ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたい
「ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたりお付き合いしたりできるのかな」ってふと思いました。
というのも、たまたま機会があって、ラフォーレ原宿に1日中つっ立っていたことがあったんだけど、そこですれ違ったゴスロリなあの子たちとぼくのファッションが、あまりにも違いすぎたから。
「個性」とか「自分らしく」とかそういうの大事だよねみたいな流れには全力でヘドバン肯定するし、「いやむしろもうそれしかないでしょ」って思うし、上記のりゅうちぇるさんとかスッゲーかっこいいなって思うけど、同時に、ちょっと怖いというか、「どうしようかな」って思ってる。
この「どうしようかな」という煮え切らない感じは、「アニメ好き同士で会話を始めると結局どこかでズレが生じ始める問題」に直面したときの感覚に近い。「アニメ好きなんだ!」「攻殻機動隊、いいよね!」「わかる!」「少佐かっこいい!」「わかる!」「少佐とサイトーの戦闘シーン最高!」「は?」「え?」となる現象。
「好きなもの」って突き詰めると、どこかで他人と共感し合えなくなる。
僕はあの瞬間がたまらなく嫌いだ。
それは、言わずもがな、「個性」も同様。
もちろん、コアな層同士で共感し合えるフェーズは確実にある。インターネットによって繋がりやすい時代にもなっている。でも、そこでさらに先に進むと、だんだんとコアな層もいなくなってきて、最後にはきっと一人ぼっちになる。
ここで「どうしようかな」って思う。
いや別に僕がどうにかできる問題でもないしどうにかできたところでどうにかするつもりもないんだけど、「どうしようかな」と思ってる。ひとつの思考実験として。
いわゆる“大きな物語”が死に絶えて、さらに「ブロックチェーン」とかいう“中央”に対して中指を突き立てるようなテクノロジーが今後何十年かで世界を席巻するらしいのだ。
本当かどうか知らないけど、個人的にはくそおもしろそうだなと思う。
それは、テクノロジーやそれを先導する覇権国家・アメリカと相性のいい「DIY」精神が根っこにあるから、きっとそのうち実現するに違いない。
日本だとひとつのライフスタイルとして歓迎されている「DIY」精神が、例えば「民主主義」という精神と同じくらいの破壊力をもって、大波のような勢いで世界を覆い尽くすことに期待したい。
辿り着く先は、
「個の自立」=「Do It Yourself」。
精神的にも、システムとしても、きっと個々の物語が強くなる。
そして、究極的には、僕らは語るための共通言語がなくなる。
身の回りのもの大抵はデザインを選んで所持できるのにお金は選べない選んでない。私は納得していない。不服だ。色付き透明クリスタルのキラキラしたお金を持ち歩きたいなあ。
— 水野しず(気さく) (@320_42) 2015年10月3日
きっと言語も同じだろう。
もっとキラキラした言語で会話したいという人はいるはずだ。
(ちなみに僕は、キラキラとしたお金も言語も興味ないです。oh...つまり、流通やコミュニケーションが死ぬ)
みんなが大好き中つ国のトールキンさんは、架空言語の創作者だ(いいぞもっとやれ)
みんなが大好き「バベルの塔」。
曰く、「神に近づきすぎた人類は、言語を乱され、そうして散り散りになった」という。
(ちなみに今年の展覧会で楽しみなひとつ〜〜〜)
以前のブログで、「アートとして“分断”に対抗する戦略を生み出したアセンブル最高!」みたいな記事を書いたけど、「個性を大切に」という謳い文句は「イエス!“分断”最高!」と高らかに宣言しているようなもんだ。
もしも“分断”がトランプ政権的な拒絶と排除の世界へと繋がるのだとしたら、例えば「量産型女子大生」たちは、“分断”に対抗するためのひとつの方法かもしれない。“経済”というシステムを導入することで、僕たちはまた再びひとつになれるのかもしれないと妄想する。
「没個性」と言われがちなユニクロだけど、いや「没個性」だからこそ、みんながみんなユニクロを着る世界になったならば、ターバンを頭に巻いた人たちとコミュニケーションするよりもきっとそのハードルは低いはずだ。
いやいやでもね、と。
それじゃあダメだよね?というのが世論だ(そう思いたい)。
だから「どうしようかな」と思う。
「少佐とサイトーの戦闘シーン」がいかに最高か?を説明するべきだろうか?
『攻殻機動隊』が以降の作品に与えた影響がいかに素晴らしいか?を説明されるべきだろうか?
説明されて、いかに素晴らしいかを理解して、
しかし、共感できなかったとしたら「どうしようかなーーー」。
もちろん理解できればそれでいいんだろうけど、それだけだとなんだかちょっと寂しいなあって思う。
だから、もしも「どうにかできる」のであれば、「どうにかしたい」わけです。(前言撤回)
とはいえ現状、ほぼノーアイデアなんだけど、
キュレーターの上妻さんによる試みはおもしろそうだなーと思う。
そのようなイデアは存在しなかった。
幾何学、物理学、工学、化学、車輪、蒸気機関の発明が、それぞれの潜在的な課題を湛え、それらが出会い、結合することで、蒸気自動車を生み出したのである。by上妻世海
「幾何学」「物理学」「工学」「化学」「車輪」「蒸気機関の発明」の各学問や開発が、例えば分断された個性だとすれば、こういう繋がり方はアリだと思った。寂しくない。
こうやって異なるジャンルでもどうにか繋がって、“蒸気自動車”が誕生しちゃって、みんなでハイタッチできるなら、たぶんきっと寂しくない。
「」の中を、芸術家に据え置いて、
“蒸気機関車”としての展覧会を企画し模索しているのが上妻さん、という認識です。
「何が生まれるんだ!?」というワクワク感がやばい。
「今まで観たことのないモノが観たい勢」としての期待も大きい。
今ここ、クソッタレな現実に存在してない“何か”を観たい、触れたい勢として。
おなしゃす。「過剰にカテゴライズされてしまう時代のなかでどうすれば「奇形的なもの」をつくることができるのか考える」制作を媒介に神話的世界へ。上妻世海インタビュー(前編)|美術手帖 https://t.co/WNBY9Ine7e
— ニゲロオリゴ糖 (@Jian92fs) 2017年4月5日
(まじでおなしゃすという気持ち。楽しみ)
期待しつつも「どうしようかな」とモヤモヤしている。
究極的には「ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたりお付き合いしたりできるのかな」という話なんだけどな。