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ヒーロー見参!!

PS:意識より愛をこめて

「ヒトがイルカを出産する」という未来がまじSFすぎて最高すぎるし切なすぎる。『長谷川愛 展 Second Annunciation』

 

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as-axiom.com

 

Ai Hasegawa Second Annunciation

長谷川愛 第二受胎告知

2017 01.28-02.25

 

「見たことのないモノが見たい」という欲望がたぶん強い。飽き性なんだろうとも思う。“それ”は、理解と共感という枠を踏み越えて、決壊したダムのように頭の中へと流れ込んでくる。その瞬間がすごく心地いい。

「おいおい、なんだこりゃ」と思って、「は?くそやべえな」と笑う。脳みそを鉄バットで思いっきりぶっ飛ばされるような、そういう爽快感。それが何かなんていう些細なことは一切気にせずとりあえず笑っちゃうようなおもしろさ。

 

人間やその他の生き物の遺伝子を操って、改変し、“美”の歴史を塗り替えていくバイオアートという領域が進行しつつある。

20世紀に、マルセル・デュシャンが便器を、ロバート・ラウシェンバーグが山羊の剥製とタイヤを、“美”の歴史に取り込んだことで、絵の具や石像でなくても、それは美術でありアートであると認められた。

それから、100年という短い月日が流れ、人類は、遺伝子操作を始めたとしたバイオテクノロジーを、“美”の歴史に組み込み始めている。

 

 ロバート・ラウシェンバーグモノグラム

 

前回の記事(“分断”と闘う建築家集団・アセンブル/『アセンブル 共同体の幻想と未来展』 - ヒーロー見参!!)で述べたように、iPhoneを起源として、僕たちはテクノロジーに対して「このクソッタレな現実を変えてくれるかもしれない」という期待を抱いた。

概念ではなく、実体のあるモノを。民主主義という理想や「自由・平等・友愛」という大義が、経済的困窮という実体のある現実と対峙して敗れ去ったことは、2016年末、移民排斥を唱える米国大統領の誕生によって証明された。

 

実体のあるテクノロジーに対する僕たちの期待は、メディアアート界隈の盛り上がりと呼応しつつも、同時に、バイオテクノロジーにも波及している。それは偶然といえば偶然なんだけど、2006年の「iPS細胞」や2013年の遺伝子編集技術「CRISPR/Cas9」の誕生などを例として、2000年代以降は、バイオテクノロジーが僕たちの期待に耐えうるほどの強度を持ち始めている。

 

『私はイルカを生みたい』... 

 

そうした流れの中で、バイオアーティストのひとり・長谷川愛さんは、2013年に「ヒトがイルカを産むことができる未来(=フィクション)」を作り出した。

 

『私はイルカを生みたい (I Wanna Deliver a Dolphin...)』

vimeo.com

 

ジレンマチャート。© Ai Hasegawa

長谷川愛 | 「人がイルカの子どもを生む」という想像力と、社会の多様性について « INNOVATION INSIGHTS

 

「よかったですね!素敵な人生を歩んで下さい!」というテンションとかまじで最高にマッド。超クール。人類の幸せをサポートするよう設計されたAIが理路整然と「人類淘汰こそが人類の幸せなんだよ!」と主張してくるような、そこはかとなく漂う薄気味悪さがある。

ヒトがイルカを出産するという未来は、僕の理解と共感の範疇を超えていて「なんだこれ、くそやべえな」と笑うしかなかった。ああ、最高。

 

「私はイルカを産みたい…」という作品は、私が30歳になり、出産に対して真摯に向き合わなければならない時期に環境問題が多くニュースに取り上げられていて、人口過多と食料問題のほか、「そもそもこれ以上人間は必要ないのではないか?こんなに破壊されてゆく環境に子供は強制的に産み落とされて幸せなのだろうか?」などを考えさせられました。
by長谷川愛SHIFT 日本語版 | PEOPLE | 長谷川 愛

 

「ああ、くそやべえな」と苦笑しながらも、それでも、僕らが直面している現実の問題は切実だ。LGBTによる結婚・出産をテーマにした『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』という作品もまた、排斥よりも多様性を願う人々にとっては、どうしようもなく“美しい”作品だろうと思う。

 『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』© Ai Hasegawa

『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』。実在する同性カップルの一部の遺伝情報からできうる子どもの遺伝データをランダムに生成し、それをもとに「家族写真」を制作した。現在の科学技術ではまだ不可能な「同性間の子ども」の可能性を示唆している。© Ai Hasegawa

長谷川愛 | 「人がイルカの子どもを生む」という想像力と、社会の多様性について « INNOVATION INSIGHTS

 

一方で、ダミアン・ハーストがダイヤモンドで塗り固めたドクロを生み出すような時代において、僕らのファッションがユニクロで覆い尽くされている時代において、理想や大義を捨ててまで経済的な安定を求める人たちに失望する権利なんて持っちゃいないし、あまつさえ見下すことなんて出来やしない。

 

 

Damien Hirst『For the Love of God』 2007 171 x 127 x 190 mm | 6.7 x 5 x 7.5 in Diamond Skulls

For the Love of God - Damien Hirst

 

「1+1=2」という残酷さ

 

LGBTの問題にしても経済的弱者の問題にしても、ああだこうだと訴える正論は糞ほどあって、それは合せ鏡のように、クソッタレな現実を映し出している。言葉を尽くせば人殺しだって正当化できる“理屈”というやつは、ものすごくたちが悪い。

だけど、その醜悪さがSFという物語においては、凶悪で魅力的な敵として立ち上がってくる。Science Fictionの醍醐味はまさにここで、科学(理屈の積み重ね)と人間の感情が衝突し、ぐちゃぐちゃと混ざり合うところにある。

つまり、「1+1=2」という絶対的で動かしようのない理屈が持っている残酷さ。「1+1=2は嫌なんだ!頼むからやめてくれ!!!」と血管がぶ千切れるほど叫んですがりついて喉を潰しても、「1+1」は「2」だ。

 

「出産と人口増加」「LGBTの広がり」といったテーマを扱う長谷川愛さんの作品が「ああ、素晴らしいなあ」と思うのは、どうしようもなく正論な現実問題がその根底に眠っているからだ。僕の感情がまだ少し「ヒトがイルカを出産する未来」に違和感を覚えていたとしても、その現実は否が応にも進行する。どれだけ必死になって「嫌だ!」と叫んでも、残酷な現実は感情を押し潰して進行する。そのどうしようもなくやるせない感じや切実さが僕は好きだ。

 

現実が僕たちの“美”の概念を更新する。倫理的に、あるいは身体的にまだまだ抵抗が根強く残るバイオという領域において、それでも、待ったを許さず進行する現実があって、テクノロジーが誰かにとってのフィクション(=美の概念)を生み出している。

例えば、LGBTの人たちが抱えている居心地悪さは、今もまだ彼らを自殺に追い込むほどの暴力性を持っている。そういった、じわりじわりと忍び寄る残酷さが長谷川愛さんの作品には潜んでいて、同時に、テクノロジーに対する僕たちの期待が再現されている。

 

どこまでも正しく美術史を更新しながら、

僕の大好きなSFの魅力を内包しつつも、

「ヒトがイルカを出産する」みたいなぶっ飛んだフィクションも展開する長谷川愛さんの作品たち。

いや、もう最高すぎる。

 

