ヒーロー見参!!

PS:意識より愛をこめて

アートオタクがストリート界隈に惚れ込むまでの話

 

最近、ストリート /ヒップホップ界隈がおもしろいと思ってて色々と調べているんだけど、「まあ最高だな、すげーな」ってなってる。

 

「まあ最高だな、すげーな」って思えたことがすごく嬉しくて、どのくらい嬉しいかっていうと、「なんで嬉しいのか?」ってことをブログでつらつらと書こうかなってぐらい嬉しい。

 

今回は、その興味の変遷と、色々と調べたなかで見つけたストリート/ヒップホップ界隈でカッコいいモノを適当に紹介していく。

 

ストリートに憧れる陰キャラな少年

 

興味をもったきっかけは、
あるファッションブランドの販売を手伝ったとき。

そのブランドは、ドラッグとかをモチーフにしていて、ストリート/ヒップホップ界隈な雰囲気のブランドだった。

で、ガラの悪い人たち(失礼)が購入していく一方で、陰キャラっぽい人たち(失礼)も現れて、そのブランドの服を買っていく。

特に印象に残っているのは、どこか冴えない感じの無口そうな少年。制服を着ていたので、高校生か、もしかしたら中学生だったかもしれない。平日の昼間だったので、学校はどうした?と思いつつ、服を販売した。

友達が少なそうなやつだった(偏見)。毎日がつまんないと思ってて、誰にも心をひらけないタイプの(偏見2)。

 

ただ、

それでも、

そのブランドは、偶然通りかかったから買うような代物でもなく、何かの意味をもって買うものだったから、きっと彼のなかで「ほしい」と強く思う何かがあったのだと思う。

 

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https://twitter.com/iLLNE5S/status/866983147623268354

 

ブランドは“フィクション”だと、僕は思っている。

そして、“フィクション”の性質のひとつとして、「それにすがりつきたい」という感情を無意識にでも引き出す“何か”がある。

つまり、どこか冴えない感じで、無口で、友達が少なそうで、毎日がつまんないと思ってて、誰にも心をひらけないタイプの(偏見3)、あの少年は、きっと、あの服にすがりついていた(妄想)。

 

そもそも、「すがりつく」っていうアイデアは、アイデアというか感覚は、オタクがアニメを観るという行為から思いついたモノだ。

 

だから、アニメと対極にありそうなストリート/ヒップホップ界隈であっても、「すがりつく」コトがあるんだっていうことが、(それ自体は当たり前のことかもしれないけど)僕にとっては新しい発見で、すごく嬉しかった。

オタクとヤンキーは、学校という現実に馴染めなかったという意味で、たぶん同じなんだろうなって。

どこか冴えない感じの無口そうな陰キャラ(失礼)が、ドラックをモチーフにしたヤンキーな服を買っていくの最高だなって。

 

 

そんな出来事があり、ストリート/ヒップホップ界隈に興味をもった。

で、色々と調べてみると、思った以上によくて、すごくて、カッコよくて。

 

リアルか、リアルじゃないか

 

例えば、「リアルか、リアルじゃないか」という評価基準があるらしい。

 

「ストリート界隈おもろい...」「ヒップホップ界隈おもろい...」と脳内でつぶやいていると、知り合いのストリート好きが「リアルか、リアルじゃないか」ということをfbに投稿していた。

 

ちなみに、私は、フィクションが好きだ。

逆にいうと、クソッタレな現実に対してフィクションが生まれるという理屈なので、現実が嫌いだ。

つまり、リアルが嫌いだ。

 

僕はリアルなんて糞だと思っていたけど、それを評価基準にしている人がいるらしく「へー」って驚いた。

なので、「あれってどういう意味?」って聞いてみた。

 

曰く、

いかついラッパーがディスり合いしてるときに「殺すぞ」って言ったとする。

「リアルか、リアルじゃないか」というのは、説得力の話で、そのラッパーがほんとうに人を殺しそうかどうかっていうこと。それが大事。「殺すぞ」という発言が、リアルかどうかということ。

日々の積み重ねで、その説得力は変わる。

 

www.youtube.com

 

なるほどって思って、

僕が「リアルだな」って思ったのがBAD HOPっていうヒップホップクルー。

これがむちゃくちゃかっこいい。というか、僕のイメージしてるヒップホップそのものだった。

いくつかヒップホップ系の音楽を聴いてみたけど、音楽的にもしっくりきたうちのひとつ。

 

www.youtube.com

 

 

そして、彼らは、川崎の工業地帯によって生まれたグループらしい。

 

つまり、彼らの育った環境の話だ。

 

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少し話がずれるけど、「リアルか、リアルじゃないか」って話を聞いて、まず思いついたのは上掲のアート作品『No Man's Land』。

作家は、フランスの現代美術家クリスチャン・ボルタンスキー。

www.echigo-tsumari.jp

 

すげーかっこいいっす。

ど迫力、おぞましいほどの質量、異常性。

 

クリスチャン・ボルタンスキーは、「記憶」をテーマにした作品が多い現代美術家で、何が言いたいかっていうと、彼のルーツは、父親がロシア系のユダヤ人で、母親がフランス人だということ。

 

ホロコースト

 

を彷彿とさせる作品だ。

 

もちろん、それはただ単純に「ユダヤ人=アウシュヴィッツ」ではない。

誰かのなんでもない古着を大量に集めて、それを異様なスケールで積み重ねることで、僕たちに「ホロコースト」的な記憶を思い起こさせる“装置”を生み出した。

 

“「ホロコースト」的なイメージ”は、フィクションだ。

そして、フィクションは、現実に対して生まれるモノだ。

少なくとも、ユダヤ系の父を持ち、子どもの頃に当時の記憶を聞かされたというクリスチャン・ボルタンスキーにとって、この作品が、虐殺の体験ではなく“記憶”の装置あることは、すごく“リアル”だと思う。

 

各々が直面している、接してきた現実を、フィクションへと変換している表現者が、やっぱり僕はカッコいいと思う。だって、それはすごく真摯で、切実だと思うから。

 

真摯で、切実という意味で、

ヒップホップも、現代アートも、

「お、似てるかも」って思ったのが正直なところ。

 

同じくらい「カッコいいな」って思う。

 

 

だがしかし、「ネットラッパー」というのがいるらしい

 

で、それで、ここからもっとおもしろいんだけど。

kai-you.net

 

「ネットラッパー」っていうインターネット発のラッパーがいるらしいんだけど、この流れはむちゃくちゃおもしろすぎるでしょ。

 

ストリートは、

リアルは、

一体全体どうした。

 

ここまでの大前提と、僕の興奮が全否定された...。

 

www.youtube.com

(具体的には、↑ jinmenusagiさんとか↓ 電波少女さんとか)

 

 

でも、実は、

僕はこっちの方が好きだったりする。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

僕にとっては、ストリートよりもインターネットの方が“リアル”なのかな、と思いつつ。

時代にあわせて、当然のように、“リアル”が変化するのっておもしろいな。

 

リアルだなんだと言いつつも、そのリアルの概念が更新されちゃう感じ、すげーカッコいいんですけど。新勢力感たまらん。

  

 

あとはなんだろう...グラフィティとか?

