LEE UFAN MUSEUM

建築学科の兄が「建築とは、依頼人の要望を叶えつつ、家を建てる場所の周辺環境と家を建てるときの技術力を考慮しないといけない」という話をしていて、「なるほど、そういうことか」と納得できたのが、李禹煥美術館や地中美術館

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都会に点在しているような美術館は大きい。だから、自然豊かな土地には合わないんだろうな、と。李禹煥美術館がある場所は、瀬戸内海に浮かぶ直島。本州側の岡山は宇野港から瀬戸内海を一望したとき、「海ってきれいだなー」と思う一方で、「島もきれいだな…」と感じるほどに美しい自然がたくさんあるのが、きっと瀬戸内海の島々で。美術・絵画に権威付けするかのように重厚さをもつ都会の美術館はそんな美しい島々には合わんだろう。そこで、芸術を中心にして村おこしならぬ島おこしを願う瀬戸内海の島々は、芸術と自然の融合を前面に押し出していて、芸術の展示場所である美術館も自然と調和するようなデザインとなっている。

直島にある地中美術館もそうだけど、美しい景観を台無しにしないような建築デザインがなされている。

 

  • LEE UFAN MUSEUM -沈黙の間-

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http://setouchi-artfest.jp/artwork/a014)↑「沈黙の間」

瀬戸内海アートツアーの初日は直島巡り。一般的には地中美術館の方がメインだと思うけど、僕は李禹煥美術館の方が好き。中でも「沈黙の間」はすごくよかった。まず、この「沈黙の間」に入ったとき、まっ先に視界に飛び込んでくる小さな岩と壁にかかった鉄板が暗い室内において薄い灯りに照らされていて、ぽつんと置かれた岩の佇まいによってピンと張り詰めたような静けさが感じられた。その静けさがすごく好きだった。その後、じっくりと作品を観察して思ったことは、岩と背後の壁にかけられた鉄板との関係性から感じる哀愁。それはまるで厳格な父と見放された子どものようで、神に懺悔するキリスト教信者のようで、暗がりに浮かぶ月をひとり寂しく見上げる岩(人?)のようで。そこにあるのは、岩(物体・もの)なのにまるで人間のような後ろ姿・哀愁。しかし、それはどう見ても岩でしかなくて。岩に感情が芽生えるはずがないので、感情が芽生えたのはこっち側(人間)であり、それは幻想でしかなく、リアルでもない。

けど、人々がいつも見ている風景は人間の脳が勝手に構成している映像でしかないのだから、人間の脳が勝手に岩に対して感情移入して人間のように感じるのもまた現実である可能性も高い。なんてことも考えたりした。よく議論されるロボットと人間の違いは?という話では、検証者とロボットを対話させて(そのとき、検証者に対話の相手がロボットであると伝えないこと)、その対話に違和感がなければそれは人間である(あるいは人間に極めて近い)と判断される実験があるけど、結局ロボット(モノ)が人間であるかどうかは人間が勝手に判断しているだけ。宇宙人が人間に化けて人間社会に溶け込んでいたとしても、その宇宙人は人間にとって人間でしかない。みたいなことを哀愁ただよう岩の後ろ姿を見ながら考えた。

 

あるいは、アダムとイブのようなキリスト教的な価値観で言うと、楽園(自然界)を追い出された人間たちは、自然から隔絶(例えば、人間にはわからないだけで木々や岩、海は会話をしているかもしれない)されている。楽園に戻ること=自然と対話できること、だとすれば、自然への感情移入や自然の美しさに気付かせてくれる芸術は、楽園云々が神話レベルでしかないとしても、何か人間の心に大切なものをもたらしてくれるのかもしれない。とか。

  • LEE UFAN MUSEUM -影の間-

そんな幻想は、次の「影の間」でも感じた。岩の影に映し出された人混みや海、水、空の映像によってそれがまるで今までその岩が見てきた(それは人の寿命よりも長い歳月かもしれない)過去であるように。その映像は、太古の昔から何も言わずに何もせずただじっと存在していたかのように感じたし、それはまるでその岩が過去を振り返っているかのようにも感じたけど、そこに岩の感情があるはずもなく、そう思う・感じるのはあくまでも僕自身でしかない。

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