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Patricia Piccinini at the opening of the In The Flesh exhibtion at the National Portrait Gallery. Photo Jay Cronan 

Weird, wonderful art of Patricia Piccinini | Newcastle Herald

 

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Vincent Fournier『CLOUDY TRAVELLING DOG』

Photography – Vincent Fournier

 

あるいは、これこそがバイオアートの魅力だと思う。

もっともっと、倫理的にも身体的にもぶっ飛んでいて、 どうしたって受け入れ難いけれど、「ああ、でもほんとそうだよな...」と葛藤するような、バイオアートが日本でも生まれてくれるといいな。

 

twitter.com

 長谷川 愛|Ai Hasegawa
国際情報科学芸術アカデミーIAMAS)、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートRCA)などでメディアアートやデザインを学ぶ。2014〜2016年までMITメディアラボにてMaster of Science修了。『(不)可能な子供』で第19回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞受賞。同作品を森美術館六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声』、 Ars Electronica 2016 『RADICAL ATOMS and the alchemists of our time』に出展。世界各国で作品展示を行い多数受賞している。

 

“分断”と闘う建築家集団・アセンブル/『アセンブル 共同体の幻想と未来展』

 

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www.vogue.co.jp

 

芸術とは、

「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という“理想”がまずあって、それがたとえフィクションだとしても、何かのかたちとして出現させようとすること(かもしれないと考えている)。

 

かつては、絵画や彫刻を通じてその“理想”を描いてきたわけだけど、ある意味で有名な便器おじさんことマルセル・デュシャンによって、「アイデアなどのかたちのないモノであっても、ひとはそこに理想を見出してすがりつくよね!」という方向性が提示されて(僕の仮説ですが)、少なくとも絵画や彫刻というジャンルを越えて、アート作品が多様化し始めたのが20世紀初頭。

例えば、「働けば誰もが自由にモノを買える」という資本主義的なアイデアは、フロンティアの開拓によって発展したアメリカにとっては、まさに“理想”だったわけで、20世紀のアメリカ人が大量生産大量消費の時代を嬉々として受け入れたのは、共産主義の脅威とも相まって、その“理想”と合致したからだと思う。そうして大量生産大量消費というアメリカ国民の“理想”を、フィクションとして出現させたのがアンディー・ウォーホル。

 

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マルセル・デュシャン『泉』

 

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( Andy Warhol and Screenprinting - ASU    BOOKARTS  

 

という補助線を少し引いてから、表参道のGYREで開催された『アセンブル 共同体の幻想と未来展』がすごく良かったという話と、そのアセンブルがイギリスで最も権威のある美術賞ターナー賞を受賞した理由を、書いてみようと思う。

 

そもそも、2015年12月にターナー賞を「地域再生に貢献したイギリスの建築家集団・アセンブル」が獲得したと聞いたとき、正直、「は?」と思った。

栄誉ある国際的な美術賞を、建築家が受賞したというのがまず「え?」だけど、それ以上に、ターナー賞といえば、僕の大好きなダミアン・ハーストが95年に受賞した素晴らしい賞であり、パンクとロックの精神を王として(違う)築き上げられた偉大なる大英帝国において、そんな福祉活動じみた優等生なアート作品が選ばれるなんて...と失望したわけです。鬱々としたダーティーな雰囲気で曇り空がお似合いのイギリス人は、サメのホルマリン漬けでも出しておけ、とそういう言い分である。

 

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『生者の心における死の物理的な不可能』(1991年)

( 【完全解説】ダミアン・ハースト「生と死」 - 山田視覚芸術研究室 / 前衛芸術と現代美術のデータベース )

 

もはや心の中で中指を突き立てながらも、「とはいえ、ターナー賞というすごい賞をとった人たちの展覧会ならば観るだけ観ておかないとなー...」と会場に足を運んでみたわけですが、これがまあ素晴らしかったというオチなんですよ。

最近考えていたことと似ていた、という妙な言い方で褒めますけど、アセンブルの作品には以前の記事( どうして現代アートは数千万円・数億円もするのか? - ヒーロー見参!! )で書いた現代アートのおもしろいところがありありと含まれていて、やっぱりうんおもしろいなーとしみじみ思ったわけです。

 

建築家集団・アセンブル

そのおもしろさのキーワードは、

DIY』『実践』『公共圏』。

 

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( Assemble and Study O Portable for Icon – harryborden.co.uk )

 

まずは、アセンブルについて

 

アセンブル 共同体の幻想と未来展』では、アセンブルが手がけた建築的プロジェクトのうち、ターナー賞で受賞対象ともなったリバプールのトックステス、グランビー・フォー・ストリーツでの活動が主に作品として展示されていた。

前提として、このグランビー地区は、かつては造船業で栄えた地区だったが、1970年代の経済不況と1980年代の暴動、また自治体による住宅の強制買収によって多くの住民たちが土地を追われ、廃屋が立ち並ぶ荒廃した地区になったという。

それでも、ヴィクトリア朝の美しい街並みが残るグランビーを守ろうと、市民たちが20年もの間ずっと奮闘し続けている。そういった動きの中で、アセンブルは、グランビーにあるケアンズ・ストリートの廃屋を修復するプロジェクトを依頼される。

 

展覧会の会場では、そのプロジェクトの様々な取り組みが、写真作品や映像作品、模型やイメージイラストなどによって幅広く紹介されていた。中でも、廃屋の瓦礫を再利用して住宅の内装とするインテリアプロダクトが不思議と心惹かれるような素朴な質感で、観ていてとても心地よかった。というか、写真や映像もだけど、根本的に見せ方が上手いので、ビジュアルとしてもワクワクできるような素晴らしい展示だったことは、とても嬉しい誤算だった。

 

 

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( Assemble wins 2015 Turner Prize )

インテリアプロダクトを撮影したコレ↑とか展示されてたけど、なんか遠近感(?)が妙で、浮遊感がありながらも柔らかい色調なので、すごく観ていて心地よかった。

 

アセンブルは、住民たちと一緒になって、荒廃とした地域を再生させていく。

彼らが考案したインテリアプロダクトは、瓦礫を材料として作るものだから誰でも実践することができて、そのレシピも展示されていた。また、そのプロダクトを手作りするための工房「グランビー・ワークショップ」もアセンブルによって設立されている。完成したプロダクトはネットで販売できて、その収益をグランビーの地域再生活動に還元するシステムも構築したという。

 

ここに、アセンブルのおもしろさがある。

それが『DIY』と『実践』というキーワード。

 

「◯◯のときにすべき10の方法」が好きな現代人

 

最近、『DIY』というアイデアがむちゃくちゃおもしろいぞとマイブームでして、コレについても色々と語りたいことがあるんだけど、たぶん本筋から逸れるのでそれは別記事で書くとして、とりあえず、2つ目の『実践』について説明します。つまり、「『実践』は美しい」んです。

 

「『実践』は美しい」....と言うと、えーと、「アートは日々の生活を豊かにする」みたいなふわっとしたノリになっちゃって、それはあまり好きじゃないので、もう少し具体的に言うと、美しいモノというのは「あ、コレなんかいいなー」と心惹かれるモノであり(仮説ですが...)、『実践』とは具体的な方法論のことで、つまり、身近な例でいうと、「◯◯のときにすべき10の方法」みたいなことです。