 

ストリート/ヒップホップ界隈に興味をもったとき、まず最初に「入り口はどこにしようかな」って思ってたどり着いたのが、グラフィティ界隈だった。

 

アート好きとして、グラフィティ/ストリートアートには注目していて、

 

具体的には、

バンクシーであり、

KAWSであり、

大山エンリコイサムだ。

www.cbc-net.com

(読もうと思ってだいぶ放置してた『アゲインスト・リテラシー』。めちゃくちゃおもしろかった。大山さんチョイスによる、前半はグラフィティアーティストの紹介と、後半はグラフィティ史。冒頭に掲載されていたグラフィティの専門用語もまじでカッコよかった)

 

↓ 別サイトだけど、グラフィティの専門用語例。

そもそも、専門用語があるほどシステム化されているってことがすごい。

(下記サイトより一部抜粋)
◆Bomb:自分のペンネームをインクであちこち書きまくること。あるエリアにタグやスローアップを書くこと
◆Throw-Up:短時間、かつ単純で2色ほどのアウトラインでペイントされた作品
◆Piece:マスターピースの略。主にタグ、バーナー、そしてキャラクターを含む1つの作品を意味し、最低でも3色は含まれる作品
Tagger: ピースを書かずスローアップとタグのみを書くライター。ピースを頻繁に書く経験豊富のライターはそんな彼らを“Scribblers”と呼ぶこともある

www.webgakinome.com

 

 

ちなみに、街中にグラフィティがあることのカッコよさを感じられるのは、ドラマ『ゲットダウン』がオススメ。ビシビシと伝わってくると思う。

 

『ゲットダウン』は、1977年のNYが舞台でヒップホップ黎明期の物語で、治安悪くて、街中が荒れ果てていて、そこら中にグラフィティが描かれている。

www.netflix.com

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グラフィティは、なんていうか、理屈抜きで、「カッコいい!」ってなるのがすごく好き。

ビジュアル的にテンション上がるというか。

 

↓ 色々と調べてて「やべえ!カッコいい!」ってなって、脳汁ぶっしゃーって出たやつ。

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https://www.instagram.com/p/BUbZDQ3DEjz/?taken-by=madsaki

 

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https://www.instagram.com/p/BTKGsWllhur/?taken-by=side_core_tokyo

  

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https://www.instagram.com/p/BTLifkWj9R5/?taken-by=markchronic

「ぼくが好きで聴いている90年代のラップミュージックはさらに古い音楽(多くの場合他のジャンル)から抽出した幾重ものサンプルの上に成り立っている。(中略)もしくはすでに近くにあるもので自分を表現をすること。ぼくは幼少の頃からピーナッツのキャラクターが近くにあったし、これと初期のヒップホップカルチャーがぼくという人間のコアを構成していると思う。 – マーク・ドリュー

http://www.clearedition.jp/web/2017-4-mark-drew-3085.html

(「ストリート系だ」と思ってなんとなく観に行ったマーク・ドリュー展。よかった。スヌーピーのキャラたちが口汚く罵る作品。会場の隅には、子ども部屋にありそうな、どこか懐かしいおもちゃとかガラクタがポツンと置いてあって、作品が攻撃的な反面、その彼のもっとも純粋な原点みたいなのが伝わってきて、愛おしくなった)

 

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https://www.instagram.com/p/BT_okTSlAPe/?taken-by=takashipom

www.instagram.com

 

tomagazine.jp

(UFO907さんはいろんなとこで見かける。
と同時に、ビジュアルとしてかなり“強い”。あ!ってなる=それは単純にすごいことだと思う)

 

 あと、Lyさんとかすごく好き。

www.instagram.com

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カッコいいけど、なんかちょっと寂しい感じ、よくない?

 

 

あと、勝手にストリート系だと思ってるBRIDGE SHIP HOUSEさん。

 

www.instagram.com

 

とりあえずはこんなもんかな...

 

instagramとかビジュアル重視な世の中だから、グラフィティ界隈がもっともっとおもしろくなるといいなー。 

 

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https://www.instagram.com/p/BTrRWyiAJ7b/?taken-by=yukirin_u

 

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https://www.instagram.com/p/BUsrhP7hsgy/?taken-by=mo24yu.too

 

背景にもこだわって撮るっていうインスタスポットの流れのなかで、グラフィティが注目されているのもむちゃくちゃ好き。

 

カッコいい女の子って最高だな。

 

 

以上、

インドア系アートオタクがストリート界隈に惚れこむとこんな感じになります。

文化としておもしろいし、ビジュアルとしてカッコいいと思うし、最高だなって思う。

 

とりあえず、途中経過。

まだまだ継続して追っていく所存。

 

人生ではじめて感情を止めたいと思った演劇の話 | マームとジプシー『sheep sleep sharp』

 

「人生でいちばん感動した瞬間は?」

 と聞かれたら、

豊島美術館内藤礼さんの作品を観たとき」と答えるようにしている。

 

http://benesse-artsite.jp/art/assets_c/2015/10/teshima_museum_top-thumb-1440x967-152.jpg

benesse-artsite.jp

 

豊島美術館は、とてもきれいで、穏やかで、静かで、

内藤礼さんの『母型』は、一瞬一秒たりとも同じ表情を見せない。

だからこそ、ずっと観ていたいと思える、ここにいたいと思える、とてもワクワクするような場所だ。

でも、「きれいだな」「素敵だな」と思う一方で、こんな場所を作ってしまうヒトに対して、ちょっとした恐怖感も覚えた。それほど、豊島美術館は、この世界にとって異質だった。

 

だから、

「人生でいちばん感動した瞬間は?」

と聞かれたら、

豊島美術館内藤礼さんの作品を観たとき」と答えるようにしようと思った。

 

それが、たしか、2013年とかその頃。

 

それから4年経って、2017年の5月初旬。

新宿のLUMINE0で、マームとジプシーの『sheep sleep sharp』を観た僕は、

 

「人生でいちばん感情がやばかった瞬間は?」

と聞かれたら、

「マームとジプシーの『sheep sleep sharp』を観たとき」と、今後は答えることに決めた。

 

https://obs.line-scdn.net/hd1eAuJJIJx91VDQROgIgZiQmMSd0WCxOZQx0cHU9bSxwDXgYNFdxfn9tYCcmW3lOYFgxf346MiZ2WA/m800x1200

sheep-sleep-sharp

 

「マームとジプシー」とボク

 

『sheep sleep sharp』は、藤田貴大さんが脚本と演出を務める演劇団体「マームとジプシー」による演劇作品。

 

演劇を観るのは、これが3回目。

 

ひとつはコレ。

www.parco-play.com

 

窪塚洋介 × イサム・ノグチ」という組み合わせに惹かれて観に行った記憶がある。

 

そして、もうひとつがコレ。

mum-gypsy.com

 

これは知り合いに誘われて観に行った。

 

寺山修司 × マームとジプシー」という組み合わせ。

“才能”にそもそも興味があるので、寺山修司は当然として、マームとジプシーの藤田貴大さんという若い演出家がいるということは、なんとなく知ってはいた。

 

『書を捨てよ町へ出よう』のときは、独特なリズムの台詞まわしに「なんだこりゃ、すげーな」と感じつつも、アジテーションとして、演劇はやっぱり優れているんだなーっていうことが強く印象に残った。

 

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 【ELLE】 「ミナ ペルホネン」長江 青の日記| 「書を捨てよ町へ出よう」マームとジプシー|エル公式ブログ

 

最後の、拳銃を撃つ瞬間、なによりも“身体”が高揚したことを今でも覚えている。

感情ではなく、“身体”が高揚した。あるいは、反応した。

それは、高揚というよりも、何かに突き動かされるような熱量に犯された瞬間だったのかもしれない。

 

『書を捨てよ町へ出よう』の舞台は、学生運動が盛んだった70年代(だったと記憶している)。

もしも僕が、政治や社会に対する鬱屈とした感情が漂う70年代に生きていて、敵対すべき憎悪の対象もしっかりと見定めていて、その時代にマームとジプシーの『書を捨てよ町へ出よう』を観ていたとしたら。

きっと、僕は、最後の銃声に触発され、劇場を駆け出して、銃を片手にテロルへと突撃していたに違いない。

 

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書を捨てよ町へ出よう | マームとジプシー

 

と、妄想する程度には、『書を捨てよ町へ出よう』の最後の銃声と、そこに至るまでの不思議な物語や演出によって、僕の感情はかき乱されていて、前後不覚というか、完全に僕のコントロール下を離れてしまっていた。

 

とにかく、あの銃声がすごくよかった。

つまり、「音は、耳だけでなく、皮膚でも感じられる」ということを実感した瞬間だった。

 

それは同時に、演劇だからこそでもあって、

「演劇っておもしろい(すごい)(やばい)かも…」

と思ったのがそのとき(いやまあ、世の中的にはもう散々っぱら言われてることですが...)。

 

 

