『シン・ゴジラ』は僕らのサンドバックみたいなもんでさ。

 

観ました。

www.shin-godzilla.jp

 

おもしろいっす。

シン・ゴジラ』は、2016年を生きる日本人にとってのサンドバックみたいなもんだなーと。

 

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シン・ゴジラ』が「おもしろくない」理由は、これですね。

note.mu

「映画は感情移入して楽しむモノ」というスタンスで映画鑑賞している場合です。

これはスタンスの問題なので、良し悪しじゃないんだけど、「せっかくなのでこの機会に、テクスチャーを楽しむことを意識してみてくださいよ!」とお伝えしたい。僕を映画の世界へと導いた(引きずり込んだ?)SF作家の伊藤計劃も↓以下のように申しております。

 

この映画は実に様々な驚きを、感動を与えてくれます。これほど豊かなアニメ、いや映画はそうあるものではありません。私にとってこの「人狼」は間違いなく傑作です。そこには「世界に感動する視線」が間違いなく存在しているからです。昭和30年代が、映画にとって魅力的な「異世界」であることを証明する。この映画は異様とも思えるディテールへの配慮でそれを成し遂げています。デパートの屋上の遊園地。アドバルーン。低く蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線。様々なディテールを動員してこの映画は既に失われ、それゆえにファンタジーとなった過去の空気を観客に伝えます。

ブレードランナー」が感動的なのは、決してアンドロイドが生命の意味を伝えるとかそういったことではなく、人間の肉体がひしめくストリートの膨大なディテール、セバスチャンの部屋に並ぶガラクタ、街路から出てくるスモーク、そういった小さな「部品」が凄い密度で組み合わされたその「空気」です。「人狼」は昭和30年代の街を想像して描けるありとあらゆるディテールを描写しています。

私はそういう感動の種類を「テクスチャーを楽しむ」と呼んでいます。何かの対象の「肌触り」を慈しむ感情。その微妙さ、きめ細かさ、それのもたらす「驚き」。このことは今までの「ランニングピクチャー」でも何度か言ってきたことですが、「肌触り」に感動し、涙を流してくれる人がもっと増えることを切に願い、またそれを伝えるに「人狼」が(近年まれに見る)相応しい映画であったということで、改めてお伝えしたいのです。by伊藤計劃

 

例えば、映画『スカイ・クロラ』が「退屈だった」という評価を多く受ける理由は、永遠の命を持ってしまったキルドレ(子ども)たちが感じている、ルーティーンを繰り返すだけの「退屈な日々そのもの」を映画の“演出”として組み込んでいるからなんですよ。スクリーンを前にして「退屈だ」と漏らすあなたの「退屈さ」は、空で撃墜されることでしか死ぬことを許されないキルドレたちの変わらぬ日常に対する「退屈さ」かもしれないわけで。

 

「退屈な映画」という感想は、どうしてもマイナス評価なイメージがあるけど、「退屈さも楽しむ」というか、「退屈でいい映画だった」という感想もありえるわけで、映画がもっている懐の深さみたいなモノを楽しんでみるのもアリだと思う(とSF作家の伊藤計劃から学びました!)。もちろん、手に汗握るべきアクション映画で「退屈だった」と思ったら、「金返せ!」と叫んでもいいですけど。ただ、ある映画がどういう演出をしているのか?ということを見誤って批判すると、ちょっと痛い人になります。

 

azanaerunawano5to4.hatenablog.com

話がそれましたけど、つまり『シン・ゴジラ』は、人間の葛藤とか成長とかを楽しむんじゃなくて、日本(政府)vs 怪獣という図式から生まれる一連の戦略だなんだっていうあれやこれやを楽しむための映画であって、(伊藤計劃流でいえば)そのディテール、テクスチャーを楽しめ!ということなんです。

 

っていうのが、まぁ、大方の見立て。

なんだけど、ちょっとそれだと説明不足な気がしておりまして。

怪獣とドンパチやる映画って完全に俺得映画であって、一般受けしないはずなんですよ(なぜか断定)。でも、意外とライトな層にも受けてる印象が強いし、「もう3回観た」みたいなむちゃくちゃハマってる人もいる。

 

