批評としてのアートが社会との接続点
ゲンロンカフェにて、あずまんと黒瀬さんのトークイベントを観て来ました。元々、黒瀬さんが所属するカオスラウンジあたりの作品(アニメを使ったコラージュ)は西洋美術史と日本美術史において新しい特異点を提示するモノであると感じていて、「偶然を必然に変える力」というタイトルからも、無意識という偶然を意識によって操るという話に繋がってくるのか?と期待することができて会場に足を運んだわけです。その偶然云々は話のテーマとしてなかったけど、色々とおもしろい話を聞けました。
「西洋のタブーに触れる」というモデルをそのまま輸入して、そのモデルをそのまま批評するのではなく、日本人にとっての本当のタブーに触れること。そうでなければ日本人の心には届かない。タブーを批評するというか、「それはちょっと違うよね」というかたちでアートは批評的でなければならないし、かつブラック・ユーモアのようなモノも必要。その日本におけるタブーとは、遺体などに始まる生死の話なわけだけど、これは『唯脳論』や『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』という本でもひとつの話題に上がっていて、僕の興味関心のど真ん中。『唯脳論』では、無意識としての脳みそが、僕らの意識の世界から「死」や「性」、「自然」を無くそうと(実は勝手に)行動している、と。「死」や「性」という問題は人々から遠ざけられている。人が死んでもそれはキレイな(ある種、偽りのような)外見で葬式会場に現れる。人は本質的に「我々も最終的には死ぬんだ」と連想させるモノを遠ざける性質であり、それってほんとうにそれでいいの?というかたちでタブーに触れるのは人々が人生を生きる上で大事なことであると思う。日本に限定される問題なのか?という疑問はあるけれど、もし世界的(=人類の問題としての)な問題であればそれはそれで旨味のある話でもある。とりあえず、その批評性こそがアートの持っている力でもあり、魅力のひとつである。
黒瀬さん率いる(?)カオスラウンジは、アニメ絵(あるいはアニメのキャラクター像)という興味関心(大脳辺縁系レベルの好き)が、ネクロフィリア的アニメ鑑賞に対するひとつの批評性を持ちうる。つまり、彼らの大脳辺縁系レベルの興味関心・問題意識が社会的繋がりを持ったわけで、会場の来場者が「アニメーターとして批評性を持ちえることはできなかったのか?」と質問していたけど、「彼ら(嘘くんと梅ラボ)が唯一社会と接続できるツールがアートとしてのアニメしかなかった」というのは芸術家の存在意義でもあると思う。ある意味で、芸術家にとって一般的な言葉を使ったコミュニケーション以上に創作というコミュニケーションの方がより想いを伝えられるツールであるわけだ。
アートの社会的意味としては、大脳辺縁系レベルの興味関心によって誕生した作品は、「批評性を持つか」「癒やしとなるか」といった社会的意味によって存在理由を提示できるのかもしれない。大脳辺縁系レベルの好き嫌い、つまりひとつのアート作品によって発生する快不快という感情レベルを超えて、社会に対する「正義」としてのアートでなければならない。「僕らの作品はあなたにとって不快かもしれませんが、社会的にこれこれこういう意味・意義があってやってるんです。真剣なんです」という話で、アートというモノはすっきりと飲み込めるモノではなく、喉に突っかかるような異物である必要がある、という話にも繋がってくる。異物としての正義。
幸か不幸か、僕の勝手な解釈か、
この「不快かもしれませんけど、僕らは僕らの正義としてやってるんで」という態度は、伊藤計劃の言う「世界精神型」の悪役に近いものを感じて、妙に興奮した。
「ダークナイト」のジョーカーを始めとした『世界精神型』の悪役たち。つまり、芸術家も、この『世界精神型』のアウトローであるわけだ。
解釈をゆだねるアート→解釈を提示するアート、という時代の流れ的な話があって、あずまんの理論では芸術家自身が解釈を提示するべきだ、ということだったけど、この解釈を提示する段階でメディアはその役目を果たせないか?という疑問がある。そもそも批評をしっかりとしないと、それすらもできないのだけど。とりあえず、「悪役論」みたいなのってないのかな。