「ヒトがイルカを出産する」という未来がまじSFすぎて最高すぎるし切なすぎる。『長谷川愛 展 Second Annunciation』
Ai Hasegawa Second Annunciation
長谷川愛 第二受胎告知
2017 01.28-02.25
「見たことのないモノが見たい」という欲望がたぶん強い。飽き性なんだろうとも思う。“それ”は、理解と共感という枠を踏み越えて、決壊したダムのように頭の中へと流れ込んでくる。その瞬間がすごく心地いい。
「おいおい、なんだこりゃ」と思って、「は?くそやべえな」と笑う。脳みそを鉄バットで思いっきりぶっ飛ばされるような、そういう爽快感。それが何かなんていう些細なことは一切気にせずとりあえず笑っちゃうようなおもしろさ。
人間やその他の生き物の遺伝子を操って、改変し、“美”の歴史を塗り替えていくバイオアートという領域が進行しつつある。
20世紀に、マルセル・デュシャンが便器を、ロバート・ラウシェンバーグが山羊の剥製とタイヤを、“美”の歴史に取り込んだことで、絵の具や石像でなくても、それは美術でありアートであると認められた。
それから、100年という短い月日が流れ、人類は、遺伝子操作を始めたとしたバイオテクノロジーを、“美”の歴史に組み込み始めている。
前回の記事(“分断”と闘う建築家集団・アセンブル/『アセンブル 共同体の幻想と未来展』 - ヒーロー見参!!)で述べたように、iPhoneを起源として、僕たちはテクノロジーに対して「このクソッタレな現実を変えてくれるかもしれない」という期待を抱いた。
概念ではなく、実体のあるモノを。民主主義という理想や「自由・平等・友愛」という大義が、経済的困窮という実体のある現実と対峙して敗れ去ったことは、2016年末、移民排斥を唱える米国大統領の誕生によって証明された。
実体のあるテクノロジーに対する僕たちの期待は、メディアアート界隈の盛り上がりと呼応しつつも、同時に、バイオテクノロジーにも波及している。それは偶然といえば偶然なんだけど、2006年の「iPS細胞」や2013年の遺伝子編集技術「CRISPR/Cas9」の誕生などを例として、2000年代以降は、バイオテクノロジーが僕たちの期待に耐えうるほどの強度を持ち始めている。
『私はイルカを生みたい』...
そうした流れの中で、バイオアーティストのひとり・長谷川愛さんは、2013年に「ヒトがイルカを産むことができる未来(=フィクション)」を作り出した。
『私はイルカを生みたい (I Wanna Deliver a Dolphin...)』
長谷川愛 | 「人がイルカの子どもを生む」という想像力と、社会の多様性について « INNOVATION INSIGHTS
「よかったですね!素敵な人生を歩んで下さい!」というテンションとかまじで最高にマッド。超クール。人類の幸せをサポートするよう設計されたAIが理路整然と「人類淘汰こそが人類の幸せなんだよ!」と主張してくるような、そこはかとなく漂う薄気味悪さがある。
ヒトがイルカを出産するという未来は、僕の理解と共感の範疇を超えていて「なんだこれ、くそやべえな」と笑うしかなかった。ああ、最高。
by長谷川愛(SHIFT 日本語版 | PEOPLE | 長谷川 愛)
「ああ、くそやべえな」と苦笑しながらも、それでも、僕らが直面している現実の問題は切実だ。LGBTによる結婚・出産をテーマにした『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』という作品もまた、排斥よりも多様性を願う人々にとっては、どうしようもなく“美しい”作品だろうと思う。
『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』。実在する同性カップルの一部の遺伝情報からできうる子どもの遺伝データをランダムに生成し、それをもとに「家族写真」を制作した。現在の科学技術ではまだ不可能な「同性間の子ども」の可能性を示唆している。© Ai Hasegawa
(長谷川愛 | 「人がイルカの子どもを生む」という想像力と、社会の多様性について « INNOVATION INSIGHTS)
一方で、ダミアン・ハーストがダイヤモンドで塗り固めたドクロを生み出すような時代において、僕らのファッションがユニクロで覆い尽くされている時代において、理想や大義を捨ててまで経済的な安定を求める人たちに失望する権利なんて持っちゃいないし、あまつさえ見下すことなんて出来やしない。
Damien Hirst『For the Love of God』 2007 171 x 127 x 190 mm | 6.7 x 5 x 7.5 in Diamond Skulls
(For the Love of God - Damien Hirst)
「1+1=2」という残酷さ
LGBTの問題にしても経済的弱者の問題にしても、ああだこうだと訴える正論は糞ほどあって、それは合せ鏡のように、クソッタレな現実を映し出している。言葉を尽くせば人殺しだって正当化できる“理屈”というやつは、ものすごくたちが悪い。
だけど、その醜悪さがSFという物語においては、凶悪で魅力的な敵として立ち上がってくる。Science Fictionの醍醐味はまさにここで、科学(理屈の積み重ね)と人間の感情が衝突し、ぐちゃぐちゃと混ざり合うところにある。
つまり、「1+1=2」という絶対的で動かしようのない理屈が持っている残酷さ。「1+1=2は嫌なんだ!頼むからやめてくれ!!!」と血管がぶ千切れるほど叫んですがりついて喉を潰しても、「1+1」は「2」だ。
「出産と人口増加」「LGBTの広がり」といったテーマを扱う長谷川愛さんの作品が「ああ、素晴らしいなあ」と思うのは、どうしようもなく正論な現実問題がその根底に眠っているからだ。僕の感情がまだ少し「ヒトがイルカを出産する未来」に違和感を覚えていたとしても、その現実は否が応にも進行する。どれだけ必死になって「嫌だ!」と叫んでも、残酷な現実は感情を押し潰して進行する。そのどうしようもなくやるせない感じや切実さが僕は好きだ。
現実が僕たちの“美”の概念を更新する。倫理的に、あるいは身体的にまだまだ抵抗が根強く残るバイオという領域において、それでも、待ったを許さず進行する現実があって、テクノロジーが誰かにとってのフィクション(=美の概念)を生み出している。
例えば、LGBTの人たちが抱えている居心地悪さは、今もまだ彼らを自殺に追い込むほどの暴力性を持っている。そういった、じわりじわりと忍び寄る残酷さが長谷川愛さんの作品には潜んでいて、同時に、テクノロジーに対する僕たちの期待が再現されている。
どこまでも正しく美術史を更新しながら、
僕の大好きなSFの魅力を内包しつつも、
「ヒトがイルカを出産する」みたいなぶっ飛んだフィクションも展開する長谷川愛さんの作品たち。
いや、もう最高すぎる。
Patricia Piccinini at the opening of the In The Flesh exhibtion at the National Portrait Gallery. Photo Jay Cronan
(Weird, wonderful art of Patricia Piccinini | Newcastle Herald)
Vincent Fournier『CLOUDY TRAVELLING DOG』
(Photography – Vincent Fournier)
あるいは、これこそがバイオアートの魅力だと思う。
もっともっと、倫理的にも身体的にもぶっ飛んでいて、 どうしたって受け入れ難いけれど、「ああ、でもほんとそうだよな...」と葛藤するような、バイオアートが日本でも生まれてくれるといいな。
長谷川 愛|Ai Hasegawa
国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)などでメディアアートやデザインを学ぶ。2014〜2016年までMITメディアラボにてMaster of Science修了。『(不)可能な子供』で第19回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞受賞。同作品を森美術館『六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声』、 Ars Electronica 2016 『RADICAL ATOMS and the alchemists of our time』に出展。世界各国で作品展示を行い多数受賞している。