それをきっかけとして「行こうかな」と思っていた次の『蜷川幸雄 × 藤田貴大』は、ご存知の通り、上演延期になってしまって。

そこから、一旦、演劇に触れる機会はなくなり、1年半ぐらいが経った。

 

が、ちょうど『sheep sleep sharp』の公演が始まるってことで、そのことに気付いたのがとある日の12時頃とかで、チケットの販売もその日の12時頃とかだったので、「あ、買える」と思って、買った。即座に。

 

そして、観に行った。

 

結果、むちゃくちゃよかった。

「人生でいちばん感情がやばかった瞬間は?」と聞かれたら、「マームとジプシーの『sheep sleep sharp』を観たとき」と、今後は答えよう!と固く誓うほどに。

 

豊島美術館のすごさは観に行ったことのあるひとはわかると思うけど、“あの美術館”と同列に語りたくなるほど「まじでやばかった」です。

 

もちろん、それぞれから感じ取った感覚はまったくの別モノではあるけれど、僕が人生で出会ったマスターピースBEST3は、今のところ、『豊島美術館(内藤礼「母型」)』と『sheep sleep sharp』です(3つ目はまだ空位)。

 

ヒトは、たとえ「嫌だ!」と叫んでも、感情が動く

 

『書を捨てよ町へ出よう』とは違って、『sheep sleep sharp』は、マームとジプシーの藤田貴大さんによる完全オリジナル作品。

閉鎖的な空間が理屈や個人的な感情を超えて奇妙な狂気を生み出すような、そんな作品でした。

 

物語については、正直、「アレは一体なんだったのか?」と、もっとちゃんとゆっくりと考えたいなーって感じではありますが(ただ、ヒントがないのでもう一回観たい)、劇中はもうただただ夢中になって、あの舞台を、観ていた。

 

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女優の青柳いづみさんが、静かに(しかし、確実に異様に)行儀よく椅子に座っているところから物語はスタートした。結局、その静けさと異様さは、終始、劇場に蔓延しへばり付いていたわけだけど。

 

そんな鬱々とした演劇のラストに、ある種のカタストロフィーとして、

www.youtube.com

コレ↑が流れたときは、もう本当に気が狂いそうだった。

 

というのも、

「というのも」というか、

 

『sheep sleep sharp』と対峙している間ずっと、役者の動きや仕草、台詞、そのイントネーション、BGM、物語のテンポ、絶叫、灯り、繰り返される会話など、そういった演劇が積み重ねる要素ひとつひとつに、感情が何かの反応をしていた。

嫌でも反応する。どこか奇妙な"それら"にどうしようもなく反応する。勝手に、感情が。嫌でも。

正直、死ぬかと思った。

 

ご存知の通り、ヒトは外的変化に影響を受けて、勝手に感情が動くもんだ。

 

そして、演劇は、映画や漫画と違って、いくつかの物語・現象・外的変化が、同じ瞬間に同じ舞台で起こっても、成立するんだと実感した。

漫画や映画は、1コマずつ物語と感情が進んでいく直線的な芸術作品だ。

つまり、1コマ・1フレームに詰め込められる情報量には限界がある。破綻するから。

 

しかし、演劇は違う(と思った)。

まったく違う感情の物語であっても、同じ瞬間に同じ舞台でも成立しうる。

だから、「悲しい」とか「やばい」とか「かっこいい」とか、アホみたいな量の、別々の感情がぶわっと一気に押し寄せる。眼や耳、そして皮膚によって。

たとえ「嫌だ」「やめろ」と叫んでも。

 

それに加えて、『sheep sleep sharp』には、奇妙で独特な、役者の動きや仕草、台詞、そのイントネーション、BGM、物語のテンポ、絶叫、灯り、繰り返される会話がある。つまり、藤田さんの演出だ。ひとつひとつが感情を逆なでる。

それらが、小さな町で起こった、少女による連続殺人の物語とリンクする。

 

www.youtube.com

 

そして、そのラストで、この曲だ。

「違う、違う、そうじゃない。そうじゃないはずだ!」と思いながらも、

「この物語は残酷だったはずだ、救いなんてどこにもなかったはずだ」と思いながらも、

それでも、最後になってようやく、たしかに希望をどこかに見出したような視点もあった。

 

絶望の感情と、希望の感情。

そういうぐちゃぐちゃとした感覚。

なんというか、笑いすぎて(息ができなくて)死にそうになることがあるけど、『sheep sleep sharp』は、それに近い感覚だったというか、感情(感動ではなく)が止まらなくて、観ていて本当に苦しかった。死ぬかと思った。やばかった。

 

それは、きっと、“場の空気”(という抽象的な言葉ですまん)を、眼や耳、そして皮膚で感じられる(感じざるをえない)演劇だからこそなんだろうなって。

 

 

 

『sheep sleep sharp』は、ほんとに、ほんとに、よかった。

いまだに、ちょっとまだ引きずってる。「あれはなんだったんだろう?」とか、ふとあのときの感覚を思い出して、ドキドキしたりしてる。

 

だから、「人生でいちばん感情がやばかった瞬間は?」 と聞かれたら、

「マームとジプシーの『sheep sleep sharp』を観たとき」と、今後は答えることに決めました。

 ほんとによかったです。

ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたい

 

ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたりお付き合いしたりできるのかな」ってふと思いました。

というのも、たまたま機会があって、ラフォーレ原宿に1日中つっ立っていたことがあったんだけど、そこですれ違ったゴスロリなあの子たちとぼくのファッションが、あまりにも違いすぎたから。

 

news.yahoo.co.jp

「個性」とか「自分らしく」とかそういうの大事だよねみたいな流れには全力でヘドバン肯定するし、「いやむしろもうそれしかないでしょ」って思うし、上記のりゅうちぇるさんとかスッゲーかっこいいなって思うけど、同時に、ちょっと怖いというか、「どうしようかな」って思ってる。

 

この「どうしようかな」という煮え切らない感じは、「アニメ好き同士で会話を始めると結局どこかでズレが生じ始める問題」に直面したときの感覚に近い。「アニメ好きなんだ!」「攻殻機動隊、いいよね!」「わかる!」「少佐かっこいい!」「わかる!」「少佐とサイトーの戦闘シーン最高!」「は?」「え?」となる現象。

 

「好きなもの」って突き詰めると、どこかで他人と共感し合えなくなる。

僕はあの瞬間がたまらなく嫌いだ。

それは、言わずもがな、「個性」も同様。

もちろん、コアな層同士で共感し合えるフェーズは確実にある。インターネットによって繋がりやすい時代にもなっている。でも、そこでさらに先に進むと、だんだんとコアな層もいなくなってきて、最後にはきっと一人ぼっちになる。

 

ここで「どうしようかな」って思う。

いや別に僕がどうにかできる問題でもないしどうにかできたところでどうにかするつもりもないんだけど、「どうしようかな」と思ってる。ひとつの思考実験として。

 

いわゆる“大きな物語”が死に絶えて、さらに「ブロックチェーン」とかいう“中央”に対して中指を突き立てるようなテクノロジーが今後何十年かで世界を席巻するらしいのだ。

本当かどうか知らないけど、個人的にはくそおもしろそうだなと思う。

 

それは、テクノロジーやそれを先導する覇権国家・アメリカと相性のいい「DIY」精神が根っこにあるから、きっとそのうち実現するに違いない。

日本だとひとつのライフスタイルとして歓迎されている「DIY」精神が、例えば「民主主義」という精神と同じくらいの破壊力をもって、大波のような勢いで世界を覆い尽くすことに期待したい。

 

辿り着く先は、

「個の自立」=「Do It Yourself」。

精神的にも、システムとしても、きっと個々の物語が強くなる。

 

そして、究極的には、僕らは語るための共通言語がなくなる。

 

 

きっと言語も同じだろう。

もっとキラキラした言語で会話したいという人はいるはずだ。

(ちなみに僕は、キラキラとしたお金も言語も興味ないです。oh...つまり、流通やコミュニケーションが死ぬ)

 

みんなが大好き中つ国のトールキンさんは、架空言語の創作者だ(いいぞもっとやれ)

dic.pixiv.net

 

