球体関節人形作家:ハンス・ベルメール

 

一応、本家こっち↓

球体関節人形作家:ハンス・ベルメール | ヒーロー見参!!

 

人形に恋をするという物語がある。

それは、怪しげで淫靡な香りがする、越えてはならない禁忌のようにも感じられ、その孤独なラブ・ストーリーに子どもの頃から興味があった。「どうして人は人形に恋をするのか?」という単純な疑問だ。漫画やアニメにそういった物語が登場するたびに、ボケーッと不思議に思っていた。

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『ただ唯一の魂として「Das Seele Ⅰ」』 球体関節人形、2004年制作、磁器、非売品  

 

まあでも結局、「実は私…人形に恋をしてしまったんです…」という素敵な方と出会うこともなく、ましてや自分自身が人形に恋をしてしまうこともなくて、だんだんと興味もなくなってしまった「お人形さん」たち。  

 

 

しかし。とある1冊の、たった1枚の挿絵を見て、その造形に心を奪われたことがあった。

むちゃくちゃかっこいいじゃん、なんじゃこりゃ」と、文字を追っていた視線が、ひとつの作品に釘付けになった。

それは、ハンス・ベルメール球体関節人形

独特なポージングと色彩と、人形がもつ不気味な質感と。

 

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怖いもの見たさのように、惹きつけられずにはいられない。

この気持ちは恋ではないけれど(たぶん)、心が大きく動かされた瞬間だった。

「で、この人形はなんなんだ?」という好奇心に連れ回されて、色々な書籍を巡って調べてみると、そこにひとりの作家の人生と恋の物語が見えてくる。その作家が、ハンス・ベルメールであり、厳しい時代を生きながらも「完璧じゃなくてもいいんだ、不完全でも美しいんだ」という力強い美学を実践し続けた芸術家でもある。

ハンス・ベルメールの物語と、少年漫画のヒーローの物語を重ね合わせて、「どうして不完全でも美しいのか?」「そもそもハンス・ベルメールって何者なのか?」「人はどうして人形に恋をするのか?」という疑問や、ハンス・ベルメールのカッコよさ、あるいは芸術のおもしろさとか、そういういろんなもんをぶち込んで、ひとつひとつ丁寧に紐解いて、再構築して、僕なりの物語を作りたい。

不気味な造形の球体関節人形が、「完璧じゃなくてもいいんだ、不完全でも美しいんだ」ということを実感させてくれる。

そういう物語です。  

 

①漫画やアニメの「人形」と、それに恋をしたYahoo知恵袋の質問者

「人形」は、現実の世界で愛好されるだけでなく、フィクションの世界にもそのモチーフが登場します。

と、「おいおい、ハンス・ベルメールはどこいった(怒)」という声を無視して、ちょこっと脱線して、漫画やアニメにとっての「人形」について触れておきます。後々の物語が進行し、僕が伝えたいことが明るみになったとき、とても重要で、現実的な喩え話になりますので、どうかご辛抱ください。

さて、例えば、「人形遣い」や「傀儡子」と称されるキャラクターがいて、異能力バトル漫画であれば、たいてい敵キャラとして登場します。敵キャラな人形遣いたちは、人形を闘いの場に連れ出して、仕込み銃とか刃先に塗布された毒とかカラクリを存分に繰り出して応戦する。漫画やアニメのセオリーとして、人形たちは主人公によって撃破されるわけですが、そうすると、人形遣いは自分の大切な人形が壊されたことに怒り狂い、そして興奮するんです。それは人形を愛しているからこそ。狂気的だけど、甘美で心惹かれる人形遣いの性格(性質?)が、子ども心ながらに僕は好きでした。漫画やアニメは当然フィクションですが、現実世界に現れた人形遣いとして、ハンス・ベルメールからもその「美しさ」=(心惹かれる要素)を見出します。

 

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押井守監督『イノセンス』にはハンス・ベルメールの写真集『THE DOLL』が登場する。

そもそも、劇中の少女型の愛玩人造人形「ハダリ」はベルメールのドールが引用元!(画像は映画のワンシーン)

映画の制作にあたり、押井守監督は実際にハンス・ベルメールの作品を観に行ったのだとか。

イノセンス スタンダード版 [DVD]

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漫画やアニメとしての人形を語る上で、どうしたって外せないのが漫画(およびアニメ)の『ローゼンメイデン』でしょう。

ローゼンメイデン 1 (ヤングジャンプコミックス)

ローゼンメイデン 1 (ヤングジャンプコミックス)

 

 ローゼンという人が作った7人のアンティークドールが動き出し、「究極の少女であるアリスを目指す」ために闘います。 主人公は桜田ジュンという引き篭もり中学生で、ひょんな事から真紅というアンティークドールと出会い、ほかのドールとの闘いや交流を通じて人間的に成長していくという物語。

新ローゼンメイデンの水銀燈が可愛すぎる件 【画像】

新ローゼンの翠星石が可愛いすぎるよおおおおおおおおおおおん

※とりあえず、可愛すぎることが伝わってくるリンクです。  

 

で、もうひとつリンクを貼りますが、こっちが大本命です。

本気で恋したキャラが二次元で、本気で悩んでます。 最初に恋したのは「NHKによう... - Yahoo!知恵袋

これは、これだけは、ぜひとも読んでほしい。

この2人、特に翠星石たんだけは自分の理想そのものだったんです。 自分のようなゴミを人間として扱ってくれ、恋愛感情まで持ってくれるんです。 あの忌々しい学校で、主人公と机に背中合わせで座るシーンや 「一生部屋から出ずに一緒にいたい」みたいなこと言ってたシーンを見た時は、喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、恋愛感情、ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。 特にあの学校のシーンは反則です。自分のトラウマを抉っておいて そこに理想そのものを描いたんです。