現代において人々が何に心惹かれるか?というと、僕たちは問題に対する具体的な解決策が大好きです。現代は「この絵すごく綺麗ですね。でも、これを買ったところで何かの役に立つんですか?」という時代です。

iPhone以降、やっぱり僕たちは、テクノロジーが詰まったガジェットに対して少なからぬ期待を持っていると思います。手のひらサイズの機械が僕たちの生活をガラリと変えてしまったという衝撃は、きっと薄く伸ばされたペーストのように僕たちの心にじわりと密かに浸透しているし、同時に、そうではないモノへの期待値を大きく下げてしまった。テクノロジーによって、クソッタレな現実が「きっと良くなるだろう」だ。

 

僕たちの生活を具体的に変えうる何かに対する期待。

それは、テクノロジーであり、方法論を語る文章その他であり、『実践』である。

 

「何かに対する期待」「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という現代の“理想”が、アートというフィクションの世界では、「コンテンポラリー・アート・プラクティス」という美術史上の動向として生まれています。

 

美術手帖「特集 コンテンポラリー・アート・プラクティス」
紛争やテロ、難民問題で揺れる政治情勢に、不透明さを増す世界経済。
表現の自由に対する規制も強まるなか、各地で起きている諸問題に対して、アーティストはどのような実践を行っているのか。
社会的使命を帯びた3人のアーティストたち−−
艾未未アイ・ウェイウェイ)、ヴォルフガング・ティルマンス、ヒト・シュタイエルのインタビューでは、 芸術を拡張し時代と対峙する表現について話を聞き、さらに各都市での実践例や理論を通して世界と関係するための、アート・プラクティスの最新動向を検証する。by美術手帖2016年6月号

www.bijutsu.press

 

その『実践』が、

『アート・プラクティス』のひとつが、

アセンブルの活動であると言うこともできます。

 

『実践』という“アートの文脈”を踏まえているからこそアセンブルはおもしろいとも言えるし、具体的な方法論が求められる時代だからアセンブルのような集団が生まれたとも言えるし、ターナー賞の審査委員たちがアセンブルを『実践』という“アートの文脈”に組み込んだとも言えます。

これはもう卵が先か鶏が先かみたいなもんだと思いますが、僕たちには無意識のうちに心惹かれているモノがあって、それはどうしたって時代の変化とは不可分です。つまり、“アートの文脈”は世界史と連動しているしせざるを得ないし、そこがむちゃくちゃおもしろいしカッコいいわけです。

 

例えば、グランビーの環境と似たどこか寂れた地区があるとすれば、アセンブルによるインテリアプロダクトの方法論は、別のドコカの地区にとってそのまま“希望”になり得るわけです。それはとても“美しい”と言えるのではないでしょうか。逆に言うと、同時代ながらもココジャナイドコカであれば、それはフィクションになってしまうというちょっと悲しい話でもありますが。

 

“分断”された世界で闘う建築家集団・アセンブル

 

アセンブルのことが「ああ、むちゃくちゃカッコいいなー、素敵だなー」と思ったのは、もちろん上記の『実践』についての話もあるんだけど、それ以上に、彼らの活動の根本的な想いとして存在する『公共圏』の話がもう最高すぎた。

正直、僕も会場で展覧会の趣旨を読むまでは全然知らなくて、それを読んで始めて、「あ、この人たちスゲー人たちだ」と思ったもんで、なので、以下に「あ、スゲー」って思った箇所を引用します。

 

アセンブル》は地域団体の活動に加え、同地域の住宅や公共空間を改善する活動に取り組んでいる。彼らは、まさに「市民的公共性」を唱えるドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスらの「公共圏」という思想の実践を精力的に行なっているのだ。

但し、ハーバーマスの西洋近代的な理性中心主義に止まらず、むしろハンナ・アーレントの「複数性を包括する空間」という「共通空間」を構築するために地元に根ざしたコミュニティを再生していくことを目指している。

 

んで、このあとに「18世紀のヨーロッパでは〜」とかって『公共圏』について話が進むんだけど、いや、でも、僕はもう「複数性を包括する」というフレーズだけでご飯を3杯は食べられるぞというテンションで、妄想が勝手に始まっていた。ハンナ・アーレントについては、映画『ハンナ・アーレント』を観ただけで全然知らないんだけど、結局「複数性」というのは、「わたし」と「わたしとは全然違うあなた」のことだと思うんですよ。たぶん。

アセンブルが目指すところは、「わたし」と「わたしとは全然違うあなた」が一緒にいることができるコミュニティを作ることであり、そのための『実践』の数々ということなんだろうと。

 

なんていうか、「お前、俺と全然違うけどスゲーな!最高だな!😆😆😆」というコミュニケーションがあってもいいと思うんですよ。だから、最近は、ボーダー(境界線)について「どうしたもんか...」と思うことが多くて、だからこそ「複数性」というフレーズに「あ!これかもしれない!」と反応したのかも。

 

きっと、グランビーの住民たちも、経済的・政治的な理由によって“分断”を余儀なくされた人たちだったんだと思う。それは物理的にも精神的にも。

 

トランプ政権をひとつの象徴として、世界が“分断”され始めている現代において、アセンブルが『実践』の中に仕込んだ「複数性を包括する」という想いは、ことさら力強い意味を持ってくる。

トランプ大統領を支持する白人層だって、彼らの生活(=現実)が豊かであったなら、わざわざ“分断”を望むことはなかったはずで(そう思いたい)。

だからこそ、アセンブルの成功例は、僕たちにとっての「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という理想になり得るし、アメリカとメキシコの“分断”にとってもフィクションでしかないけれど、フィクションだからこそ、「いつかきっと」という希望にもなるんじゃないかって。

 

アセンブルターナー賞を受賞したのは2015年12月で、いよいよ世界が不穏な空気に包まれていて、「わたし」と「わたしと全然違うあなた」との間に壁が生まれることで“分断”の時代に突入している2017年。
やるせないような、どうしようもなく残酷でクソッタレな現実に直面すると、それに対して理想が生まれてくることが常で、アートがおもしろいのは、やっぱりひとつにはこの部分で、世界史と切っても切れない関係性があるところだと思う。

 

ハンナ・アーレントが闘った、ナチス・ドイツという恐怖の歴史。

それに対抗するための「複数性を内包する」という思想。

その思想を受け継ぎ、この残酷な世界で『実践』を行う建築家集団・アセンブル

 

だからこそ僕は、もちろんサメのホルマリン漬けも好きだけど、アセンブルターナー賞を受賞したことに納得し、なんだかちょっと切実に、嬉しくも思ったわけです。

 

 

 

 

人知れず妄想した世界があるやつは強い。大童澄瞳『映像研には手を出すな!』

 

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spi-net.jp

↑漫画です、むちゃくちゃおもしろいです。

以下↓の試し読みで、「なんだかおもしろそうだな」と思った方はとりあえず読むべき。その期待値の3倍はおもしろいから。ソースは僕。

spi.tameshiyo.me

 

ストーリーとしては、

日々「最強の世界」を妄想している(しかも一つじゃない)設定厨女子・浅草氏と、

儲け話が大好きでクレバーな軍師系女子(美脚)・金森氏と、

カリスマモデルで爆大富豪なのにアニメーション(動き)に異常な熱意を見せる女子・水崎氏

の女子高生3人がどんちゃん騒ぎを繰り広げるアニメ制作漫画。

 

作家は、大童澄瞳さん。現在、23歳。

twitter.com

 

 

お前は、風車が回っていることに感動したことがあるか?

