アンディ・マーティン博士の哲学講義がおもろい。

NHK ケンブリッジ白熱教室|講義詳細

↑ むちゃくちゃおもしろい。

 

アンディー・マーティン博士による「美と醜の現象学」。

キング・オブ・ポップマイケル・ジャクソンの芸術性と、哲学者・サルトルにとっての芸術の話だと勝手に脳変換されて、たちまち脳汁ブッシャー。結局、人間はずっと「理想の美」を追求し続けるもんなんですね。

 

「自分にとっての理想像」は誰しもが持っているはず。

「理想の美」の追求については、毎朝鏡と向かい合って化粧したりワックスで髪型をキメたりするのと、筆をとりキャンバスに色をのせて絵画を制作するのとで、そこに大きな違いはない。

 

キング・オブ・ポップ」が追い求めた美しさとは何か。

番組中で語られたことだけで想像するに、キリスト教にとっての「楽園」だろう。

個人的に、人間は原罪によってこの世界の美しさから追放されたという物語が好きだ。ふとした瞬間(特に、大自然に触れたとき)に僕らが感動するのは、追放された「楽園」を少しだけかいま見るから、だという。

 

 

脳科学者による有名なTEDtalk。

脳卒中のときに見た現象こそが、遥か昔の人たちにとっての「楽園」だったのではないか、と推測する。

 

「その境地に達したい」と、マイケル・ジャクソンが願ったかどうかは定かではないけれど、社会から「ロリコン」と断罪されてもなお『ネバーランド』を存続させた理由はここにあるのかもしれない。「楽園」の話をするとき、物語がもうひとつ現れる。それは、子どもは純粋無垢で「楽園」の美しさを知っているという物語。僕らの原罪とは、理性のことであり、理性の延長に言葉やルールがある。理性が僕らを「楽園」から遠ざける。一方で、子どもたちはまだ言葉やルールを知らない。子どもたちは、言葉やルールを知った大人たちが記憶の彼方に無くしてしまった「美しさ」を知っているのではないか。

 

人類にとって究極的な「楽園」の美しさ。

その美しさを追い求めるために『ネバーランド』は存在したのかもしれない。

キング・オブ・ポップ」という名声の重さは、人類の極地に到達しない限り、払拭できないと思ったのではないか、と僕は想像する。だって、人類にとっての「楽園=美しさ」を手に入れたら、もう最強じゃないですか。「創造の苦しみ」から解放されるでしょうし。

 

そして、「キング・オブ・ポップ」を引き合いに出して語られる哲学者・サルトル

またしても僕は、このサルトルに芸術性を見出す。

能力名『実存主義』。

 

ちなみに、サルトルは自分の容姿にコンプレックスを抱いていた(らしい)。

意識的であれ無意識的であれ、サルトルの能力『実存主義』は、彼の外見コンプレックスを正当化するための壮大な理論展開=芸術作品だったとしたらおもしろい。サルトルは「自分の外見はこれでいいんだ」と納得できるような理論、つまり「すがりつきたい言葉」を必死に追い求めていたのではないか?自分の存在を肯定するために生み出された壮大な哲学理論、それが『実存主義』だ。

 

では、能力名『実存主義』とは、どんな能力か?

 「実存は本質に先立つ」として、『実存主義』の能力は、正解のわからない人生において、私たちはその人生に自分自身で意味を見出して生きていかなきゃいけない、ということを正当化する。

 

「もの(即自存在)」と「ひと(対自存在)」を比べるところからスタートする。「もの」は◯◯という理由で存在する。この「もの」が存在する理由を、サルトルは「本質」と言った。「鉛筆」は字を書くために存在する。「鉛筆」にとっての「本質」は字を書くことであり、字が書けりゃなんだっていい。一方で、「ひと」には存在する理由がない。私やあなたが「どうして生きているのか、どうして存在しているのか」ということはわからない。でも、実際に存在しちゃってる。=「実存」。『実存主義』では「(人間の)実存は本質に先立つ」のである。まず存在しちゃってるから、それを前提にしてどうするべきかを考えましょうか、ということ。

 

芝居の喩え話がわかりやすい。

人生という芝居が勝手に開演していて、僕らは台本を渡されていない。

僕らはどうやって演じるべきかわからない中で、それでも演じ続けなければならない。それはもう不安で不安で仕方がないだろう。自分の動きひとつひとつに「今はこうだからこう動くべきだ」という意味を見出さないといけない。

 

邪推すると、サルトルはもうすでに醜い外見として存在しちゃっているから、それを前提にして人生に意味を見出して、頑張って生きていきましょうみたいな哲学理論になるのだろうか。

 

とりあえず、まあこれがサルトルの能力『実存主義』です。

で、で、で。ここからがおもしろいんだけど。

 

「正解のわからない人生において、私たちはその人生に自分自身で意味を見出して生きていかなきゃいけない」という『実存主義』の能力者・サルトルと、

 

「ダダハナニモイミシナイ」として、意味を破壊する『意味破壊装置・ダダ』の能力者・トリスタン・ツァラとのバトルがここに成立するわけですよ。

 

ヴィランとして人々の生きる意味を破壊するツァラ。

市民を、そして大切なひとを守るために、能力『実存主義』によってツァラの暴走を阻止しようと必死に闘うサルトル。でも、ツァラもツァラで、守りたい自分の信念がある。無意味なモノだって大切なんだ!というツァラの美学。しかし、生きる意味を破壊された人々が向かう先は「死」だからこそ、そのツァラの想いをどうしたって許すことができない。純粋な想いが、気が付けば社会に仇なす存在へと変貌していたときの悲劇的なカッコよさ。どうしてそうなっちゃったんだ…!という悔しさ。ああ…なんという美しさでしょうか…

 

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