正直、「え、なんで?」と不思議なんですよ…。

「『シン・ゴジラ』は、日本vsゴジラの完全シュミレーション映画だ!リアルだ!日本政府とゴジラが戦うときの、そのディテールが最高なんだ!!」っていう上記の大前提だけじゃ、『シン・ゴジラ』がおもしろい理由としては弱い。

 

だから、『シン・ゴジラ』の魅力はそこのディテール(だけ)じゃない。

“特撮映画としてのディテール”を追求したことが『シン・ゴジラ』の魅力なんだと思います。

 

つまり、『シン・ゴジラ』は、

日本政府が巨大不明生物と戦うときのリアルなシュミレーションを展開しつつも、ゴジラという日本人なら誰でも知っているフィクション(大嘘)を大前提として、記号的なキャラクター(小嘘)や嘘くさい演出(小嘘)を散りばめることで、虚実をごちゃ混ぜにした特撮映画という最高のエンターテイメントを今再び取り戻したのではないか。

 

なぜ、嘘を“演出”として組み込む必要があったのか?

たぶん、きっと、3.11という未曽有の大震災を経験した私たち日本人は、この現実世界の残酷さをあまりにも直視しすぎた。

 

だからこそ、「いや、これは嘘だから」というクレジット(ゴジラ)が必要だった。

 

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(この動画で二人が語っていることはまさにこれ。)

 

アニメは、前提として、嘘だとみんなわかっている。だから、安心感がある。

実写で災害のオマージュである怪獣モノ(完成度の高いCG)をやると、僕らは心のどこかで3.11を思い出し、純粋にワクワクできない。僕らは怪獣に対する対策や戦略などのあれやこれやを現実的な切実感を伴って観賞することになる。

 

基本的には現実に忠実なのだろうけど、あまりにも危機感のない総理大臣や石原さとみのキャラクター、記号的すぎて素敵な対策室のメンバーたち、二回目の上陸の際に陸からその姿が確認できるほど接近されてからゴジラに気付いたところ、とかとか、『シン・ゴジラ』はわざとリアリティのない演出をしているんじゃないかと。

 

例えば、人工知能が暴走して日本人を虐殺し始めるみたいなストーリーは、あり得る未来だから現実と地続き過ぎて危機感が芽生えるし、巨大不明生物と戦うというストーリーも、現実問題としてありえないわけじゃないから、たぶんあかんのだと思います。

 

ゴジラ”じゃないとダメなんですよ、きっと。

つまり、劇中、巨大不明生物をゴジラと名付けるシーン。

あのシーンが、『シン・ゴジラ』の中でも、特に重要なシーンのひとつなんだと思う。

 

ゴジラ”という日本人なら誰でも知っているフィクションのキャラクターを登場させることで、「いや、これは嘘だから」という大前提が生まれ、その大前提のもとで、安心して、最高のエンターテイメントとして、僕らは『シン・ゴジラ』を楽しむことができているのではないか。

 

シン・ゴジラ』は、僕らのサンドバックなんだよ。

プロレスを観に行く感覚に近いのかもしれない(行ったことないけど)。

「うおー!やっちまえー!」と高揚した表情でリングに向かって叫ぶイメージ。

そこで繰り広げられる熱いバトルには、血みどろの生々しさがない。

 

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www.moae.jp

こういうことってホントにあるんだろうなーって思う。

何かをきっかけに、人々が心地良いと感じる作品が変わる。

3.11の前と後で、芸術作品に対する僕たち私たちの態度はきっと変わってる。

 

 

だから、「現実(ニッポン) vs 虚構(ゴジラ)」というキャッチフレーズがあるけど、正確には「虚構(ゴジラ) vs 現実(ニッポン)」という虚構→日本の構図が正しくて、残酷な現実を見過ぎたニッポンに対して、虚構がどこまで機能するか?という試みでもあるように思う。

 

嘘みたいなホントの話があちらこちらで発生している現代において、

「現実は小説より奇なりってほんとにそれな!」とか言われちゃう現代において、

なんだかフィクションの肩身が狭い現代において、

 

「おいおい、虚構(フィクション)をなめんなよ」と。

 

 

 

「虚構(ゴジラ) vs 現実(ニッポン)」という『シン・ゴジラ』。

 

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大ヒット。

これはもう虚構の大勝利じゃろ。