他人と違うという優越感の塊でしかない。

僕は結局、「他人と違う自分」という優越感に浸ることで、自分を守っているだけ。その「俺は他人と違うから」という意識には、必然と他人を見下す意識が入り込んでいるので、どうしようもなく嫌なやつ。他人を見下すことでしか自分というプライド?存在?を守れないなんて我ながら糞野郎だなあ、と思う。fbを眺めていると、他人の投稿に対して冷めた目で「いや、俺は」だなんて思っている自分がいる。攻殻機動隊を観て、「電脳化超かっけー!!」とかtwitterでよく呟くんだけど、fbでgoogleグラスの動向に盛り上がるさまを見てもどうにも盛り上がれない自分がいた。それはきっと「攻殻機動隊、あるいは電脳化というアブノーマルな設定に惹かれていただけで、もしかしたら電脳化自体は好きじゃなかったのかもしれない」。大衆受けするモノを否定し、万人受けしなそうなマニアックなモノに惹かれていくというありがちな欲求。ただそれだけ。

問題なのは、それと同じ理由で、芸術にも惹かれているのだろうな、という仮説。芸術、あるいは芸術家の思想は、大衆の理論には存在しないモノが多いので、それで惹かれているだけかもしれない。もっと単純に、ミニシアター系の映画を観に行って「今、僕はマニアックなモノを観ている」という悦に浸るような、そういう汚さがある。「マニアックなモノを知ってる自分ってどう?すごいでしょ?」みたいな、他人と比べることでしか幸福を見いだせないなんて。

そんなちょっと怖い仮説。ジャクソン・ポロックで絵画なのに無限に広がる宇宙を感じ、瀬戸内海の豊島美術館で「戦争という汚いモノを生み出した人間が、これほどに美しい場所を生み出せるのか」というあの場で味わった感動や、チームラボが作った「Life survives by the power of life / 生命は生命の力で生きている 」で自分が理想としている「変化し続けるモノ、そしてそれは日本人の感覚に近い」という「美」を感じて涙があふれたこと、その他「おっ」って思うだけだけど大切で小さな感動などの、こういった経験のすべてが「マニアックなモノを知ってる自分ってどう?すごいでしょ?」という汚い自己顕示欲でしかない、というのはどうしても納得できないけど、そういう可能性も十分にありえる。僕は「自分」ではなくて所有物やステータスでしか自信を持てない人間です。

 

大学1,2年のときにファッションにお金をつぎ込んだのは着飾ることでしか自信を持てなかったから。だとしたら、芸術に関する知識を集めて、自分なりの哲学を思考することに必死だった最近の自分もきっと、同じロジックで動いているのかもしれない。伊藤計劃の言葉に惹かれるのは、彼の言葉が本流じゃないからかもしれない。知識や思想というファッションに身を固め、「他人と違う自分」というステータスを得ることで、自己承認欲求を満たしているだけ。

僕がほんとうの意味で幸せになれるのはきっと、ファッションも知識も、思想も関係なく、もっと言えば、努力している自分が好き!でもなくて、なんでもない自分を、何も持っていない自分を好きになれた瞬間。asdaeファッションwfewを、mqdqれたf42gg42

力尽きました、ちょっと書くのをここでやめます。