言語の違いをどう思うか。

それぞれの映画における「問い」を考えるようにする。

まず、監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(舌噛みそう)の「バベル」。

バベル スタンダードエディション [DVD]

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 メキシコ・モロッコ・日本で、それぞれの物語が進行し、その物語はほんの少しだけ繋がっている、という映画。そして、この物語たちの集合体である映画のタイトル「バベル」によって、妙な納得感のようなものを上映後に感じさせる。「バベル」とは、『旧約聖書』のバベルの塔のことであり、人間たちが天にまで届く塔を建てようとして、神が怒り、人類に別々の言葉を話させるという枷を与えた物語に由来する。映画「バベル」でも、言葉が通じないことによって、苦悩する人が描かれていた。では、「バベル」は、言語の差異が引き起こす諸問題に対する問い、だろうか。この「バベル」は、「言語に違いがあるといろいろと大変だけど、言語の違いによる文化の違いを観光などのアトラクションにして人々は楽しんでいるし、どっちとも言えないなあ…。ところで、きみはどう思う?」という質問である、と考えた。このように考えた理由は、文化の違いに重点を置いている映画だと考えたから。例えば、日本での耳の聞こえない少女の話。耳が聞こえない、という設定は前提となる「話し言葉による言語」を超えたところに、「バベル」の物語はアプローチしていると感じた。さらには、耳の聞こえない少女役の菊地凛子の物語を通じて、日本という国(正確には、東京で、しかも、どっちかというとリア充の世界観だったが)を丁寧に描写しているように感じた。メキシコの物語も、モロッコの物語も、わかりやすいくらいまったく違った文化だった。アメリカのカリフォルニアに住んでいる子どもたちが、異国の地メキシコに入国したときのシーンは、鑑賞している僕も、まるで異国に迷い込んだかのような心境になり、メキシカンな音楽で心が踊った。一方で、言語の違いが引き起こした文化や文明の差異は、異国の地でのコミュニケーションの困難さや国家間の経済格差を引き起こしている。この映画は、ブラピ演じるリチャードの妻・スーザンが言葉の通じない国で銃撃されてしまうところからスタートするが、そこでのシーンは、映画「127時間」のような怖さがある。「可能性としては低いけど誰にでも起こりうる悲劇」を映画によって体験させる、という怖さ。旅行先の途上国で、愛する者が負傷してしまうという悲劇。できれば起こってほしくない悲劇を、言語の違いによる困難として「バベル」は描いている。

とはいえ、人類同士で言語が違うって悲劇だよね、と「バベル」を観て思っちゃうけど、僕はメキシコの文化を楽しんでいたアメリカの子どもたちの表情を観て(あるいは、異国の文化を映像として楽しんでいた自分を観て)、マイナスだけを描いたわけじゃないと思った。「バベル」は、言語の違いによるいいところも悪いところも見せて、その上で問いかけをしている。「で、きみはどう思う?」


Babel (Trailer 2006) - YouTube

あと、どうでもいいけど、菊地凛子のヌードシーンがあるんだけど、

あれだね、ひとってやっぱり見た目って大事だねって思った。