「文字」の美しさを語る漫画『シュトヘル』

 

シュトヘル1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

シュトヘル1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

 

 『シュトヘル』という漫画が、僕の魂を揺さぶるほどの傑作だった。これほどまでに美しい漫画を、僕は未だかつて読んだことがない。僕の心を締め付けるかのようなこの感覚を、この苦しさを、僕は「感動」と呼びたい。心が欲するモノと出会えた喜びと、出会えてしまったことへの切なさが交じり合ったような不思議な感覚。どうしようもなく、無抵抗なままぐちゃぐちゃになった僕の心は、このはかなさに苛まれて、壮大な自然を前にした無力な人間たちと同様に、「ああ…」と嘆声をもらす。稚拙な表現を許してもらえるならば、この感覚こそが「美しさ」であるに違いない。

13世紀、蒙古全盛の時代。圧倒的な武力によって、周辺の国々を次から次へと喰らい尽くし、他国の文化を根絶やしにするモンゴル軍。情け容赦ない暴力のなかで、一人の少年は、滅びゆく「文字」の美しさに魅せられた。大切なヒトやモノがあっけなく死に、朽ちていく時代において、「文字」は何を成し遂げるのか。亡国・大夏の文字が刻まれた玉版「玉音同」を背負った少年と、文字を持たず文字を滅ぼすモンゴル民族と、モンゴル人によって大切なヒトたちを失い、殺戮でしか自分を見出だせなくなった“悪霊(シュトヘル)”。

「文字」を巡る物語。まず、それだけで美しい。「文字」や「言葉」というモノが大好きな僕にとって、失われる「文字」を守り抜こうとするその意志や物語は、とてもとても美しいものだ。また、「文字」を背負う少年・ユルールは、幼く弱い。しかし、絶望的な暴力を前にしても、彼は、彼が信じたきれいごとを守り抜こうと必死になる。『シュトヘル』を読み進めれば読み進めるほど、なんどもなんども、どうしようもなく脆く弱いくせに決して折れない強靭な信念と出会う。僕はそこに美しさを感じる。

そして、「文字」という存在の美しさについて、改めて思いを馳せる。感情とは移ろいやすく、はかないものだ。そのとき湧き起こった感情は、歓喜や恐怖、恨みさえも、日々の流れと共に色褪せていくし、ヒトが死ねば、感情は消えてなくなる。「強いときは生きて、弱いときは死ぬ。草原では、心は留まらない。想いも約束も、すべて忘れられ、くりかえされていく」というユルールの言葉のとおり、草原=モンゴルでは、終わりのない憎しみが繰り返されている。自由気ままに移ろう感情に対して、情報(=文字)は不変であり、大切な何かを残す手段として「文字」は力強さを持っている。歴史(=文字)は、憎しみの連鎖の危うさを証明できる。あるいは、その連鎖を止めることができるかもしれない。あまりにも理不尽な暴力、具体的には、文字を持たないモンゴル民族は、人々が神の怒りと呼んだ「自然の猛威」の隠喩かもしれない。これは、自然(=感情)と文字(=理性)の闘いであり、やがて朽ちる死(=自然)と文字との闘いでもある。吹き荒れる暴風雨やすべてを飲み込む大津波のように、暴力は人々を覆い尽くす。それでも、人間はその抵抗として、「文字」を残すことしかできない。それはあまりにも弱々しく、そして美しい行為である。

シュトヘル』2巻。暴力の象徴たる“悪霊(シュトヘル)”が、殺された仲間の名前の書き方をユルールから教わるシーンがある。『シュトヘル』という漫画の始めからずっと、薄々と示されていた「文字」の秘めたる可能性が、このシーンで一気に解放される。ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにこのシーンは美しい。心臓を鷲掴みされ、握り潰されるかのような、痛みにも似た感動に満ちあふれている。他にも、1巻から3巻までにそれぞれ素敵な(だけど、切ない)場面があり、涙がとまらないです。これほど美しく、自分好みな漫画は初めて。ほんとオススメ。