 

「最強の世界」をアニメで実現させたい!という女子高生が様々な困難を乗り越えてそれを成し遂げるという王道のストーリーなので、1巻の「こいつら、予算なくてもやるタイプじゃん」というセリフにはもうニヤニヤしまくりです。そこに辿り着くためのセリフのないコマや鑑賞後の観衆の描写は、感情の高鳴りをひとつひとつ丁寧に積み重ねてじわりじわりとくるように上手く演出されていて「ああ、こいつらまじでやべえもんを作ったんだな...」とむちゃくちゃ胸が熱くなる。

 

つまり、単純な話、漫画としての見せ方がすげー上手い。

このコマで、あるいはこのストーリーで、読み手にどういう印象を与えたいか?というキャラの表情やコマ割りがすごく上手い。暴力的に上手い。

いま、コレ書いててふと思ったけど、

この漫画は、たぶん、セリフがなくても成立すると思う。

少なくともある程度の感慨は得られると思うし、例えば「1巻丸ごと試し読み!ただし、一切のセリフなし!」とかでも購入者爆増するんじゃねーかなってぐらいすごいし、いやソレは完全に思い付きだし漫画の技術的な話はそこまで詳しくないけど、そう思っちゃうぐらいやばいよ!っていう話です。

 

っていうのもさ、1巻の中盤で風車が回るシーンがあるんだけど、このシーンがむちゃくちゃカッコいいんですよ。人生で初めて風車が回ってることに感動した。風車やばいって思った。

 

完璧だ、と思った。

 

一枚絵としてのカッコよさがまずあって、

それをよりカッコよく魅せるための、導入としての、ひとつ前のページがまた素晴らしい。

 

トンネルをくぐって、

広い空間に出たというイメージが生まれて、

「これが我々の作る、最強の風車だ」という浅草氏のセリフと表情を経て、

最後に、“舞うもの”が舞い、巨大な風車が回っているシーンが現れる。

 

この一連の流れがもう暴力的に上手い。

漫画のコマ割りとか、その他なんか色んなモノがむちゃくちゃ上手い。

やべえ!風車カッコいい!と感動せざるをえない。

 

 

そして、

完璧だ、と思った理由がもうひとつ。

 

「あの辺に建てた団地に穴を開けて滝を作る!」
「滝!?」
「今からですか」
(中略)
「担いで走れ!爆発するぞ!」
「なぬ!?」
by大童澄瞳『映像研には手を出すな!』

 

というこの↑会話が、この漫画のスゴさのすべてを表しているんだけども、

そもそも、風車のシーンは、金森氏が浅草氏に対して「風車のプロペラが回っているアニメーションを作れ」と命令したのがきっかけであって、“滝を描く必要性は一切ない”

なのに、浅草氏は、飛行船で団地に突っ込み、大爆発のなか、命からがら逃げ出してまで、滝を作った。

 

「私の考えた最強の世界を描きたい」という浅草氏の言葉に嘘偽りはなくて、

風車が回るシーンを描きながらも、それに飽き足らず、風車が存在している世界そのものも描く。

「最強の世界」のためだけに、ただただ純粋に己のすべてを注ぎ込むその姿勢や過剰さは、まさにそれこそがクリエイターであって、ほんとうに、ほんとうにカッコいい。

浅草氏には誰に言われずとも実現したい世界があるんだよ。そこに向かってただひた走る。そういうモノがあるやつは、強いし、カッコいいんだって改めて思った。

 

だからこそ、この風車が回るシーンは、『映像研には手を出すな!』の象徴として、完璧だと思った。

この漫画の軸である浅草氏の欲望が、これでもか!とばかりにエンジン全開でフル稼働し、漫画としての表現力の高さと相まって、むちゃくちゃテンション上がる迫力のあるシーンに仕上がっている。

また、彼女たちが作ったアニメーションの世界と現実世界が、ツッコミなし・魔法なしで、リンクし連動しフィードバックされてごっちゃになるという奇妙で素晴らしい漫画表現によって、彼女たちの情熱あるいは無邪気さは、手に汗握るひとつの冒険物語として伝わってくる。いい漫画だよ、ほんとに。

 

キャラのディテールが濃すぎて病みつきになった

 

で、まだある。この漫画の素晴らしいところはまだある。だから、やばいんだよ。 

とりあえず1巻は、3人の才能の片鱗が大暴れする回なわけだけど(片鱗なのに大暴れするというむちゃくちゃ最高な展開ですよ、完璧に合わさったら...と思うとワクワクしかない)、

「我々にはジブリやディズニーのようなブランドもないので、ジャンルで宣伝しないと金になりませんよ」とか「アニメーションは動いてナンボなんだあああ!」とか「『未来少年コナン』これでいいかな」とか、

キャラクターひとりひとりがいい味出しすぎてて、なんというか、何度でも読み返したくなるような中毒性がある。細かいんだよ、キャラクターの描写が。そのディテールの積み重ねが、そのキャラクターあるいは空気感を作るわけだけど、その3人の掛け合いがしかも笑えるというのはもうなによりも作家のセンスで「こいつらの会話をもっと聴いていたいなー」と思えることがまずスゴくて、そして、その3人の個性がちゃんとぶつかり合いながら物語として進んでいる感じがすごくいい。個々が勝手に動いているのになんやかんやで話が進むちょっとした群像劇みたい。

 

また、試し読みで期待していなかった嬉しい誤算としては、困難を乗り越える解決策がアニメ制作上かなり現実的だということ(...たぶん)。高校生によるアニメ制作漫画だと思ってなめてかかるといい意味で痛い目を見ます。納期と予算があって、それをシビアに管理する金森氏の存在がかなりいい誤算だった。

「その中でどうやって闘うか?」とか「アニメとしてどうやって良いモノを作るか?」とか、そういうことに対してのアイデアが痛快でまた素晴らしい。アニメ製作者からしてみれば常識かもしれないけど、僕は「うおおおオーーーーー!!!浅草おまえって奴はああああああーーーーー!!!!」と漫画を握りしめて歓喜するなどしました。

 

彼女たちのクラウドファンディングがあったら秒で応援する

 

いやほんとに。

フィクションのキャラクターだけど、全力で応援したくなった。

試行錯誤でああだこうだと手探りで、だけど3人とも「こうしたい、ああしたい」という欲望は強く持っていて、その純粋な欲望にグイグイと引っ張られて物語が進んでいく。3人の欲望はそれぞれで違うからその道筋はジグザグなんだけど、上手くバランスを取って少しずつ課題を乗り越えていくことで、その欲望たちがたったひとつの“ナニカ”として結集し、本人たちも想像していないような“ドコカ”に辿り着こうとしている感じがすごくカッコいい。

でも、だけど、何度もしつこく言うようだけど、それはホントに片鱗でしかない。全然まだまだ。「おもしろそうな漫画だなー」と期待して読み始めると、読み終わる頃には「こいつらすげーオモシロイやつらだなー」と、浅草・金森・水崎の3人に対して期待感が高まり、ものすごくワクワクしている自分がいた。「こいつらならすげーことをやってくれそうだぞ」と。漫画に期待して読み始めたらキャラクターに期待していた、みたいな、、、なんというか、言っていることは全く同じなんだけど、だからこそあえて何度も言うけど、おもしろそうな“漫画”だと期待して読み始めたら、いつの間にか、この3人が生み出す“世界”を、もっともっと観たい!観てみたい!と期待して、ワクワクするようになっていた。

 

みたいな、そういう漫画!

