僕らは、生きるためなら悪魔にだってすがりつく。
義足ってかっこいいと思うんですよ。
近年、義足というジャンルにデザインが導入され始めているという外見的な理由もさることながら、「“誰か”にとっての希望となり、しかも、実際的に、物理的に、“誰か”の人生を支えることができるところ」がめちゃくちゃかっこいいことに気が付いた。
「人間は“すがりつきたい何か”に出会ったときに、感動する」という僕の仮説が(またしても)土台にあるわけですが。
荒川修作の言葉で「ああ、そうか。たしかに、そうだな」って思って、ずっとその言葉を引きずってる。つまり、小説や漫画、アニメなどのフィクションは、ダ・ヴィンチの絵だ。フィクションで感動して、「よっしゃー、頑張るぞー、生きるぞー」って思っても、残酷な現実(=ノンフィクション)がなくなるわけじゃないし、どうしたって生身の身体で乗り越えていくしかない。これはすごく当たり前のことだし、フィクションはもちろん大好きだし、全力肯定するんだけど。
youtu.be(昨期、鬼リピしまくったPV。フィクション最高!)
ところが、義足は、
「自由に歩けるようになりたい」という希望を、物理的に叶えちゃうすげーアイテムなわけです。ノンフィクションなんですよ。
足を失って「もう二度と歩けないんだ、普通の生活に戻れないんだ…」って絶望の淵にいる“誰か”に対して、「いつかきっと歩けるようになるよ」ってすがりつけるような希望を与えて、かつ、「はい、これ」って(まるでドラえもんみたいに)ほんとうに歩けるようにしちゃうむちゃくちゃすごくてカッコいいアイテム、それが義足です。
なので、
「カッコいい義足ないかな~♪」ってノリノリでネットサーフィンしてたら、
こんな傲慢で残酷で、だけど切なくて、“憧れ”が持っている怖さと狂おしいほどの美しさを体現しているPVは他に見たことない。Viktoria Modesta - Prototype - YouTube https://t.co/vAVxuLKz4x
— Jian92fs (@Jian92fs) 2016年3月20日
↑このPVと出会いました。
義足のポップスター・VIKTORIA MODESTAの『Prototype』というPV。
『Prototype』、最高です。
完璧って言ってもいいです。
何が完璧かっていうと、
結局、「何かに感動する瞬間」ってまさにコレなんです。
この女の子も、
このオッサン(?)も、
この少年も、
VIKTORIA MODESTAというヒーローに憧れている(すがりついている)わけです。
たぶん、きっと、彼ら・彼女らは、耐えがたいほどに辛い現実に直面していて、だからこそ、VIKTORIA MODESTAにすがりついた。VIKTORIA MODESTAを信じた。
僕が“感動”と呼んでいる心の動きは、まさにコレ。この感覚。
“感動”の度合いは、もちろん大小あるけれど、根っこの部分はコレだと思ってる。
僕だけじゃなくて、人類すべてにとって(という仮説だけど)
何かに感動するということ。
何かに憧れるということ。
何かを信じるということ。
これって、むちゃくちゃすごい力なんだよ。
(漫画『プラネテス』のワンシーン)
明日に期待するからだろ!?by漫画『プラネテス』
僕たちがクソッタレな毎日を生きていけるのは、心のどこかで明日に期待しているからなのではないか。人それぞれ生き続ける根拠が何かしらあるのではないか。昔は、その大役を宗教が担っていたけど、現代はきっと多様化しているのではないか。
そんな仮説を日々ああでもないこうでもないと考えています。
人それぞれ心の中にヒーローがいて、だからこそ、毎日を前向きに生きていけるんじゃないかって、そうだといいなって、妄想したりもします。
この『prototype』が秀逸なのは、
その「ヒーロー=すがりつきたいモノ=芸術家」という図式をこれまたわかりやすく(僕が勝手に解釈しやすく)物語にしているということ。
そして、何かにすがりつくということの怖さも、同時に、伝えている。
足を自ら切断することで、義足のヒーロー・VIKTORIA MODESTAのように強くなれるかもしれない!と信じて、実行した男のピースサイン。悲劇だけど、悲劇じゃない。いや悲劇だ。だけど、ああなりたいこうなりたい、ああかっこいいなー素敵だなーという憧れの感情を僕は知っているからこそ、ぐちゃぐちゃとした感情が生まれる。なんなんだ…ちくしょー…という感情…
youtu.be(いやー、何度観ても最高ですね。スパイダーマンに憧れて、結局、ヴィランとなった…えーと…名前何だったかな)
「僕らは、生きるためなら悪魔にだってすがりつく」
という挑発的なタイトルの記事ですが、
もちろん、VIKTORIA MODESTAが悪魔だって言ってるわけじゃないです。
あなたにとって“悪魔”みたいなモノでも、誰かにとっては“正義のヒーロー”であることは、当然あり得るわけです。(善悪やキリストとイスラムの問題と同じことで、解釈次第、立場次第です)
生きるために信じるしかなかったモノが、結局、社会にとって“悪”だったときの切なさ。
何かを信じて、感動しているときの“あの純粋な感覚”を知っているからこそ、「ああ、もう、なんでなんだよ…ちくしょー…」って、胸が苦しくなる。けど、だけど、僕はその切なさがたまらなく好きだったりもします。
(なんとなーく、子どもの頃に大好きだった『封神演義』の聞仲のせいかなーとか思いつつ。時代は周に変わり始めているのに、最後まで殷にこだわり続けた聞仲様…)
つい先日、『吉増剛造展』に行ってきまして、
で、まぁ、だいたいこんな感じなんだけど、
詩というか、文字や言葉に対して、ある程度の美しさを感じてはいるけれど、
声というか、音というか、吉増剛造さんの作品に対して、僕は深い部分で感動しなかったし、よくわからないという本音が漏れるのだけど、
吉増剛造さんは吉増剛造さんにとっての“感動”があるわけで、それはきっと根本的に、何かにすがりつく感覚と同じなのかもしれないと思うと、「ああ…、きっと僕が『僕のヒーローアカデミア』で感動している感覚と同じかもしれない」って思えて、なんというか、共感できるんですよ。これは僕が勝手に作った物語だから、「いや、同じじゃないだろ」って言われるかもしれないけど、少なくとも勝手に共感して興味を持つことができているので、これは僕の強いところだと思ってる。
義足も
『僕のヒーローアカデミア』も
VIKTORIA MODESTAも
聞仲も
吉増剛造も、
すべて同じ次元で語ることができる。
と、思うんだけど、
この理論って飛躍しすぎた電波な理論になってたりするのかな…
って、とある事件をきっかけに不安になったりもするのでした…