みんなが大好き「バベルの塔」。

曰く、「神に近づきすぎた人類は、言語を乱され、そうして散り散りになった」という。

「ブリューゲル「バベルの塔」展」の画像検索結果

www.tobikan.jp

(ちなみに今年の展覧会で楽しみなひとつ〜〜〜)

 

以前のブログで、「アートとして“分断”に対抗する戦略を生み出したアセンブル最高!」みたいな記事を書いたけど、「個性を大切に」という謳い文句は「イエス!“分断”最高!」と高らかに宣言しているようなもんだ。

 

girlschannel.net

 

もしも“分断”がトランプ政権的な拒絶と排除の世界へと繋がるのだとしたら、例えば「量産型女子大生」たちは、“分断”に対抗するためのひとつの方法かもしれない。“経済”というシステムを導入することで、僕たちはまた再びひとつになれるのかもしれないと妄想する。

「没個性」と言われがちなユニクロだけど、いや「没個性」だからこそ、みんながみんなユニクロを着る世界になったならば、ターバンを頭に巻いた人たちとコミュニケーションするよりもきっとそのハードルは低いはずだ。

 

いやいやでもね、と。
それじゃあダメだよね?というのが世論だ(そう思いたい)。

 

だから「どうしようかな」と思う。

「少佐とサイトーの戦闘シーン」がいかに最高か?を説明するべきだろうか?

攻殻機動隊』が以降の作品に与えた影響がいかに素晴らしいか?を説明されるべきだろうか?

 

説明されて、いかに素晴らしいかを理解して、

しかし、共感できなかったとしたら「どうしようかなーーー」。

もちろん理解できればそれでいいんだろうけど、それだけだとなんだかちょっと寂しいなあって思う。

 

 だから、もしも「どうにかできる」のであれば、「どうにかしたい」わけです。(前言撤回)

 

とはいえ現状、ほぼノーアイデアなんだけど、

キュレーターの上妻さんによる試みはおもしろそうだなーと思う。

人類は初めから今の形で自動車を知っていたわけではない。
そのようなイデアは存在しなかった。
幾何学、物理学、工学、化学、車輪、蒸気機関の発明が、それぞれの潜在的な課題を湛え、それらが出会い、結合することで、蒸気自動車を生み出したのである。by上妻世海
 

ekrits.jp

 

幾何学」「物理学」「工学」「化学」「車輪」「蒸気機関の発明」の各学問や開発が、例えば分断された個性だとすれば、こういう繋がり方はアリだと思った。寂しくない。

こうやって異なるジャンルでもどうにか繋がって、“蒸気自動車”が誕生しちゃって、みんなでハイタッチできるなら、たぶんきっと寂しくない。

 

「」の中を、芸術家に据え置いて、

蒸気機関車”としての展覧会を企画し模索しているのが上妻さん、という認識です。

 

「何が生まれるんだ!?」というワクワク感がやばい。

「今まで観たことのないモノが観たい勢」としての期待も大きい。

今ここ、クソッタレな現実に存在してない“何か”を観たい、触れたい勢として。

(まじでおなしゃすという気持ち。楽しみ) 

 

期待しつつも「どうしようかな」とモヤモヤしている。

究極的には「ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたりお付き合いしたりできるのかな」という話なんだけどな。

 

i-d.vice.com

 

「ヒトがイルカを出産する」という未来がまじSFすぎて最高すぎるし切なすぎる。『長谷川愛 展 Second Annunciation』

 

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as-axiom.com

 

Ai Hasegawa Second Annunciation

長谷川愛 第二受胎告知

2017 01.28-02.25

 

「見たことのないモノが見たい」という欲望がたぶん強い。飽き性なんだろうとも思う。“それ”は、理解と共感という枠を踏み越えて、決壊したダムのように頭の中へと流れ込んでくる。その瞬間がすごく心地いい。

「おいおい、なんだこりゃ」と思って、「は?くそやべえな」と笑う。脳みそを鉄バットで思いっきりぶっ飛ばされるような、そういう爽快感。それが何かなんていう些細なことは一切気にせずとりあえず笑っちゃうようなおもしろさ。

 

人間やその他の生き物の遺伝子を操って、改変し、“美”の歴史を塗り替えていくバイオアートという領域が進行しつつある。

20世紀に、マルセル・デュシャンが便器を、ロバート・ラウシェンバーグが山羊の剥製とタイヤを、“美”の歴史に取り込んだことで、絵の具や石像でなくても、それは美術でありアートであると認められた。

それから、100年という短い月日が流れ、人類は、遺伝子操作を始めたとしたバイオテクノロジーを、“美”の歴史に組み込み始めている。

 

 ロバート・ラウシェンバーグモノグラム

 

前回の記事(“分断”と闘う建築家集団・アセンブル/『アセンブル 共同体の幻想と未来展』 - ヒーロー見参!!)で述べたように、iPhoneを起源として、僕たちはテクノロジーに対して「このクソッタレな現実を変えてくれるかもしれない」という期待を抱いた。

概念ではなく、実体のあるモノを。民主主義という理想や「自由・平等・友愛」という大義が、経済的困窮という実体のある現実と対峙して敗れ去ったことは、2016年末、移民排斥を唱える米国大統領の誕生によって証明された。

 

実体のあるテクノロジーに対する僕たちの期待は、メディアアート界隈の盛り上がりと呼応しつつも、同時に、バイオテクノロジーにも波及している。それは偶然といえば偶然なんだけど、2006年の「iPS細胞」や2013年の遺伝子編集技術「CRISPR/Cas9」の誕生などを例として、2000年代以降は、バイオテクノロジーが僕たちの期待に耐えうるほどの強度を持ち始めている。

 

『私はイルカを生みたい』... 

 

そうした流れの中で、バイオアーティストのひとり・長谷川愛さんは、2013年に「ヒトがイルカを産むことができる未来(=フィクション)」を作り出した。

 

『私はイルカを生みたい (I Wanna Deliver a Dolphin...)』

vimeo.com

 

ジレンマチャート。© Ai Hasegawa

長谷川愛 | 「人がイルカの子どもを生む」という想像力と、社会の多様性について « INNOVATION INSIGHTS

 

「よかったですね!素敵な人生を歩んで下さい!」というテンションとかまじで最高にマッド。超クール。人類の幸せをサポートするよう設計されたAIが理路整然と「人類淘汰こそが人類の幸せなんだよ!」と主張してくるような、そこはかとなく漂う薄気味悪さがある。

ヒトがイルカを出産するという未来は、僕の理解と共感の範疇を超えていて「なんだこれ、くそやべえな」と笑うしかなかった。ああ、最高。

 

「私はイルカを産みたい…」という作品は、私が30歳になり、出産に対して真摯に向き合わなければならない時期に環境問題が多くニュースに取り上げられていて、人口過多と食料問題のほか、「そもそもこれ以上人間は必要ないのではないか?こんなに破壊されてゆく環境に子供は強制的に産み落とされて幸せなのだろうか?」などを考えさせられました。
by長谷川愛SHIFT 日本語版 | PEOPLE | 長谷川 愛

 

「ああ、くそやべえな」と苦笑しながらも、それでも、僕らが直面している現実の問題は切実だ。LGBTによる結婚・出産をテーマにした『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』という作品もまた、排斥よりも多様性を願う人々にとっては、どうしようもなく“美しい”作品だろうと思う。

 『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』© Ai Hasegawa

『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』。実在する同性カップルの一部の遺伝情報からできうる子どもの遺伝データをランダムに生成し、それをもとに「家族写真」を制作した。現在の科学技術ではまだ不可能な「同性間の子ども」の可能性を示唆している。© Ai Hasegawa

長谷川愛 | 「人がイルカの子どもを生む」という想像力と、社会の多様性について « INNOVATION INSIGHTS

 

一方で、ダミアン・ハーストがダイヤモンドで塗り固めたドクロを生み出すような時代において、僕らのファッションがユニクロで覆い尽くされている時代において、理想や大義を捨ててまで経済的な安定を求める人たちに失望する権利なんて持っちゃいないし、あまつさえ見下すことなんて出来やしない。