つまり、むちゃくちゃカッコいい漫画です。

次巻もすげー期待!(いいぞ、もっとやれ。)

 

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『映像研には手を出すな!』大童澄瞳|赤鮫が行く‼︎

 

とりあえず、

まだ読んでいない人は、試し読みをぜひ!↓

spi.tameshiyo.me

 

グロテスクだけどキュートなやつらが増殖中「夜行性の庭」 川野美華展

 

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川野美華 / Mika Kawano 「夜行性の庭 / Garden of nocturnal party」

 

私とあなたはまったく違う人間で、だからこそ共感はしないけど、

というかできないんだけど、それでも、不思議とあなたに心惹かれてしまう。

 

「コレ好き!」とか「カッコいい!」とか、

自分にとって心地良いモノ、“共感できる”モノはすごく大切だと思っている。

大切だし、そういうモノがすごく好き。僕はそういうモノにひとつでも多く出会いたくて、日々インターネットを徘徊し、本や雑誌を読み漁り、美術館やギャラリーにせっせと足を運んでいる。

 

そういう生活の中で、

偶然出会ったのが川野美華さんの作品です。

 

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“夜行性の庭 Ⅶ” 2014, 162 x 162cm, oil, beeswax, bead, clock hand on canvas

 

グロテスクで、

奇妙で、悪趣味。

そんな言葉がふと頭によぎるような作品で、初めて川野さんの作品を観たときは実際にそう思った。「なんだこれは…」と。とてもじゃないけど心地良い絵とは思えなくて、共感もしないしできないし、むしろ嫌悪感の方があったかもしれない。

 

悪夢の世界から這い出てきたかのような奇妙な生き物たち。思わず仰け反ってしまいそうなほどに生々しい血の色。理屈で説明できない不思議な造形は、理解を拒み、嫌悪という感情が生み出される。

 

「ナンナンデスカー…」と思いつつ、一方で、グロテスクで奇妙で不気味なモノに惹かれる人たちが一定層いるというのも知っているし、理解もしていたので、まぁそういうもんだろうと納得した。これはきっと趣味嗜好の問題だ。

 

その納得感が、見事にぶっ飛ばされるのがそのあとに観た川野美華さんの小品展だった。

それは30×30cmぐらいの小さな作品が並ぶ展覧会で、作品には奇妙な生き物たちがひとりずつブロマイドのように描かれていた。

そうしてふらりと会場のギャラリーを訪れてフラフラと作品を観て歩くうちに、ひとつの作品の前で思わず足をとめた。

というのも、生き物の頭に、ちょこんとリボンが付けられていたからだ。

 

…リボン?

 

その瞬間、

「ああ、そうか」と思い至る。

 

ベタベタと過剰に飾り立てるのではなく、

ちょこんと、ほんとにちょこんと、さりげなくなにげなく付けられた可愛らしいリボン。

それはまるで大切な妹や大事な友人に対するかのように、どこか優しく柔らかな手つきを不思議と感じさせた。作っているところを見たわけではないのでほんとに不思議なんだけど、そういうイメージが浮かんだ。

 

これはすごく単純な話で、彼らは彼女にとってとても大切な存在であるということ。

おどろおどろしい奇怪な世界を描いているのではなく、彼女にとって大切なモノを描いているのだということ。

 

そこにあるモノは、

作品を通じて感じられることは、

彼らに対する彼女の愛情のこもった眼差しだ。

これはとてもとても優しい絵なんだ。それでいて、なんというか、すごく不器用な絵なんだと思った。

不格好で不器用なやつらがぞろぞろと集まってきて、ワイワイと愉しげに騒いでいる。四方に血を飛び散らして爆ぜているファンキーなやつがいたのだけど、それはつまり、「いやー、うっかり飛び散っちゃってさー」「お前、またかよー」みたいな会話で笑い合うことが日常であるかのような、そういう世界。不器用なやつらの陽気な世界。

 

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"賢い乙女と愚かな乙女 Ⅱ" 2016, 162 x 162cm, oil, bead, chain on canvas
 

そう思っちゃうともうダメで(いや、ダメじゃないけど)、

気がつけば、その賑やかで愉しげなバカ騒ぎに心惹かれている自分がいた。

その表情や動きは、鳥獣戯画やお化けの絵巻に通じるような、どこかユーモラスでおもしろくて、微笑ましいというかなんというか、ニヤニヤが止まらなくなる。ちょっとした悪だくみの共犯関係のような感覚。それでいて、なんかこう歪んだ感じがふにゃふにゃした印象でなんとも可愛らしく思えてくるのである。とうとう、彼らとお友達になりたいぞと。

 

そうやって「おもしろいやつらがいるぞ」と彼らの愉快な物語に思いを馳せながら観るのがすごく楽しい。楽しいしそれにワクワクする。「いいもんだなー」としみじみ。でも、そう思って、そう思いながら観るんだけど、作品をじっくりと観初めてぼんやりと思うのは、たぶん、きっと、自由気ままに遊ぶ彼らは、この世界の残酷さを知らない。

なんとなくだけどそう思った。

 

もちろんそんなもん知らんでもいいんだけど、

じゃあ、誰が知っているのか。

というと、それが、川野美華さん…なんだと思う。

 

ゆらゆらと漂う繊細な毛や髪などの線は、そっと優しく触れるだけで血が出るんじゃないかというほど緊張感のある細さなんだけど、でもなめらかな動きは流れるようですごくきれいなんだ。あるいは、様々な生き物たちが入り乱れながらもうっとおしくない構図と人肌色の温かな余白が魅力的だったりする。

そういったひとつひとつの細かい要素にはキラリと光る意志(=意図)のようなものがあって、それはつまり、この世界がたとえ敵に回ろうともお前らを守り通すんだという強い意志であり、この世界の残酷さを一手に引き受けてそれでも踏み止まるための技術力のこと。

 

これはもう想像でしかなく、僕の勝手な楽しい楽しい妄想でしかないけど、例えば不格好で不器用なあいつらがひとりでフラフラと街中を彷徨い歩くと、現実という大波が大挙し押し寄せて一瞬で踏み潰していくんだろうと想像する。それはどうしたって悲しいし泣きたくなるから、絶対に嫌だから守りたいから、そうならないために彼女は、毅然として、日々キャンバスや絵筆と向き合っているのかもしれないなーと。

 

 

……。

…おいおい我ながら妄想がすぎるぜぇ…と思いつつ、文章を書けば書くほど彼らが好きになっちゃって(笑)、なんだかもう止まんなくて…。なんていうか、その、えっと、…楽しいです。

 

まあ、

つまりですね、

長々と文章を書いて何がしたいんだ?っていうと、

川野美華さんの個展(しかも、大作展)が銀座で今まさにやっている(1/10-1/28)ので、ぜひ観てほしいってこと!( 川野美華 / Mika Kawano 「夜行性の庭 / Garden of nocturnal party」 ) 基本的に100号以上で大きい作品ばかりなので、超いいぞ!オススメだぞ!めったにないぞ!

 

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http://www.megumiogita.com/cn5/cn8/pg559.... - Megumi Ogita Gallery | Facebook

 

今週末、あるいは来週末、いやいやもちろん平日でも、時間があればぜひ!11:00~19:00です!以上!

