来年のことを言うと鬼が笑う

 

 

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来年の事を言うと鬼が笑う 島根県の民話 <福娘童話集 きょうの日本昔話>

 

笑うってなんだろうなーと。

それはつまり、ユーモアってなんだろうなーってことでもあって、最近そう考えることが多い。

 

それというのも、

映画『この世界の片隅に』を観て、ずっと悶々としてた感覚が、

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konosekai.jp

 

アツコバルーでの『井上洋介 絵画作品展』で、なんというか、腑に落ちて、

井上洋介 絵画作品展 | Schedule - スケジュール | アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk

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ああ、笑いって、ユーモアって、切ないなーとしみじみ。

切ない上に、ポジティブで。

そのふたつが重なり合うって、正直、どこか狂気じみてるというか、人間ってやっぱりスゴイしおもしろい。

 

映画『この世界の片隅に』がよかったのは、僕にとっておもしろかったのは、

「戦時下における人々の暮らし方や振る舞いを丁寧に描いた」からじゃなくて、

すずさんたちの暮らしというモノが結局、小さな嘘で塗り固めたモノでしかなかったから。それはヒトの最もヒトらしい部分でもあって、ヒトの、僕たち個人個人の力強さでもあるし魅力的なところでもある。

辛く悲惨な戦時下だとしても、どうにかして希望を見出して生きていかなきゃいけないんだよ。

嘘と希望は、同じ。

すずさんたちの振る舞いや暮らしの知恵のひとつひとつが、戦争の恐怖(現実)に対抗して生まれるからこそフィクションで、すずさんたちの戦時下での日常はそれらを丁寧に大事に、そして必死になって積み重ねたモノだった。

すずさんが泣き崩れる瞬間。
それは、積み重ねたフィクションが一気に崩壊し、その下に潜んでいた嘘で覆い隠していたクソッタレな現実が剥き出しになった瞬間だったわけで、そのコントラストが、ほんとに、めちゃくちゃきれいだった。だから、やっぱり僕はあのシーンが好き。

「戦争だから仕方ない」と言い聞かせてきた受け入れがたい現実が、右手や娘を失ったという現実が、戦争という理由がなくなってしまった瞬間に、重く圧し掛かってくる。

 

戦争を体験し、凄惨な赤色と塗り固めた絵具でドロドロとした世界を描く井上洋介も同様。

井上作品は、迫りくるような重々しさとどこか奇妙でコミカルな人々が魅力だと思うし、その泣きながら笑っているようなスゴさが好きなんだけど、そのふたつが同じ画面で仲良く成立しているということは、冷静に考えると矛盾しているというか、正直、ちょっと異常だと思う。井上洋介は、耐えがたい現実に直面して、それを“ユーモアで笑い飛ばす”ことでしか希望を見出せなかったのかなって。

 

 

現実と自分との間に、ユーモアを生み出すこと。

現実をユーモアで歪めるということ。

そうすることで、ちょっとだけ生きやすくなるのかな。

あるいは、そうするだけで、そうすることでしか。

 

|現実|↔|ユーモア|↔|ヒトの意識|

 

 

「来年のことを言うと鬼が笑う」

という昔話があるらしいです。

 

来年のことを言うことで、

イマココじゃない世界のことを言うことで、

鬼が笑う、みたいです。