 

 

Damien Hirst『For the Love of God』 2007 171 x 127 x 190 mm | 6.7 x 5 x 7.5 in Diamond Skulls

For the Love of God - Damien Hirst

 

「1+1=2」という残酷さ

 

LGBTの問題にしても経済的弱者の問題にしても、ああだこうだと訴える正論は糞ほどあって、それは合せ鏡のように、クソッタレな現実を映し出している。言葉を尽くせば人殺しだって正当化できる“理屈”というやつは、ものすごくたちが悪い。

だけど、その醜悪さがSFという物語においては、凶悪で魅力的な敵として立ち上がってくる。Science Fictionの醍醐味はまさにここで、科学(理屈の積み重ね)と人間の感情が衝突し、ぐちゃぐちゃと混ざり合うところにある。

つまり、「1+1=2」という絶対的で動かしようのない理屈が持っている残酷さ。「1+1=2は嫌なんだ!頼むからやめてくれ!!!」と血管がぶ千切れるほど叫んですがりついて喉を潰しても、「1+1」は「2」だ。

 

「出産と人口増加」「LGBTの広がり」といったテーマを扱う長谷川愛さんの作品が「ああ、素晴らしいなあ」と思うのは、どうしようもなく正論な現実問題がその根底に眠っているからだ。僕の感情がまだ少し「ヒトがイルカを出産する未来」に違和感を覚えていたとしても、その現実は否が応にも進行する。どれだけ必死になって「嫌だ!」と叫んでも、残酷な現実は感情を押し潰して進行する。そのどうしようもなくやるせない感じや切実さが僕は好きだ。

 

現実が僕たちの“美”の概念を更新する。倫理的に、あるいは身体的にまだまだ抵抗が根強く残るバイオという領域において、それでも、待ったを許さず進行する現実があって、テクノロジーが誰かにとってのフィクション(=美の概念)を生み出している。

例えば、LGBTの人たちが抱えている居心地悪さは、今もまだ彼らを自殺に追い込むほどの暴力性を持っている。そういった、じわりじわりと忍び寄る残酷さが長谷川愛さんの作品には潜んでいて、同時に、テクノロジーに対する僕たちの期待が再現されている。

 

どこまでも正しく美術史を更新しながら、

僕の大好きなSFの魅力を内包しつつも、

「ヒトがイルカを出産する」みたいなぶっ飛んだフィクションも展開する長谷川愛さんの作品たち。

いや、もう最高すぎる。

 

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Patricia Piccinini at the opening of the In The Flesh exhibtion at the National Portrait Gallery. Photo Jay Cronan 

Weird, wonderful art of Patricia Piccinini | Newcastle Herald

 

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Vincent Fournier『CLOUDY TRAVELLING DOG』

Photography – Vincent Fournier

 

あるいは、これこそがバイオアートの魅力だと思う。

もっともっと、倫理的にも身体的にもぶっ飛んでいて、 どうしたって受け入れ難いけれど、「ああ、でもほんとそうだよな...」と葛藤するような、バイオアートが日本でも生まれてくれるといいな。

 

twitter.com

 長谷川 愛|Ai Hasegawa
国際情報科学芸術アカデミーIAMAS)、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートRCA)などでメディアアートやデザインを学ぶ。2014〜2016年までMITメディアラボにてMaster of Science修了。『(不)可能な子供』で第19回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞受賞。同作品を森美術館六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声』、 Ars Electronica 2016 『RADICAL ATOMS and the alchemists of our time』に出展。世界各国で作品展示を行い多数受賞している。

 

“分断”と闘う建築家集団・アセンブル/『アセンブル 共同体の幻想と未来展』

 

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www.vogue.co.jp

 

芸術とは、

「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という“理想”がまずあって、それがたとえフィクションだとしても、何かのかたちとして出現させようとすること(かもしれないと考えている)。

 

かつては、絵画や彫刻を通じてその“理想”を描いてきたわけだけど、ある意味で有名な便器おじさんことマルセル・デュシャンによって、「アイデアなどのかたちのないモノであっても、ひとはそこに理想を見出してすがりつくよね!」という方向性が提示されて(僕の仮説ですが)、少なくとも絵画や彫刻というジャンルを越えて、アート作品が多様化し始めたのが20世紀初頭。

例えば、「働けば誰もが自由にモノを買える」という資本主義的なアイデアは、フロンティアの開拓によって発展したアメリカにとっては、まさに“理想”だったわけで、20世紀のアメリカ人が大量生産大量消費の時代を嬉々として受け入れたのは、共産主義の脅威とも相まって、その“理想”と合致したからだと思う。そうして大量生産大量消費というアメリカ国民の“理想”を、フィクションとして出現させたのがアンディー・ウォーホル。

 

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マルセル・デュシャン『泉』

 

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( Andy Warhol and Screenprinting - ASU    BOOKARTS  

 

という補助線を少し引いてから、表参道のGYREで開催された『アセンブル 共同体の幻想と未来展』がすごく良かったという話と、そのアセンブルがイギリスで最も権威のある美術賞ターナー賞を受賞した理由を、書いてみようと思う。

 

そもそも、2015年12月にターナー賞を「地域再生に貢献したイギリスの建築家集団・アセンブル」が獲得したと聞いたとき、正直、「は?」と思った。

栄誉ある国際的な美術賞を、建築家が受賞したというのがまず「え?」だけど、それ以上に、ターナー賞といえば、僕の大好きなダミアン・ハーストが95年に受賞した素晴らしい賞であり、パンクとロックの精神を王として(違う)築き上げられた偉大なる大英帝国において、そんな福祉活動じみた優等生なアート作品が選ばれるなんて...と失望したわけです。鬱々としたダーティーな雰囲気で曇り空がお似合いのイギリス人は、サメのホルマリン漬けでも出しておけ、とそういう言い分である。

 

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『生者の心における死の物理的な不可能』(1991年)

( 【完全解説】ダミアン・ハースト「生と死」 - 山田視覚芸術研究室 / 前衛芸術と現代美術のデータベース )

 

もはや心の中で中指を突き立てながらも、「とはいえ、ターナー賞というすごい賞をとった人たちの展覧会ならば観るだけ観ておかないとなー...」と会場に足を運んでみたわけですが、これがまあ素晴らしかったというオチなんですよ。

最近考えていたことと似ていた、という妙な言い方で褒めますけど、アセンブルの作品には以前の記事( どうして現代アートは数千万円・数億円もするのか? - ヒーロー見参!! )で書いた現代アートのおもしろいところがありありと含まれていて、やっぱりうんおもしろいなーとしみじみ思ったわけです。

 

建築家集団・アセンブル

そのおもしろさのキーワードは、

DIY』『実践』『公共圏』。

 

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( Assemble and Study O Portable for Icon – harryborden.co.uk )

 

まずは、アセンブルについて

 

アセンブル 共同体の幻想と未来展』では、アセンブルが手がけた建築的プロジェクトのうち、ターナー賞で受賞対象ともなったリバプールのトックステス、グランビー・フォー・ストリーツでの活動が主に作品として展示されていた。

前提として、このグランビー地区は、かつては造船業で栄えた地区だったが、1970年代の経済不況と1980年代の暴動、また自治体による住宅の強制買収によって多くの住民たちが土地を追われ、廃屋が立ち並ぶ荒廃した地区になったという。

それでも、ヴィクトリア朝の美しい街並みが残るグランビーを守ろうと、市民たちが20年もの間ずっと奮闘し続けている。そういった動きの中で、アセンブルは、グランビーにあるケアンズ・ストリートの廃屋を修復するプロジェクトを依頼される。

 

展覧会の会場では、そのプロジェクトの様々な取り組みが、写真作品や映像作品、模型やイメージイラストなどによって幅広く紹介されていた。中でも、廃屋の瓦礫を再利用して住宅の内装とするインテリアプロダクトが不思議と心惹かれるような素朴な質感で、観ていてとても心地よかった。というか、写真や映像もだけど、根本的に見せ方が上手いので、ビジュアルとしてもワクワクできるような素晴らしい展示だったことは、とても嬉しい誤算だった。