 

「生き物には、私の中でのアトリビュートがある。ひとりひとりが私の感情の象徴です。日常を生きていて、ある物や出来事に出会ったときに生まれる感情。そういった日常の中で出会う感情にかたちを与えています。彼らは、気兼ねなく相談できたり一緒に何かを企んだりできるような、共感し合えるとても近い存在であり、夜な夜な妄想するように描いています」by川野美華

 

 

篠山紀信も自撮ラーも偽装キラキラ女子も「やべえ」「カッコいい」以外の感想がない。

 

自撮り文化界隈がおもしろい。

いい文化だね。楽しそう。インターネットって、いまさらだけどおもしろい空間ですね。

ascii.jp

ちょうど今、横浜美術館篠山紀信展が開催されているけど、コレがすごくよかった。特に、「山口百恵吉永小百合AKB48松田聖子長嶋茂雄北野武… 時代を彩ってきたスターたちを、篠山が独自の視点で切り取」った『STAR すべての人々に知られる有名人』というテーマの展示空間があって、この空間がよかった。

誰だって人間だもの、ヒトとして汚い部分や醜い部分があるわけで、例えばスポーツ選手が競技しているときの必死な表情は、申し訳ないけど、ちょっと、その、正直、笑えちゃったりするわけで。

でも、篠山紀信さんの『STAR』というシリーズはそうじゃない。徹頭徹尾、そうじゃない。絶妙なバランス感覚でもって、それぞれの被写体が持っている「カッコいい要素」あるいは「スター性」のみを抽出し、それらが過不足なく結集するそのほんの一瞬を、シャッター音と共にひとつの写真作品として切り取っている。

ある意味でそれは嘘なんだけど、フィクションなんだけど、でも、そうやって撮るとやっぱり彼ら彼女たちは「カッコいい」し、プラスのエネルギーしかないから観ていてすごく心地良い。「ああ、カッコいいモノは“カッコいい”んだなー」と至極当たり前のことをしみじみと実感する。「元気がもらえる」とかって言うと神秘主義すぎるからアレだけど、“スターというフィクション”を再現するという意味において、篠山紀信さんのその感覚の鋭さにただただ圧倒される。壁一面に並んでいる巨大な写真作品というのもまたスゴかったけど、なによりも、光の具合や被写体の表情、余白の取り方、アングル、ポージングなどなど、「どう撮ったらどういう印象になるか?」という篠山紀信さんの知識とそれを実現する技術があってこそ。

そのほか展示されているテーマとしては、『GOD 鬼籍に入られた人々』『SPECTACLE 私たちを異次元に連れ出す夢の世界』『BODY 裸の肉体―美とエロスと闘い』『ACCIDENTS 2011年3月11日 ―東日本大震災で被災された人々の肖像』があって、5つの展示空間が広がっています。ほかのもよかったよ、オススメです。

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kishin-yokohama.com

 

「だから、自撮り文化もすごいんだ!」と妙な論理を声高々に主張するつもりはコレっぽっちもないけど、ぜひとも大切にしてほしい純粋な初期衝動としては、自撮ラーも偽装キラキラ女子も、たぶんきっと同じようなモノなんじゃないかと思う。

カッコいいモノ

キラキラとしたモノ

「ああなりたい、こうなりたい」という憧れのモノ

それを手にいれるために実際に行動するしない云々は、僕としてはどっちでもいいというか、正確にいうと"どっちも良い"んだけど、まずなによりもそういう感情がすごく好き。そうして生まれた作品なんかはもう、アレ?え?もしかして最高じゃないですか!?(੭ु ˃̶͈̀ ω ˂̶͈́)੭ु⁾⁾ バンバン!って思うんですよ!ほんとにまじで尊い!素敵!

 

巷で噂の『偽装キラキラ女子』も、端的に言って、ありとあらゆる文脈を内包できる日本語の懐の深さに甘んじて「やべえ」以外の感想がないわけだけど、むちゃくちゃおもしろいと思う。最高です。

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twitter.coNHK『ねほりんぽほりん』偽装キラキラ女子回で、サンプルとして作成されたアカウント↑)

 

www.nhk.or.jp

 

自撮ラーも、キラキラ女子アカウントも、

どうしたってその根っこにあるものはドロドロとしているんだろうけど、それをまるでゲーム感覚のように前向きで戦略的に行なっているところは妙な清々しさすら感じる。なんていうか、すごく健全だなーと。ギミックとしても素晴らしいし、いやはや人間味があっていいもんです。

 

どうして現代アートは数千万円・数億円もするのか?

 

現代アートは難しい。
意味不明だ。
んでもって、理不尽にバカ高い。

そう評価されることに対して、たくさんのアートファンが「いやいや、アートっていうのはね…」と、どうにかしてその理由と魅力を伝えようと頑張っている。

かくいう僕も、そのつもりでして。

「アートって意味不明だし、全然感動できないし、しかもむちゃくちゃ高額じゃん。なんでなんですか?」みたいなところを「なるほど、そういうことか」と言わせるために今回のブログを必死で書きます。

 

 

日本人にとってのアートって、たぶん↑コレだと思うです。

「感じるままに描く」とか「あなたが感じたことが大事です」とか。

で、確かにこの通りなんだけど、それがすごく大事なんだけど、でもちょっと説明が足りない。アートがおもしろくて(個人的に)どこか切ないのは「感じたまま感じた」あとの、その先です。その先があります。この説明不足が、現代アート意味不明論に繋がっているのかもしれないと思っています。

 

 「感じるままに描く、鑑賞する」ってどういうこと?

 

まずは、「感動する」ってなに?どういうこと?というところから。
「ヒトは何かすがりつきたいモノと出会ったときに感動する」と考えているんですが、「感動する」ということは現実逃避みたいなもんで、ヒトが現実から精神的に逃れるために生み出した感情であり、それはイマココ(現実)にないからこそ想像であり、理想であり、フィクションであるということ。

 

この2人、特に翠星石たんだけは自分の理想そのものだったんです。
自分のようなゴミを人間として扱ってくれ、恋愛感情まで持ってくれるんです。
あの忌々しい学校で、主人公と机に背中合わせで座るシーンや 「一生部屋から出ずに一緒にいたい」みたいなこと言ってたシーンを見た時は、喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、恋愛感情、ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。
特にあの学校のシーンは反則です。
自分のトラウマを抉っておいて そこに理想そのものを描いたんです。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp


上記は、マイベストヤフー知恵袋で、オタクにとっての“感動”が伝わってきます。

『喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、(恋愛感情、)ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。』

喜びと切なさ。
これこそが、“感動”だと思っています。

ゴミのように扱われる学校生活(現実)↔学校の教室で翠星石たんとイチャつく(理想)

ヒトそれぞれ(オタクにもパリピにも)直面している現実がまずあって、それに対して、“感動”が生まれる。

 

 

逆にいうと、「何に感動するか?」ということは、個人個人が直面している現実によって変わる。

だから、ヒトって「好きなモノは選べない」んですよ、根本的に。残酷なことに。

“感動”を表現する芸術家って、自分の感性に正直に生きてて自由気ままなイメージだと思うけど、むしろ彼らはむちゃくちゃ不自由な人たちなんです。デザイナーや企画職の方で「芸術家みたいに0から何かを生み出すことはできないです。条件や制約がないと…」みたいなコメントしている方がいますけど、芸術家だって制約あるんやで…と(小声)で言いたい。芸術家だって別次元の人間じゃねーぞ、と。「自分が何に感動するのか?」ということを突き詰めて考えれば、条件や制約が自然と見えてくるのではないでしょうか。

