(「正しい」じゃねーぞ)

誰も信じるな - 伊藤計劃:第弐位相

これめちゃくちゃ好き。ほんとに好き。

もちろん、ものすごく独善的で、傲慢で、我侭で、人によっては「不快」でしかないというのもわかるし、おまえ何様だよって思うのもわかるんだけど、それでも僕はこういう人間になりたい。結局、善悪っていうのも、「世の中こうあるべき!」とか「夢を持って生きることは素晴らしいことだ!だから、みんなも!」みたいな発言っていうのも、自分の好みの問題なんだよね。「現在の就職活動の現状はよくない。もっとアメリカンな就活にすることがいいよね!」という言論も、結局は現状の就職活動が嫌いで、アメリカンな就活が好きっていうだけの話で。そこで「良い悪い」という言葉で世界の共通認識みたいなのにしちゃうのって嫌いなんだよね。

この場合の好き嫌いは、つまり楽しいかどうかで。伊藤計劃も(「正しい」じゃねーぞ)と忠告してるように、「正しい」のと「楽しい=好き」は違う。伊藤計劃は、たとえ自分の発言で世の中が「正しくない」方向にいったとしても、「楽しけりゃ」それで満足するんだと思う。こういう自分の欲望に忠実なひとは、むしろ信頼できる(と思う)。それを他人に共用しちゃいけないんだけど、伊藤計劃のスタンスは、ちょっとでも自分の想いが伝わって、少しでも自分にとって楽しい方向にいけばいいなあーくらいの、現実的な虚しさも感じるようで、すごく切なくて、どこか魂の叫びのような、悲壮感のようなモノも感じられて、愛おしくなる。

じゃあなんでこんなエントリ書くよ。なんで時々日記じゃないこと書くよ。何故か。おれはこの世が少しでもおれにとって楽しい(「正しい」じゃねーぞ)場所になってほしくて書いているのだ。何人かはもしかしたらいるかもしれない。「うん、そこらへん気をつけて書けばもうちょっと映画評面白くなるかな」って考える奴が。そういう奴の存在におれは賭けてるんっだつーの。「個人の自由だと思います」とか抜かしている間は何も変りゃしねえ。いい言葉だな「個人の自由」って。たいそうなこった。くたばれ。おれはおれにとって読み応えのある文章がすこしでも増えてほしくてこういうことをやってるんだ。おれのためだ。世界がおれにとってちょっとでも楽しい場所になりゃ万々歳だ。あのな、おれは世界を変える気で書いてるんだよ、大袈裟に言えば。いや大袈裟じゃないか、ホントの話だからな。スルーされない何人かに届いて、その人間が面白い文章をはてなで書こうとしてくれりゃおれにとっては大勝利なんだ。おれは明日死ぬかも知れないし、そういう「個人の自由ですから」なんておためごかしに付き合っているほど暇じゃねーんだ。もっともっとおれにとって面白くて興味のある文章が読みたくてたまらないんだよ。

 

あと、このエントリーで思ったのは、「これオススメなんで見てください!」とか「これ最高です!シェアします!」とか言うてる(あるいは、言う余裕のある)レベルのコンテンツって、その人にとって大したことないものなのかなーという気がした。まあ、そういう発言・投稿はコミュニケーションツールでしかないのかも、という気もしてるけど。実際、このエントリーは素敵すぎてSNSでシェアしたくなっちゃったんだけど、結局しなかった。この伊藤計劃のスタンスは、もっと多くの人に知ってもらいたいし、将来的にはそういったことを仕事にしたいとも思っているけど、このスタンスはあまりにも自分の内面というか、根本的なところに食い込みすぎていて、シェアなんて出来るわけがない。そう思うと同時に、今の世の中は(というか、インターネット上では)シェアをさせるためのコンテンツが全盛で、むちゃくちゃ心に食い込むけどシェアできないようなコンテンツはほとんどないんだろうなあ、と。携帯のメモ帳に「だれにどんなボディーブローをかますか。シェアする気力すらも根こそぎ奪い去るような重いやつ」って書いてあるんだけど(いつどんな状況で書いたのか覚えてない)、ほんとにこれで。見た瞬間・読んだ瞬間に心ん中がぐちゃぐちゃにされて、もうどうしようもなくて、シェアとかそういう思考すら浮かんでこないような、重くて破壊力のある一撃を、世界に、そして個人にかましたい。

あと、携帯のメモ帳にあったやつ。

本の海。

軽い本と重い本。

軽い本は浅瀬に浮かび、重い本は海底に沈んでいく。

なんだか妙に詩的なんだけど、僕が書いたんだっけか。