 

 

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( Assemble wins 2015 Turner Prize )

インテリアプロダクトを撮影したコレ↑とか展示されてたけど、なんか遠近感(?)が妙で、浮遊感がありながらも柔らかい色調なので、すごく観ていて心地よかった。

 

アセンブルは、住民たちと一緒になって、荒廃とした地域を再生させていく。

彼らが考案したインテリアプロダクトは、瓦礫を材料として作るものだから誰でも実践することができて、そのレシピも展示されていた。また、そのプロダクトを手作りするための工房「グランビー・ワークショップ」もアセンブルによって設立されている。完成したプロダクトはネットで販売できて、その収益をグランビーの地域再生活動に還元するシステムも構築したという。

 

ここに、アセンブルのおもしろさがある。

それが『DIY』と『実践』というキーワード。

 

「◯◯のときにすべき10の方法」が好きな現代人

 

最近、『DIY』というアイデアがむちゃくちゃおもしろいぞとマイブームでして、コレについても色々と語りたいことがあるんだけど、たぶん本筋から逸れるのでそれは別記事で書くとして、とりあえず、2つ目の『実践』について説明します。つまり、「『実践』は美しい」んです。

 

「『実践』は美しい」....と言うと、えーと、「アートは日々の生活を豊かにする」みたいなふわっとしたノリになっちゃって、それはあまり好きじゃないので、もう少し具体的に言うと、美しいモノというのは「あ、コレなんかいいなー」と心惹かれるモノであり(仮説ですが...)、『実践』とは具体的な方法論のことで、つまり、身近な例でいうと、「◯◯のときにすべき10の方法」みたいなことです。

現代において人々が何に心惹かれるか?というと、僕たちは問題に対する具体的な解決策が大好きです。現代は「この絵すごく綺麗ですね。でも、これを買ったところで何かの役に立つんですか?」という時代です。

iPhone以降、やっぱり僕たちは、テクノロジーが詰まったガジェットに対して少なからぬ期待を持っていると思います。手のひらサイズの機械が僕たちの生活をガラリと変えてしまったという衝撃は、きっと薄く伸ばされたペーストのように僕たちの心にじわりと密かに浸透しているし、同時に、そうではないモノへの期待値を大きく下げてしまった。テクノロジーによって、クソッタレな現実が「きっと良くなるだろう」だ。

 

僕たちの生活を具体的に変えうる何かに対する期待。

それは、テクノロジーであり、方法論を語る文章その他であり、『実践』である。

 

「何かに対する期待」「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という現代の“理想”が、アートというフィクションの世界では、「コンテンポラリー・アート・プラクティス」という美術史上の動向として生まれています。

 

美術手帖「特集 コンテンポラリー・アート・プラクティス」
紛争やテロ、難民問題で揺れる政治情勢に、不透明さを増す世界経済。
表現の自由に対する規制も強まるなか、各地で起きている諸問題に対して、アーティストはどのような実践を行っているのか。
社会的使命を帯びた3人のアーティストたち−−
艾未未アイ・ウェイウェイ)、ヴォルフガング・ティルマンス、ヒト・シュタイエルのインタビューでは、 芸術を拡張し時代と対峙する表現について話を聞き、さらに各都市での実践例や理論を通して世界と関係するための、アート・プラクティスの最新動向を検証する。by美術手帖2016年6月号

www.bijutsu.press

 

その『実践』が、

『アート・プラクティス』のひとつが、

アセンブルの活動であると言うこともできます。

 

『実践』という“アートの文脈”を踏まえているからこそアセンブルはおもしろいとも言えるし、具体的な方法論が求められる時代だからアセンブルのような集団が生まれたとも言えるし、ターナー賞の審査委員たちがアセンブルを『実践』という“アートの文脈”に組み込んだとも言えます。

これはもう卵が先か鶏が先かみたいなもんだと思いますが、僕たちには無意識のうちに心惹かれているモノがあって、それはどうしたって時代の変化とは不可分です。つまり、“アートの文脈”は世界史と連動しているしせざるを得ないし、そこがむちゃくちゃおもしろいしカッコいいわけです。

 

例えば、グランビーの環境と似たどこか寂れた地区があるとすれば、アセンブルによるインテリアプロダクトの方法論は、別のドコカの地区にとってそのまま“希望”になり得るわけです。それはとても“美しい”と言えるのではないでしょうか。逆に言うと、同時代ながらもココジャナイドコカであれば、それはフィクションになってしまうというちょっと悲しい話でもありますが。

 

“分断”された世界で闘う建築家集団・アセンブル

 

アセンブルのことが「ああ、むちゃくちゃカッコいいなー、素敵だなー」と思ったのは、もちろん上記の『実践』についての話もあるんだけど、それ以上に、彼らの活動の根本的な想いとして存在する『公共圏』の話がもう最高すぎた。

正直、僕も会場で展覧会の趣旨を読むまでは全然知らなくて、それを読んで始めて、「あ、この人たちスゲー人たちだ」と思ったもんで、なので、以下に「あ、スゲー」って思った箇所を引用します。

 

アセンブル》は地域団体の活動に加え、同地域の住宅や公共空間を改善する活動に取り組んでいる。彼らは、まさに「市民的公共性」を唱えるドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスらの「公共圏」という思想の実践を精力的に行なっているのだ。

但し、ハーバーマスの西洋近代的な理性中心主義に止まらず、むしろハンナ・アーレントの「複数性を包括する空間」という「共通空間」を構築するために地元に根ざしたコミュニティを再生していくことを目指している。

 

んで、このあとに「18世紀のヨーロッパでは〜」とかって『公共圏』について話が進むんだけど、いや、でも、僕はもう「複数性を包括する」というフレーズだけでご飯を3杯は食べられるぞというテンションで、妄想が勝手に始まっていた。ハンナ・アーレントについては、映画『ハンナ・アーレント』を観ただけで全然知らないんだけど、結局「複数性」というのは、「わたし」と「わたしとは全然違うあなた」のことだと思うんですよ。たぶん。

アセンブルが目指すところは、「わたし」と「わたしとは全然違うあなた」が一緒にいることができるコミュニティを作ることであり、そのための『実践』の数々ということなんだろうと。

 

なんていうか、「お前、俺と全然違うけどスゲーな!最高だな!😆😆😆」というコミュニケーションがあってもいいと思うんですよ。だから、最近は、ボーダー(境界線)について「どうしたもんか...」と思うことが多くて、だからこそ「複数性」というフレーズに「あ!これかもしれない!」と反応したのかも。

 

きっと、グランビーの住民たちも、経済的・政治的な理由によって“分断”を余儀なくされた人たちだったんだと思う。それは物理的にも精神的にも。

 

トランプ政権をひとつの象徴として、世界が“分断”され始めている現代において、アセンブルが『実践』の中に仕込んだ「複数性を包括する」という想いは、ことさら力強い意味を持ってくる。

トランプ大統領を支持する白人層だって、彼らの生活(=現実)が豊かであったなら、わざわざ“分断”を望むことはなかったはずで(そう思いたい)。

だからこそ、アセンブルの成功例は、僕たちにとっての「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という理想になり得るし、アメリカとメキシコの“分断”にとってもフィクションでしかないけれど、フィクションだからこそ、「いつかきっと」という希望にもなるんじゃないかって。

 

アセンブルターナー賞を受賞したのは2015年12月で、いよいよ世界が不穏な空気に包まれていて、「わたし」と「わたしと全然違うあなた」との間に壁が生まれることで“分断”の時代に突入している2017年。
やるせないような、どうしようもなく残酷でクソッタレな現実に直面すると、それに対して理想が生まれてくることが常で、アートがおもしろいのは、やっぱりひとつにはこの部分で、世界史と切っても切れない関係性があるところだと思う。

 

ハンナ・アーレントが闘った、ナチス・ドイツという恐怖の歴史。

それに対抗するための「複数性を内包する」という思想。

その思想を受け継ぎ、この残酷な世界で『実践』を行う建築家集団・アセンブル

 

だからこそ僕は、もちろんサメのホルマリン漬けも好きだけど、アセンブルターナー賞を受賞したことに納得し、なんだかちょっと切実に、嬉しくも思ったわけです。

 

 

 

 

人知れず妄想した世界があるやつは強い。大童澄瞳『映像研には手を出すな!』

 

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spi-net.jp

↑漫画です、むちゃくちゃおもしろいです。

以下↓の試し読みで、「なんだかおもしろそうだな」と思った方はとりあえず読むべき。その期待値の3倍はおもしろいから。ソースは僕。

spi.tameshiyo.me

 

ストーリーとしては、

日々「最強の世界」を妄想している(しかも一つじゃない)設定厨女子・浅草氏と、

儲け話が大好きでクレバーな軍師系女子(美脚)・金森氏と、

カリスマモデルで爆大富豪なのにアニメーション(動き)に異常な熱意を見せる女子・水崎氏

の女子高生3人がどんちゃん騒ぎを繰り広げるアニメ制作漫画。

 

作家は、大童澄瞳さん。現在、23歳。

twitter.com

 

 

お前は、風車が回っていることに感動したことがあるか?

