旅こそ人間である、と。

火曜日に北川フラムさんの講演会に足を運んでみました。北川さんは「瀬戸内国際芸術祭」や「大地の芸術祭」といった名高い野外芸術祭を企画・運営した方だったので、自分の将来像として、もしも自分の将来像に対して限界をつくらずに妄想したとして、そういった芸術祭の企画もしてみたいなーという気持ちもあり、足を運んでみたわけです。一応、ESD(持続可能な開発のための教育)研究所の主催イベントだったので、どっちかというと地域再生系の話ばっかりかなーとか思ってたら、そこはもうさすが北川さん(笑)と言うべきか、「大地の芸術祭」のアート作品の話になったら、もう止まらん止まらん。ひとつひとつの作品に対して解説をし始めて、きっと主催者の研究所側としてはもっと違う話をしたかったんだろうけど、最初から最後までアートな講演会でした。最高でした。テンションがあがった話はなんだっけかな。「アートは赤ちゃんのようなもの。役に立たないし、お金かかるし、泣き叫ぶ。しかし、みんなが集まる」「縄文土器はアニミズム、細部へのこだわり、遊び心」「越後妻有では(というか、豪雪地帯では)毎年毎日雪かきをしている。この豪雪は前提として、その上で何をするか?あるいは雪で遊ぶという発想。人間は自然の一部であり、それから逃れることはできない」=俳句(五七五)など、ある種の制限を前提として何かのことを成そうとするとき、日本人は驚異的な力を発揮する、あるいは世界を驚かすような何かを生み出す。それはリミテッドアニメーションとも言われる、フルアニメのディズニーに対抗して作られた日本独自のアニメーション表現。コスト縮減のために作画枚数を少なくして作られたアニメーションが、独自の文化を育んだ、なんてことを豪雪を前提としてその上で何かをするか?というのが日常になっている越後の方々の話を聞いて思い浮かんだ。

しかし、1番テンションあがったのは「旅」の話。旅は人生において大切だと、昔から日本人は自覚していた。北川さん曰く、未知の土地への旅は、情報の悪さや(昔で言えば)効率の悪さがあった。今でこそGoogleMapや乗換案内があるから簡単だけど、昔は苦労して考えながら旅をするものだった。旅の本質はここにある、と。これを聞いたときは「へー」くらいだったんだけど、今読んでいる「暇と退屈の倫理学」という本に、遊動生活から定住生活に移行した人類の話が書かれていた。そこには、住居を移動すると周辺の情報(水はどこにある?食べ物はどこにある?危険はないか?)を確認する遊動生活の人類がいた、と書かれていた。そして、定住することでその周辺状況の確認作業をする必要のなくなった人類は、彼らの肥大した脳みそ(周辺状況確認に使用していた脳みそ)を別のことに使い始めた。それが芸術作品の創造であり、社会システムの構築である、と。どうして人間はモノを創造するのか?その答えがここにもありそう。