のフェチズムを感じる人がいて、そのフェチズムという名の衝動をどうやって処理するのか?(あるいは、脳内で想像するだけで満足してもいいけど)社会にはルールがあるわけで、そのルールに違反する脳内(自分の快楽)を社会に対してどうやって適合させるのか?その手段として、映画や小説、アニメなどのフィクション(あるいは虚構。あるいは芸術)があるのかもしれない。

まあ、つまり、僕は「フィクションとしてのヒトラー(=悪)」を支持する。むしろ、善悪がなければ、フィクションは生まれないのかもしれない。あるいは、もしも人間が死なない存在だったとしたら、文学は生まれなかったというような話を聞いたことがあって、「悪」や「死」が存在するからこそのフィクションだったりするのだろうか?このあたり、もう少し考えてみよう。日本とイギリスの類似性っておもしろいんだ!という衝動から書き始めたエントリだったけど、まさか「HELLSING」の少佐にまで話題が及ぶとは…世の中の価値観(=常識)というモノはあるけれど、自分の脳内においては物語としておもしろいかどうかを大事にしたい。つまり、妄想に罪はないわけで、今回はそういう話でした。…けど、「犯罪チックなことを想像するだけで逮捕!」な映画があったような。なんちゅーディストピア

 

 

以下、「HELLSING」少佐による演説の全文なり。 - 書き殴る。

…冷静に考えて、他人の心を動かす文章力として、「演説」を勉強するのはアリだな。むちゃくちゃかっこいいじゃん。