 

 

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 郭熙『早春圖』

士大夫山水画を愛するのはかれらが公事に縛られて自然を満喫することができないからで、だとすれば山水画こそがイマジネーションの旅をおこすためのものなのだと主張しているのは、ある意味では郭煕の三遠による精密な人工自然づくりを、つまりは「山水をいざなう装置」を表現したかったということだった。by松岡正剛『山水思想―「負」の想像力』

 

以上が、アートを生み出す原動力である“感動”と、必要条件としての“現実”の話でした。

 

 個人的な“感動”を、人類全体の“感動”へ

 

さて、以下本題です。
「アートって意味不明だし、全然感動できないし、しかも高額じゃん。なんでなんですか?」に対しての解答です。

「アートは(少なくとも、世界で評価されるアートは)、個人的な“感動”を人類全体の“感動”にまでスケールアップして表現したモノ、プレゼンテーションしたモノ」なんです。

“感動”は、現実と密接な関係性を持って生まれるモノなのだから、“私”の感動は、その“私”が所属している時代(現実)とも繋がっている、関係性がある。つまり、「“私”が生きている時代(現実)は、〇〇な時代で、“私”はその現実に対して△△な影響を受けました。だから、“私”は☆☆に感動するし、☆☆な作品を作りました」と客観的に語ることができる。この客観性のあるなしが「感じるままに自由に描く」子どもたちの絵が評価されない理由だと思います。

「自分が何に感動するのか?」ということを突き詰めると“時代”にぶつかる。

そして、“時代”が原因だからこそ、“私”が所属している時代や国、階級、ジェンダー、社会問題を主語にして語ることができる。つまり、究極的には、主語を“私”から“人類”へとスケールアップすることができる。

人類が直面してきた現実が時代ごとにまずあって、その変化する現実に反応して人々の“感動”が生まれる。“私の感動”をスタート地点として、時代の変遷の中に生きる“私”を客観的な視点をもって表現すると、あら不思議、「私が感じるままに描いた作品」が世界でも闘えるような作品へと生まれ変わる。

 

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www.moae.jp

(前回と前々回に引き続き、↑3度目の登場。時代によって人々のすがりつくモノ=感動するモノが変わる例として秀逸すぎるので多用してる)

 

具体例として、『シュルレアリスム』という芸術運動があります。
(↓※こういうのです)

matome.naver.jp

シュルレアリスム』は、第一次世界大戦後のヨーロッパで起こりました。ご存知の通り、この大戦は大量破壊兵器や毒ガスなどが初めて実戦投入された戦争であり、死者およそ800万人という、勝っても負けても人類にとっては悲劇的な結末を迎えました。

科学をはじめとした人類の理性が、大量虐殺を可能にする殺戮兵器を生み出した。
人類の理性が私たちの暮らしをもっとよくするに違いないと信じられていた夢と希望の時代から、理性に対する絶望の時代へと移ります。

それが当時のヨーロッパ人たちが直面していた“現実”でした。

シュルレアリスム』とは、そうした“時代”に生まれた、理性に支配されない無意識の世界を追求する芸術運動です。

理性に絶望したヨーロッパ人たちは、無意識(非理性)の世界にすがりつきました。

そういう時代だったし、そういう現実があったんです。

 

sphinxis.com

例えば、球体関節人形作家のハンス・ベルメールシュルレアリストです。

(僕にとって、むちゃくちゃカッコいいヒーローのひとり。)

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“時代”としては、ナチスドイツの政権下。
理性主義が行き着いた合理主義という思想によって、同性愛者、遺伝病や精神病者などが排除されていった時代。それは残酷な“現実”です。

その現実に対して生まれたハンス・ベルメールの美学=“感動”、「何にすがりついたのか」。

それは『アナグラム』という『シュルレアリスム』の手法。

アナグラム』とは、意味のある言葉を無意味な言葉にする手法です。

当時は「健康な金髪碧眼で白色人種のドイツ民族(意味のある人種)」が正義であるとされた時代です。
7万人の障害者や難病の患者が「生きるに値しない生命(無意味な人種)」として『安楽死計画』の犠牲となった時代です。
一説によると、恋人のウニカ・チュルンは統合失調症だったとも言われています。

そんな“時代”が生み出したハンス・ベルメール球体関節人形
意味のある単語を入れ替えて無意味な言葉にする『アナグラム』を、ハンス・ベルメール球体関節人形にも応用し、意味のある各パーツを入れ替えて無意味な球体関節人形を生み出した。

ハンス・ベルメール球体関節人形を通じて、ナチスドイツの政権下という“時代”が見えてきます。

 

「アートは文脈を知らないと理解できない」と言われますが、そんな難しいことじゃないです。
つまり、アートの文脈とは歴史です。人類史です。
この地球上で唯一「感動する生き物(※ここ超重要)」である“ヒト”が積み重ねてきた歴史であり、アート作品はその各時代を反映した歴史的遺物です。

少なくとも、世界の舞台で評価されるアート作品は「感じるままに描く」だけじゃなく、「じゃあ、そもそも、その感動はどんな現実に対応して生まれたモノなのか?」までより深く掘り下げて理解して言葉にして、そうしてようやく生み出されるモノだと思います。「文脈を知らないと理解できない」の“文脈”とは、「どんな現実に対応して生まれたのか?」という問いに対する答えであり、その解説が美術史です。

つまり、人類史そのもの。

 

そして、アートは市場に流通する商品なので、その価値付けは、価格を決定し保証する根拠は、美術史における重要性ということになるのではないでしょうか。

もしも、あなたがツタンカーメンのマスクやアンネ・フランクの日記に価値がないと言うのであれば話は別ですが、その時代時代をより的確に映してきたアート作品が何千万円・何億円という価値を持ったとしてもそれは不思議ではないでしょう。

※ここまで人類というスケールで語っていますが、だいたいのアート作品は国とか民族とか、そのぐらいのスケールが多いイメージです。例えば、村上隆の作品は、オタクを主語にして、その感動(すがりついたモノ=アニメ的表現)を作品にしました(彼自身もオタクです)。オタクは戦後の日本人を象徴するひとつの人種であると定義して、アメリカに敗北した日本という現実を客観的に見つめ直して、オタクを世界史と接続することで村上隆は世界で評価されたと考えています。

 

地球上で唯一“感動する”ヒト

 

「感じるままに描く」ことは初期衝動としてすごく大切です。

コレがないとそもそもの創作行為が生まれない。

だけど、世界で評価されようと思ったら、どうしたって自分のことだけじゃダメで、世界にとって価値あるモノを提示しないといけない。「感じるままに描く」ということは評価が難しいブラックボックスであって、多くの人が違和感・不信感を覚えることは当然です。だって、何を良しとするか、何が好きで何が嫌いか、何に感動するのか?ということに優劣はありませんから。でも、プロの芸術家であるならば、世界で認められる芸術家になりたいのであれば、“自分の感動”が人類史にとってどういう立ち位置にあるのかを追求し、言葉にして、それをふまえて表現しないといけない。

そこで勝負しないといけない。感動の優劣ではなく、同じ時代・同じ国・同じ民族・同じジェンダー・同じ社会問題に直面している人々の“感動”を、読み説く努力をしないといけない。