 

「最強の世界」をアニメで実現させたい!という女子高生が様々な困難を乗り越えてそれを成し遂げるという王道のストーリーなので、1巻の「こいつら、予算なくてもやるタイプじゃん」というセリフにはもうニヤニヤしまくりです。そこに辿り着くためのセリフのないコマや鑑賞後の観衆の描写は、感情の高鳴りをひとつひとつ丁寧に積み重ねてじわりじわりとくるように上手く演出されていて「ああ、こいつらまじでやべえもんを作ったんだな...」とむちゃくちゃ胸が熱くなる。

 

つまり、単純な話、漫画としての見せ方がすげー上手い。

このコマで、あるいはこのストーリーで、読み手にどういう印象を与えたいか?というキャラの表情やコマ割りがすごく上手い。暴力的に上手い。

いま、コレ書いててふと思ったけど、

この漫画は、たぶん、セリフがなくても成立すると思う。

少なくともある程度の感慨は得られると思うし、例えば「1巻丸ごと試し読み!ただし、一切のセリフなし!」とかでも購入者爆増するんじゃねーかなってぐらいすごいし、いやソレは完全に思い付きだし漫画の技術的な話はそこまで詳しくないけど、そう思っちゃうぐらいやばいよ!っていう話です。

 

っていうのもさ、1巻の中盤で風車が回るシーンがあるんだけど、このシーンがむちゃくちゃカッコいいんですよ。人生で初めて風車が回ってることに感動した。風車やばいって思った。

 

完璧だ、と思った。

 

一枚絵としてのカッコよさがまずあって、

それをよりカッコよく魅せるための、導入としての、ひとつ前のページがまた素晴らしい。

 

トンネルをくぐって、

広い空間に出たというイメージが生まれて、

「これが我々の作る、最強の風車だ」という浅草氏のセリフと表情を経て、

最後に、“舞うもの”が舞い、巨大な風車が回っているシーンが現れる。

 

この一連の流れがもう暴力的に上手い。

漫画のコマ割りとか、その他なんか色んなモノがむちゃくちゃ上手い。

やべえ!風車カッコいい!と感動せざるをえない。

 

 

そして、

完璧だ、と思った理由がもうひとつ。

 

「あの辺に建てた団地に穴を開けて滝を作る!」
「滝!?」
「今からですか」
(中略)
「担いで走れ!爆発するぞ!」
「なぬ!?」
by大童澄瞳『映像研には手を出すな!』

 

というこの↑会話が、この漫画のスゴさのすべてを表しているんだけども、

そもそも、風車のシーンは、金森氏が浅草氏に対して「風車のプロペラが回っているアニメーションを作れ」と命令したのがきっかけであって、“滝を描く必要性は一切ない”

なのに、浅草氏は、飛行船で団地に突っ込み、大爆発のなか、命からがら逃げ出してまで、滝を作った。

 

「私の考えた最強の世界を描きたい」という浅草氏の言葉に嘘偽りはなくて、

風車が回るシーンを描きながらも、それに飽き足らず、風車が存在している世界そのものも描く。

「最強の世界」のためだけに、ただただ純粋に己のすべてを注ぎ込むその姿勢や過剰さは、まさにそれこそがクリエイターであって、ほんとうに、ほんとうにカッコいい。

浅草氏には誰に言われずとも実現したい世界があるんだよ。そこに向かってただひた走る。そういうモノがあるやつは、強いし、カッコいいんだって改めて思った。

 

だからこそ、この風車が回るシーンは、『映像研には手を出すな!』の象徴として、完璧だと思った。

この漫画の軸である浅草氏の欲望が、これでもか!とばかりにエンジン全開でフル稼働し、漫画としての表現力の高さと相まって、むちゃくちゃテンション上がる迫力のあるシーンに仕上がっている。

また、彼女たちが作ったアニメーションの世界と現実世界が、ツッコミなし・魔法なしで、リンクし連動しフィードバックされてごっちゃになるという奇妙で素晴らしい漫画表現によって、彼女たちの情熱あるいは無邪気さは、手に汗握るひとつの冒険物語として伝わってくる。いい漫画だよ、ほんとに。

 

キャラのディテールが濃すぎて病みつきになった

 

で、まだある。この漫画の素晴らしいところはまだある。だから、やばいんだよ。 

とりあえず1巻は、3人の才能の片鱗が大暴れする回なわけだけど(片鱗なのに大暴れするというむちゃくちゃ最高な展開ですよ、完璧に合わさったら...と思うとワクワクしかない)、

「我々にはジブリやディズニーのようなブランドもないので、ジャンルで宣伝しないと金になりませんよ」とか「アニメーションは動いてナンボなんだあああ!」とか「『未来少年コナン』これでいいかな」とか、

キャラクターひとりひとりがいい味出しすぎてて、なんというか、何度でも読み返したくなるような中毒性がある。細かいんだよ、キャラクターの描写が。そのディテールの積み重ねが、そのキャラクターあるいは空気感を作るわけだけど、その3人の掛け合いがしかも笑えるというのはもうなによりも作家のセンスで「こいつらの会話をもっと聴いていたいなー」と思えることがまずスゴくて、そして、その3人の個性がちゃんとぶつかり合いながら物語として進んでいる感じがすごくいい。個々が勝手に動いているのになんやかんやで話が進むちょっとした群像劇みたい。

 

また、試し読みで期待していなかった嬉しい誤算としては、困難を乗り越える解決策がアニメ制作上かなり現実的だということ(...たぶん)。高校生によるアニメ制作漫画だと思ってなめてかかるといい意味で痛い目を見ます。納期と予算があって、それをシビアに管理する金森氏の存在がかなりいい誤算だった。

「その中でどうやって闘うか?」とか「アニメとしてどうやって良いモノを作るか?」とか、そういうことに対してのアイデアが痛快でまた素晴らしい。アニメ製作者からしてみれば常識かもしれないけど、僕は「うおおおオーーーーー!!!浅草おまえって奴はああああああーーーーー!!!!」と漫画を握りしめて歓喜するなどしました。

 

彼女たちのクラウドファンディングがあったら秒で応援する

 

いやほんとに。

フィクションのキャラクターだけど、全力で応援したくなった。

試行錯誤でああだこうだと手探りで、だけど3人とも「こうしたい、ああしたい」という欲望は強く持っていて、その純粋な欲望にグイグイと引っ張られて物語が進んでいく。3人の欲望はそれぞれで違うからその道筋はジグザグなんだけど、上手くバランスを取って少しずつ課題を乗り越えていくことで、その欲望たちがたったひとつの“ナニカ”として結集し、本人たちも想像していないような“ドコカ”に辿り着こうとしている感じがすごくカッコいい。

でも、だけど、何度もしつこく言うようだけど、それはホントに片鱗でしかない。全然まだまだ。「おもしろそうな漫画だなー」と期待して読み始めると、読み終わる頃には「こいつらすげーオモシロイやつらだなー」と、浅草・金森・水崎の3人に対して期待感が高まり、ものすごくワクワクしている自分がいた。「こいつらならすげーことをやってくれそうだぞ」と。漫画に期待して読み始めたらキャラクターに期待していた、みたいな、、、なんというか、言っていることは全く同じなんだけど、だからこそあえて何度も言うけど、おもしろそうな“漫画”だと期待して読み始めたら、いつの間にか、この3人が生み出す“世界”を、もっともっと観たい!観てみたい!と期待して、ワクワクするようになっていた。

 

みたいな、そういう漫画!

