何かを作るのは予想以上にやっぱり難しいよ

挫折しそう。

伊藤計劃のようなSF小説を書くんだ!」と豪語して数カ月。ストーリーはもうできているので、ディテールを補完しつつあとは書くだけなんだけど、むちゃくちゃ挫折しそう。何がやばいかっていうと、今さらなんだけど、「いい文章ってなんだろう」っていうこと。そのシンプルだけどアホみたいに難しい問題に当然のごとくぶち当たって、ああでもないこうでもないとひーひー言うております。

 

っていうか、「芸術とは何か」という疑問からスタートしていることもあり、「いい文章」はちゃんとわかっているんだよ。それは(僕にとっては)伊藤計劃のような文章だ。しかし、お察しの通り、いざ自分が文章を書こうと思ったときに、その伊藤計劃のような文章が出てくるかというとそんな単純な話じゃないわけで。だから、『虐殺器官』を読んで、その書かれた文章の何が伊藤計劃の文章として機能しているのかということを研究しないといけない。いい悪いの判断は感性的だけど、生み出すときはまず理性的な作業が必要なのだと思う。重要なのは、感性は教育できるということ。反復練習によって、おそらく脳のシナプスの繋がりを自分好みに編集できる。

 

自分で文章を書くことで、「いいモノを観ろ、本物を体験しろ」と言われるその理由がよくわかった。自分が書いた文章に対するいいか悪いかの判断は、自分が観て聴いて体験したこと以上のモノは出てこない。知識も同様だ。当たり前だけど。アイデアがふと思い浮かんだとしても、「ああ、あのときの知識だ」とか、あるいは「ああ、あれとあれの組み合わせだ」とか、そういうリアクションしか生まれない。そうときはいつも知識の壁のようなモノを感じる。自分の中にあるモノの限界を、物理的なイメージ(矛盾)の壁として触れている感覚。知識の檻に閉じ込められているような。知識を増やせば増やすほど、その檻がどんどん壊されていってきっとおもろいモンができるだろうと思ったりもする。

 

これまた伊藤計劃の「意味をあざ笑うレイヤー」という話だけど、僕らが文章を読むとき、物語の流れというレイヤー以外にもっと別のレイヤーも受け取っているんだろうなと思う。それはつまり空気感とかそういうモノであり、文章のディテールに依存している。細かい人物・背景描写ということではなくて、「選ぶ」なのか「選択する」なのか「チョイスする」なのか、ということ。テクスチャー(肌触り)を楽しむということ。 - ぐちゃぐちゃと書き殴る。で、語ったような細かさは小説も同じだ。とか言いつつも、言うのは簡単だがやるのはむちゃくちゃ難しい。締切もあったりと「間に合うかな…」という憂欝感と焦燥感にやられてもうテンションだだ下がりですが、やるしかありません。