映画『アメリカン・スナイパー』の感想。それがお前の宗教か

 

映画『アメリカン・スナイパー』は、その予告編にすべてが現れている。

「見えない。判断しろ。」という命令はとても象徴的な言葉だ。

この映画は「人間の根本的な弱さ」を描いた作品。いい映画です。

 

 

さて、さっそく観てきました、映画『アメリカン・スナイパー』。

公開2日後の映画館に足を運ぶとか初めてすぎて緊張した。人多すぎ。むっちゃそわそわした。

 

戦場での殺し合いは、誰が誰を殺したかは分からない。
だがその中で一つだけ例外がある。

それはスナイパーだ。
狙撃には、その行為自体に始めから名刺が付いちまってる。
だからスナイパーだけは捕虜になれない。
自分達の仲間や指揮官を殺した仇として、必ずその場で殺される運命だ。

byサイトー『攻殻機動隊』より

 

スナイパー。
あるいは狙撃手。

凄腕と呼ばれるようなスナイパーは敵兵士にその気配を悟られることもなく、一撃でその命を奪い去る。彼らがフィクションであれなんであれ、その戦場での無敵感はむちゃくちゃカッコいい。息を殺して銃を構えて、その狙撃音と同時に着弾、血飛沫が舞って、敵兵士は崩れ落ちる。それはもう一瞬の出来事で、スナイパーは、地面にぐらりと倒れる敵兵士の姿を眺めながらも次の狙撃に備えて事務作業のごとく淡々と排莢と再装填を済ませる。

ある種の殺戮マシーンのように、自分の感情を一切差し込まないような冷静な動作と、狙撃という一連の動作によって生じる機械音と、薬莢が地面に落ちて響く「チリンチリン」という落下音と、そういう狙撃の描写には、あまり褒めすぎるのはよくないんだけど、ちょっとしたカッコよさを感じる。(もちろんフィクションとして)

 


ヨルムンガンド 戦闘集 - YouTube

 

映画『アメリカン・スナイパー』は、160人を狙撃した凄腕スナイパーの伝記映画だ。 クリス・カイルというそのアメリカ人は、2003年から始まったイラク戦争において「伝説」と賞賛されるほどの大活躍を見せる。上映中もその腕前の数々を拝見できるわけですが、それにプラスして、てっきりスナイピングの地味な場面がずっと続く映画かと思いきや、地上戦というか突入シーンというか、激しい銃撃戦もあったりするので、戦争映画としても見ごたえ十分。同時に、戦争によるPTSD心的外傷後ストレス障害)がクリスの心を蝕んでいく様子も描かれる。

 

クリス・カイルの人生は「(戦況が)見えない。(自分で)判断しろ」という言葉を転機としてガラリと変わる。「160人を狙撃した」という英雄的事実も、PTSDが心を蝕むという悲惨な現実も、戦争という圧倒的な暴力を前にして「クリスが心の拠り所としたモノは何か?」という疑問とその答えに起因する。依存している、と言い換えてもいい。

 

「それがお前の宗教か。素晴らしい考え方だ」

 

と、アニメ『BLACK LAGOON』において我らが姉御バラライカ大尉が仰っておりましたが、その称賛は「人を殺せば殺すほど、永く生きることができる」と語ったヘンゼルちゃんに放った言葉でした。

 

ユダヤ人の大量虐殺を指揮したアドルフ・アイヒマンは、仕事として、つまり世紀の大悪党ではなくて命令に従うだけのただの小市民として、その大虐殺に加担していたと哲学者ハンナ・アーレントは指摘しているが、人間としての尊厳を持った他者を殺すとき、「命令だから殺した」「上官に撃つように言われたから撃った」という歪んだ自己正当化は、加害者の精神的抵抗と重圧を和らげる。こういうネタが好きな人間なら誰もが知っているミルグラム実験がそれを証明している。

 

仮説だけど、人類は自分以外の“大きな何か”に選択の決定理由を依存したがる。戦争という極限状態で「殺せ」と命じられた場合、「殺せと命令されたから殺した」と納得できる理由がある。自分の感情が抱いたぐちゃぐちゃとした違和感を、ひとつの言葉に固定化して、どうにかして落ち着かせる。

 

しかし、「見えない。(自分で)判断しろ」という命令はどうだろうか?

 

命令ではなくて、自分の判断で殺すかどうかを決めるということは、

 「他者を殺した」という事実を自分ひとりで背負うことになる

 

結局、クリスは「上官の命令」とはまた違うモノに依存し始める。

 それは「敵を射殺する=祖国を守る」というある種の“宗教”(=心の拠り所)だ。

 

そして、「他者を殺した」という罪悪感から自分自身を守るためだ。最初の射殺を正当化するために、狙撃をまた繰り返す。なんどもなんども、殺せば殺すほど罪悪感から解放されるという奇妙な構図が出来上がる。(特にクリスの場合は、その“最初”が重要だった)

 

しかし、戦場以外に自分の罪を正当化できるモノはないし、そもそも「他者を殺すこと」はどうしたって正当化できるモノじゃない

 

だから、壊れる。

 

クリスが「米国のために戦っているんです」と誇り高く語るシーンは、各所で「戦争礼賛映画」と批判されているのだけど、私には自分の戦争行為を肯定するために「愛国主義」という概念に必死になってすがりついているように思えた。それを信じなきゃ、信じられなきゃ、引き金を引くことなんてできやしない。

 

狙撃するたびに何かに堪えるかのように俯いていたクリスの姿が、僕の脳裏に焼き付いて離れない。

 

アメリカン・スナイパー』は「英雄」の映画じゃない。

戦争という残酷現象が生み出した「モンスター」の話だ。

それも、同時に、環境次第によって人間であるならば誰だって、自分の存在証明のためにひたすら他者を殺戮するようになるという「あなた」や「私」の物語だ。

 

「160人を狙撃した」とか「ひとりの優しい父親」とか、そういった言葉が映画の紹介として並んでいる。あるいは映画批評で「戦争礼賛だ!」とか「いや、戦争批判映画だ!」とか言われている。だけど、たぶんきっと、『アメリカン・スナイパー』はもっと「私たちにとっての映画」だ。日々を何気なく過ごして、誰かを愛して、些細なことに幸せを感じている、そんな「私たち」に訪れるかもしれない「人間の弱さ」についての映画なんだ。

 

クリス・カイルという“個人”が特別なんじゃない。

いくつかの外的環境という“条件”すら揃ってしまえば、ちょっとした偶然の積み重ねによって、いつだって私たちも“クリス・カイル”になれる。

 

 

戦争映画好きも楽しめて、そうじゃない人にも観てほしい。

 そして、「自分の正義を無意識が勝手に構築し意識がそれにすがりつき、そっちに突き進んでしまうことでどこか狂気を孕み始める個人」という僕の大好きで大切なひとつのテーマを、僕の快感原則を、「ああ、なるほど」と映画を通して触れてほしい。残酷描写が多い映画ですが、そこは薄目でちらりと覗く感じで、映画『アメリカン・スナイパー』をどうぞよろしく。

 


映画『アメリカン・スナイパー』オフィシャルサイト

http://www.fullmovie2k.com/wp-content/uploads/2015/01/American-Sniper-2014.jpg
 
ていうか、主人公のクリス・カイルって、

http://livedoor.blogimg.jp/yo_hey_13/imgs/f/c/fc1a0c7d.jpg

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