伊藤計劃さんのコトバ

2005-03-20 - 伊藤計劃:第弐位相

祖母が死んだとき。後輩が自殺したとき。愛犬が死んだとき。あのとき感じた匂いが、この数週間膝の痛みとともに、ずっとからだにまとわりついている。

 その匂いを、自然として、日常として生きることができる日がくるのだろうか。それは努力して獲得できるものなのだろうか。そうであるなら、努力したいけれど。逃れ難い感覚であるならば、せめて異界でなくそれを日常としたい。生活というフレームに収めたい。

 計劃さんが言っていた「日常もまた異世界である」という言葉に近いのかな。このあたり「匂い」とか死生観というものは、死を経験、あるいは身近に感じた人にしかわからないのだろうか。「ないはずの膝が痛む」という話は、僕が思考中の身体性と関係があるような気もしていて、どこか引っかかる。あと、「死」というモノを脳が人々の意識から遠ざけているという考え方とも近い。「死」を理解したとき、ひとは正気でいられるのだろうか?「死」を理解してしまったとき、ひとは恐れのあまり発狂するからこそ、ひとはそこまでの想像力を持ち得ないようにコントロールされているのでは?このあたりも勉強しなきゃ。

数年間生き延びとしても、2009年にはこの世を去ることがわかっている分、彼の死への恐怖(この場合は転移)がじんわりとわかる気がする。