計劃(project)は止まらない。

 

「物語は誰かに寄生することで存在し続ける」と、彼は言った。
故にか、 彼は物語を遺した。計画を遺した。
彼が遺したのは 行き場のない魂の物語。
虐殺器官』『ハーモニー』
2015年劇場アニメ化
生まれる場所も時代も全て間違えて、それでも僕たちはここにやってきた。

 

 

『ヒーロー見参!!』というメディアは、続けることによって何かしらの意味を持ってくると思っている。でも、更新をいったんお休みする。ずっと「やりたい」と公言して、ずっと「やっていなかった」ことをする。きっと、これは逃げだ。宗教だ。向き合いたくない嫌な現実を前にして、社会人にもなって会社員にもなって、いまだに逃げているという自覚はあります。いつまで逃げ続けるのか?という自問もあります。「営業だから辛い」というよりもきっと「現実は厳しい」のだと思うし、20代のうちに「どうして人は感動するのか?「どうして人は芸術を作るのか?」「個性とは何か?」「人間とは何か?」「宗教とは何か?」ということを海外の大学で学びたい!とか思っているけど、きっとこれも逃げだし、海外の大学に行ったところで逃げ出したくなるような現実に直面するに違いない。「いやほんとうに僕がやりたいことはこれじゃないし」と言い続けて、逃げ続けて、現実と向き合うこともしないで生きていけるはずがない。「逃げ」はフィクションだ。現実じゃない。フィクションの中では生きられない。僕らには肉体があるから。

 

「諦めたらそこで試合終了ですよ」とか「諦めなければ夢は叶う」とか「続けることに意味がある」とかキレイですがりつきたくなるような言葉がこの世界にたくさん流れている、その一方で、「現実は甘くない」とか「努力できないやつは何やってもダメ」とか、その反対の言葉もたくさんたくさん溢れていたりして、「あーあ、どうしようかな、もうやだな」とうだうだと悩んでる。全力でやればむちゃくちゃおもしろい仕事だし、自分のやりたいことのひとつなんだけど、どうして努力しないのか自分でも不思議なんだけど。努力できない糞野郎で言い訳ばっかりのダメ人間で、そんなやつはどこいっても何も出来やしない。「お前だ、お前。お前のことだ、馬鹿野郎」。

 

ほんと「どうすりゃいいんだーー」って感じなんだけど、「何がしたいんだーー」って感じなんだけど、「そもそも『何がしたい』じゃねえよ、甘えんな、糞野郎がーー」って思うんだけど、「まず、働け、利益出せ」って感じなんですけど、ほんとどうしようもないんですけど、小説を書こうかと思ってます。

 

日に日に「やっぱり小説書きたい!」ってなってきて、アイデアも「これおもろいじゃん!」って出てきていて。正直、あとはそれをカタチにする技術(と、努力)だけという実感もある。『ヒーロー見参!!』で救われなかったから、無意識のうちに、別の新しい「すがりつきたい何か」を生み出しただけなのかな、と冷静に疑ってはいるが。むちゃくちゃおもしろい小説を書けば救われるんじゃないかっていう、質の悪いモラトリアムの究極形態みたいな感じで、もう自己嫌悪で自分を殴り殺したい気分です。「ほんとごめんなさい」状態。

 

ただ、「現実って辛いわー」って思えば思うほど、「現実」と対をなす「虚構(フィクション)」のアイデアがむちゃくちゃ広がってきて、「虚構」=「宗教」=「物語」であり、「もし小説を書くなら電脳化した世界を書きたい」という想いがずっとあって、小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』に出てくる『情調オルガン』のアイデアがおもしろいとも思っていて、意識と無意識の違いとか「人間とは何か?」というところとか、高野山弘法大師空海に祈り続ける老人と出会ったときに感じたことだったりとか、ずっと言い続けている『ヒーロー』という快感原則も繋げられるし、そういうのがグッと込められた物語が書けたらおもしろいんじゃないか?っていう思考実験の果ての興味がある。

 

でもって、それって結局、『SF作家・伊藤計劃』なんですよ。

彼が扱ってきたテーマのようなモノ、それが僕は大好きで興味がある。

伊藤計劃の快感原則と僕の快感原則ってすごく似てるんだと思う。

 

夭折の作家、伊藤計劃
2007年処女作『虐殺器官』で鮮烈なデビューを果たし、その2年後に書き上げた『ハーモニー』が彼の遺作となった。この2つのオリジナル長編は、彼の遺言である。
彼は自分が去った後の世界に、物語を残した。計画を残した。
それは、祈りなのか、悪意なのか。
彼は自分の名前を決めたときから、自分自身の作家としての生涯を計画していたのかもしれない。
没後5年、彼の計画を受け継ぐプロジェクトが始動。
虐殺器官』 『ハーモニー』
―――2015年劇場アニメ化。
計劃(project)は止まらない。


僕の聖書がアニメ化決定!! - ぐちゃぐちゃと書き殴る。

 

この『計劃(project)』に(勝手に)参加します。

2015年の劇場アニメ化のタイミングで、彼の『計劃』を受け継いだ第二世代の作家が登場したら、これほどおもしろいことはないでしょ!という妄想が今の原動力。「物語は誰かに寄生することで存在し続ける」んだって、証明したい。それがどういうことなのか?って、物語を通して伝えたい。彼の『計劃』を遺したい。繋げたい。っていうか、こんなカッコイイ動画を見せられて、こんだけ煽られたらもう乗るしかないですよね、と(ただの映画宣伝の動画ですが)。

伊藤計劃の快感原則と僕の快感原則の共通点を、深く深く、狂気的なまでに追求し、それを作品にすることができたら、きっと彼の『計劃』を受け継ぎながらも、僕だけの物語ができるに違いない(そして、それが芸術だ!)という仮説の証明をしたい。

…これだけ大風呂敷を広げておいて、ストーリーの破綻した、文章的にも稚拙な、読むに堪えない小説にならないよう頑張ります。そして、「あなたらしいね」と言われるような小説を目指します。