天才はひとりでは生きられない。

話題のニュース(森下唯オフィシャルサイト » より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~)から、僕なりの物語を紡ぎます。僕は新垣隆さんという方の実力を知らない。そもそもクラシック音楽の良さもわからない。一連の事件についても僕は上記の記事しか読んでいない。そういうことを前提にしつつ、彼は非凡な才能を持った人だったに違いないと仮定する。

彼が自らに課した書法の制約とは、泣ける音楽にするための――言い換えればマス・マーケットに届けるための――打算であったに違いないと想像した。売る気満々で書かれた、嘘にまみれた、いやらしいパッチワークなのだろうと想像した。そうして想像してみて結局、最初の印象に戻るのだった。怖気の走るようなまがい物にしては「丹精込めて仕上げられた」ものに聞こえる。真摯に音楽に向かわずしてこれが生み出せるのなら、随分な才能の持ち主なのだろう。

(上記の記事より引用)

 

話を簡単にするために、彼のような非凡な才能を持っている人を天才と呼ぶことにする。そして、僕ら凡人がそのような天才の才能と触れ合うためには、ある種の緩衝材が必要なのではないだろうか?と考える。もっと簡単に言ってしまえば、凡人ごときに天才のすごさなんて理解できるわけがないのでその間に天才のすごさを和らげるモノが必要なのだという理屈である。今回の事件においては、耳の聞こえない作曲家という「物語」が必要だったわけだ。このような天才と凡人の間にある緩衝材の物語を、宮﨑駿と鈴木敏夫との関係性に見出し、ウォシャウスキー姉弟たちの関係性に見出し、スティーブ・ジョブズスティーブ・ウォズニアックとの関係性に見出す。根拠はなく、「なんとなく」だ。しかし、宮﨑駿の物語を知ると、巨大に膨らんだ宮﨑駿という才能を、凡人向けにアレンジするかのごとく鈴木敏夫が手綱を握っている物語が想像できた。無口でコミュニケーションが苦手な脚本家・アンディ・ウォシャウスキーのために、昨年性転換手術をした姉・ラリー・ウォシャウスキーが広報等の窓口として活躍している。あるいは、口下手で経営に無関心な天才プログラマー・ウォズニアックの能力を上手く利用したスティーブ・ジョブズのように、僕は天才とその通訳者の物語を想像することに楽しさを感じる。

だから、一連の音楽作品が商業用として作られた音楽だとしても、新垣隆の抑えがたき哲学が抑圧されることで狂気を孕み、ある種の芸術の域にまで達した。

という物語があったらいいな、とか考えちゃう。

物語としておもしろい!と感じたので、ゴーストライターでもいいんじゃないかな?と思うけど、このあたりは人それぞれの好き嫌い。

 

「新垣隆先生に寛大な処置を!」教え子たちがChange.orgで呼びかけ 佐村河内守氏ゴーストライター問題

 

ラナ・ウォシャウスキーの性転換手術は今回始めて知った。

とはいえ、ウォシャウスキー姉弟の話も、ウォズニアックの話も、Wikiレベルの知識でちょろっと調べただけですけどね。