 

鑑賞者もまた、感動に優劣はないので、「感じるまま」でいいと思う。

時代も国も民族も違う芸術家の作品すべてに感動することは難しいし無理ですし。

でも、たまにあるんですよ、おもしろいことに嬉しいことに、まったく違う時代・国・民族の芸術家による作品でもあっても、めちゃくちゃ感動しちゃうことが。それはきっとあなたにとって大切なモノ(感動、理想、憧れ、すがりつきたい何か)がどっかの時代の誰かと偶然重なったってことで、それはもう奇跡だと思って、その芸術家の作品でも作品集でもなんでも買っちゃってください。

僕としては、
「なぜ私は○○に感動するのか?」という疑問と真摯に向き合って、
自分にとって大切なモノと現代社会との関係性を丁寧に解読して言葉にして作品にしている芸術家は、ほんとうに、ほんとうにカッコいい人たちだと思っています。

もちろん、すべての人がアートを好きになることはないと思います。
でも、今のところ好きじゃなくても、例えば、世界史(こういうことがあったからこういう歴史的事件に繋がったみたいなこと)に興味があったりとか、上記の中川いさみさんの漫画のワンシーンを読んで「え、そうなんだ。おもしろいな」ってワクワクしちゃったりとかするような、知的好奇心旺盛な性格ならば是非ともオススメです。

んで、たまに(観れば観るほど、その確率は上がる感覚ですが)なんかもう、知識とか常識とかそういうモンすべてぶっ飛ばして、ただただ単純に「なんだよ、生きるの最高か!」ってテンションあがるような、理屈抜きでむちゃくちゃ自分好みなアートに出会えちゃうわけです。その瞬間がたまらんのですよ。

 

 

まあ、とりあえず、
この時代でこういう民族がいてこういう世界で!って文脈だなんだと言いつつも、初期衝動というか、ヒトの根っこにあるところ、芸術や感動というモノは、結局↑コレだと思うんです。
爪に可愛くネイルしたりとか自撮り写メをネットにアップしたりとかゴスロリファッションにハマったりだとかスローライフに憧れて鎌倉に住んだりとか仮想空間でネトゲ廃人になったりとか、別に世界の歴史とリンクしてもしなくても、どれだけ個人的な世界で完結していようとも、現状として“ない”からこそ、「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という“憧れの感情”(=感動)が誰にでも生まれるわけです。

それは、切ないくせに力強くてどこかポジティブで、明日もちょっと頑張って生きようかなと(無意識にでも)思えるモノだから、僕は芸術とか感動とかフィクションとか好き嫌いとかと称される何某かのモノや感情が大切だと思うし、おもしろいと思うし、なにより僕にとっての快感原則(=ヒーロー)なんです。(でもって、より多くの人が↑この感覚の虜に、惹き込まれてしまえ!と思うわけです)

地球上で唯一、“未来”という概念を知ってしまった生き物である、ヒト。
イマココ(現在)に対して生まれるココジャナイドコカ(未来)への憧れ。
何かに憧れて何かに感動して何かにすがりついているヒトが生み出したアート作品。
各時代や国家、民族などにおける“感動”の積み重ねである美術史、いわゆる“文脈”。
ルネサンスでも戦後でも大量消費大量生産の時代でも、それぞれの時代のイマココから生まれる“現代アート”。

 

僕もまだまだハマり始めて数年ですが、むちゃくちゃおもしろいですよ、アートの世界。

 

とりあえず、「お前がアート好きなことだけは伝わった」でも超嬉しい。「なんだかちょっとおもしろそうだぞ」と思ってくれたら心が両手をあげて万歳します。

 

アートといっても、様々なクラスタが存在するので、一概には言えない(卓袱台返しの当記事全否定)ですが、(いやでもほんとに言えないんですよ…、周知の通り、マネーゲームの商品という側面もあったり※それすらもアートにするわけですが※、表現技術としてのアートを追求している人もいるし、視覚的な心地良さってどうなんだろう?って思うし…まだまだ勉強足りてないですという逃げ口上な👊)

 

以上、無類のフィクションジャンキーからでした。

 

 

 

 

来年のことを言うと鬼が笑う

 

 

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来年の事を言うと鬼が笑う 島根県の民話 <福娘童話集 きょうの日本昔話>

 

笑うってなんだろうなーと。

それはつまり、ユーモアってなんだろうなーってことでもあって、最近そう考えることが多い。

 

それというのも、

映画『この世界の片隅に』を観て、ずっと悶々としてた感覚が、

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konosekai.jp

 

アツコバルーでの『井上洋介 絵画作品展』で、なんというか、腑に落ちて、

井上洋介 絵画作品展 | Schedule - スケジュール | アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk

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ああ、笑いって、ユーモアって、切ないなーとしみじみ。

切ない上に、ポジティブで。

そのふたつが重なり合うって、正直、どこか狂気じみてるというか、人間ってやっぱりスゴイしおもしろい。

 

映画『この世界の片隅に』がよかったのは、僕にとっておもしろかったのは、

「戦時下における人々の暮らし方や振る舞いを丁寧に描いた」からじゃなくて、

すずさんたちの暮らしというモノが結局、小さな嘘で塗り固めたモノでしかなかったから。それはヒトの最もヒトらしい部分でもあって、ヒトの、僕たち個人個人の力強さでもあるし魅力的なところでもある。

辛く悲惨な戦時下だとしても、どうにかして希望を見出して生きていかなきゃいけないんだよ。

嘘と希望は、同じ。

すずさんたちの振る舞いや暮らしの知恵のひとつひとつが、戦争の恐怖(現実)に対抗して生まれるからこそフィクションで、すずさんたちの戦時下での日常はそれらを丁寧に大事に、そして必死になって積み重ねたモノだった。

すずさんが泣き崩れる瞬間。
それは、積み重ねたフィクションが一気に崩壊し、その下に潜んでいた嘘で覆い隠していたクソッタレな現実が剥き出しになった瞬間だったわけで、そのコントラストが、ほんとに、めちゃくちゃきれいだった。だから、やっぱり僕はあのシーンが好き。

「戦争だから仕方ない」と言い聞かせてきた受け入れがたい現実が、右手や娘を失ったという現実が、戦争という理由がなくなってしまった瞬間に、重く圧し掛かってくる。

 

戦争を体験し、凄惨な赤色と塗り固めた絵具でドロドロとした世界を描く井上洋介も同様。

井上作品は、迫りくるような重々しさとどこか奇妙でコミカルな人々が魅力だと思うし、その泣きながら笑っているようなスゴさが好きなんだけど、そのふたつが同じ画面で仲良く成立しているということは、冷静に考えると矛盾しているというか、正直、ちょっと異常だと思う。井上洋介は、耐えがたい現実に直面して、それを“ユーモアで笑い飛ばす”ことでしか希望を見出せなかったのかなって。

 

 

現実と自分との間に、ユーモアを生み出すこと。

現実をユーモアで歪めるということ。

そうすることで、ちょっとだけ生きやすくなるのかな。

あるいは、そうするだけで、そうすることでしか。

 

|現実|↔|ユーモア|↔|ヒトの意識|

 

 

「来年のことを言うと鬼が笑う」

という昔話があるらしいです。

 

来年のことを言うことで、

イマココじゃない世界のことを言うことで、

鬼が笑う、みたいです。