つまり、むちゃくちゃカッコいい漫画です。

次巻もすげー期待!(いいぞ、もっとやれ。)

 

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『映像研には手を出すな!』大童澄瞳|赤鮫が行く‼︎

 

とりあえず、

まだ読んでいない人は、試し読みをぜひ!↓

spi.tameshiyo.me

 

グロテスクだけどキュートなやつらが増殖中「夜行性の庭」 川野美華展

 

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川野美華 / Mika Kawano 「夜行性の庭 / Garden of nocturnal party」

 

私とあなたはまったく違う人間で、だからこそ共感はしないけど、

というかできないんだけど、それでも、不思議とあなたに心惹かれてしまう。

 

「コレ好き!」とか「カッコいい!」とか、

自分にとって心地良いモノ、“共感できる”モノはすごく大切だと思っている。

大切だし、そういうモノがすごく好き。僕はそういうモノにひとつでも多く出会いたくて、日々インターネットを徘徊し、本や雑誌を読み漁り、美術館やギャラリーにせっせと足を運んでいる。

 

そういう生活の中で、

偶然出会ったのが川野美華さんの作品です。

 

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“夜行性の庭 Ⅶ” 2014, 162 x 162cm, oil, beeswax, bead, clock hand on canvas

 

グロテスクで、

奇妙で、悪趣味。

そんな言葉がふと頭によぎるような作品で、初めて川野さんの作品を観たときは実際にそう思った。「なんだこれは…」と。とてもじゃないけど心地良い絵とは思えなくて、共感もしないしできないし、むしろ嫌悪感の方があったかもしれない。

 

悪夢の世界から這い出てきたかのような奇妙な生き物たち。思わず仰け反ってしまいそうなほどに生々しい血の色。理屈で説明できない不思議な造形は、理解を拒み、嫌悪という感情が生み出される。

 

「ナンナンデスカー…」と思いつつ、一方で、グロテスクで奇妙で不気味なモノに惹かれる人たちが一定層いるというのも知っているし、理解もしていたので、まぁそういうもんだろうと納得した。これはきっと趣味嗜好の問題だ。

 

その納得感が、見事にぶっ飛ばされるのがそのあとに観た川野美華さんの小品展だった。

それは30×30cmぐらいの小さな作品が並ぶ展覧会で、作品には奇妙な生き物たちがひとりずつブロマイドのように描かれていた。

そうしてふらりと会場のギャラリーを訪れてフラフラと作品を観て歩くうちに、ひとつの作品の前で思わず足をとめた。

というのも、生き物の頭に、ちょこんとリボンが付けられていたからだ。

 

…リボン?

 

その瞬間、

「ああ、そうか」と思い至る。

 

ベタベタと過剰に飾り立てるのではなく、

ちょこんと、ほんとにちょこんと、さりげなくなにげなく付けられた可愛らしいリボン。

それはまるで大切な妹や大事な友人に対するかのように、どこか優しく柔らかな手つきを不思議と感じさせた。作っているところを見たわけではないのでほんとに不思議なんだけど、そういうイメージが浮かんだ。

 

これはすごく単純な話で、彼らは彼女にとってとても大切な存在であるということ。

おどろおどろしい奇怪な世界を描いているのではなく、彼女にとって大切なモノを描いているのだということ。

 

そこにあるモノは、

作品を通じて感じられることは、

彼らに対する彼女の愛情のこもった眼差しだ。

これはとてもとても優しい絵なんだ。それでいて、なんというか、すごく不器用な絵なんだと思った。

不格好で不器用なやつらがぞろぞろと集まってきて、ワイワイと愉しげに騒いでいる。四方に血を飛び散らして爆ぜているファンキーなやつがいたのだけど、それはつまり、「いやー、うっかり飛び散っちゃってさー」「お前、またかよー」みたいな会話で笑い合うことが日常であるかのような、そういう世界。不器用なやつらの陽気な世界。

 

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"賢い乙女と愚かな乙女 Ⅱ" 2016, 162 x 162cm, oil, bead, chain on canvas
 

そう思っちゃうともうダメで(いや、ダメじゃないけど)、

気がつけば、その賑やかで愉しげなバカ騒ぎに心惹かれている自分がいた。

その表情や動きは、鳥獣戯画やお化けの絵巻に通じるような、どこかユーモラスでおもしろくて、微笑ましいというかなんというか、ニヤニヤが止まらなくなる。ちょっとした悪だくみの共犯関係のような感覚。それでいて、なんかこう歪んだ感じがふにゃふにゃした印象でなんとも可愛らしく思えてくるのである。とうとう、彼らとお友達になりたいぞと。

 

そうやって「おもしろいやつらがいるぞ」と彼らの愉快な物語に思いを馳せながら観るのがすごく楽しい。楽しいしそれにワクワクする。「いいもんだなー」としみじみ。でも、そう思って、そう思いながら観るんだけど、作品をじっくりと観初めてぼんやりと思うのは、たぶん、きっと、自由気ままに遊ぶ彼らは、この世界の残酷さを知らない。

なんとなくだけどそう思った。

 

もちろんそんなもん知らんでもいいんだけど、

じゃあ、誰が知っているのか。

というと、それが、川野美華さん…なんだと思う。

 

ゆらゆらと漂う繊細な毛や髪などの線は、そっと優しく触れるだけで血が出るんじゃないかというほど緊張感のある細さなんだけど、でもなめらかな動きは流れるようですごくきれいなんだ。あるいは、様々な生き物たちが入り乱れながらもうっとおしくない構図と人肌色の温かな余白が魅力的だったりする。

そういったひとつひとつの細かい要素にはキラリと光る意志(=意図)のようなものがあって、それはつまり、この世界がたとえ敵に回ろうともお前らを守り通すんだという強い意志であり、この世界の残酷さを一手に引き受けてそれでも踏み止まるための技術力のこと。

 

これはもう想像でしかなく、僕の勝手な楽しい楽しい妄想でしかないけど、例えば不格好で不器用なあいつらがひとりでフラフラと街中を彷徨い歩くと、現実という大波が大挙し押し寄せて一瞬で踏み潰していくんだろうと想像する。それはどうしたって悲しいし泣きたくなるから、絶対に嫌だから守りたいから、そうならないために彼女は、毅然として、日々キャンバスや絵筆と向き合っているのかもしれないなーと。

 

 

……。

…おいおい我ながら妄想がすぎるぜぇ…と思いつつ、文章を書けば書くほど彼らが好きになっちゃって(笑)、なんだかもう止まんなくて…。なんていうか、その、えっと、…楽しいです。

 

まあ、

つまりですね、

長々と文章を書いて何がしたいんだ?っていうと、

川野美華さんの個展(しかも、大作展)が銀座で今まさにやっている(1/10-1/28)ので、ぜひ観てほしいってこと!( 川野美華 / Mika Kawano 「夜行性の庭 / Garden of nocturnal party」 ) 基本的に100号以上で大きい作品ばかりなので、超いいぞ!オススメだぞ!めったにないぞ!

 

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今週末、あるいは来週末、いやいやもちろん平日でも、時間があればぜひ!11:00~19:00です!以上!

 

「生き物には、私の中でのアトリビュートがある。ひとりひとりが私の感情の象徴です。日常を生きていて、ある物や出来事に出会ったときに生まれる感情。そういった日常の中で出会う感情にかたちを与えています。彼らは、気兼ねなく相談できたり一緒に何かを企んだりできるような、共感し合えるとても近い存在であり、夜な夜な妄想するように描いています」by川野美華