 

この質問に対する回答がもう素敵すぎて泣けてくる。

勝手な解釈だけど、「こうあるのがいいよね」という理想像から外れてしまったマイノリティーの話だと感じた。

「こうあるのがいいよね」という雰囲気があって、「そうじゃないんだけど…」っていう人がいる。僕はマイノリティー…というか、“個性”というモノに興味があって。例えば、このYahoo知恵袋での質問であれば、コミュニケーションを上手く取ることが出来ず、ふつうの人間関係すら築けない性格(個性)の人がいたとして、コミュニケーションが前提である社会ではどうしたって生きにくい。でも、みんながみんな、「コミュニケーション最高!」ってなれるとはとうてい思えない。みんな違ってみんないいわけで。この質問主がそうである!とは断言しないけど、たとえコミュニケーションが下手くそでも、他の能力がむちゃくちゃすごいかもしれないし、そういうことがあったらカッコイイのにって思うわけです。

以上、ちょっとだけ不器用な、人形に恋をした青年の話でした。

 

 ②「ハンス・ベルメールヴィラン(敵)は誰だ?」

ヒーローのセオリーとして、ヒーローには闘うべき相手、“ヴィラン(敵キャラ)”が存在する。バッドマンにはジョーカーがいるし、ドラゴンボールにはフリーザ魔人ブウなどの強敵が現れる。当然ながら、敵は強ければ強いほど、こっち(読者)のテンションは絶望の淵に立たされるわけである。

では、ハンス・ベルメールからヒーローの物語を見出すとき、そのヴィランとは誰で、なんだったのか。

親は厳格ながらも裕福な家庭に育ったベルメール。幼少の頃から美術に興味を持ち、24歳の頃にはデザイナーとして大手企業から仕事を貰えるほどに高い評価を得ていた。婚約者が病に倒れたりと、順風満帆とはいかないけれど、各国を転々としながらどうにか生活をしていた。しかし、そんなベルメールも、とあるヴィランの登場によって、闘いの場に駆り出されることになる。ヒントは、ハンス・ベルメールがデザイナーとして活躍していた時期が1930年代のドイツであること。

そう、それは世界史においてこれ以上ないほどの敵キャラ「キング・オブ・ヒール」のアドルフ・ヒトラーだ。

 

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アドルフ・ヒトラー Adolf,Hitler(1889~1945)

それは同時に、ヒトラー率いるナチスドイツのことであり、当時ヨーロッパをも席巻していた『優生学』のことでもある。

ここで『優生学』について論じ始めると泥沼にハマるしちょっとデリケートな問題なので、「ドイツ民族こそが優秀な民族であり、その純粋な血を守るために、劣った民族(ユダヤ人やロマ人)や同性愛者、遺伝病や精神病者などの劣等分子を排除すること」を正当化する学問が『ドイツ優生学』であるとして物語を進めます。

絶大な人気と支持率を誇ったダーウィンの「劣った生物は環境によって淘汰されるんだ!」という進化論を人間の社会にも応用しちゃって、発展させちゃった学問が『優生学』や『民族衛生学』なので、「劣った子どもたちが生まれてこないようにして、優秀な血筋の子どもが生まれてくるようにすることで国家や民族が健康的でより繁栄できるようにしましょう」なんてことは意外と(当時は)真面目に学問の領域として信じられていた。

「健康な金髪碧眼で白色人種のドイツ民族こそがいいよね」というひとつの空気感。「こうあるのがいいよね」と決めることで、ナチスドイツ政権下では、7万人の障害者や難病の患者が「生きるに値しない生命」として『安楽死計画』の犠牲となった。通称、『T4計画』とも呼ばれる。圧倒的な権力でもってドイツを牛耳るヒトラーと、悪の組織としてのナチスドイツ。

しかし、ヒーローは絶望的なほどの権力差・力量差があっても決して諦めず立ち向かっていく。どうしようもない現実や時代と対峙して、たとえ血反吐にまみれながらだとしても、自分にとっての「正義」を必死になって貫き通す。それが、それこそがヒーローであり、ヒーローのカッコよさでもある。そのヒーローの物語を、僕はハンス・ベルメールの芸術活動と重ね合わせる。

1933年、ナチスドイツが政権の座に着くと同時に、ベルメールは一切の有益な社会活動を停止することを決意する。そして、当時のドイツでは「ナチスドイツにとって役に立つ(=有用性がある)かどうか」が重要視され、役に立たないヒトやモノ(=無用性)は淘汰され始めた。その時代の流れに拮抗するかのように、ベルメールは社会にとって役に立たない「人形」の制作を開始した。

人形遣いハンス・ベルメール vs ナチスドイツの総統:アドルフ・ヒトラー

(いまさらですけど、↓ハンス・ベルメール。)

ハンス・ベルメール

ハンス・ベルメール -castellidoll-  

 

③ポンコツヒーロー見参!ハンス・ベルメール

芸術のおもしろさは、自分にとっての興味関心、好き嫌い、問題意識といった「心を掴んで離さないモノ」をどうやって社会に対してぶつけて共有するのか?という試行錯誤にあると思うんだけど、(自分の心を掴んで離さないモノ=個性であって、みんな違ってみんないいのにそれが同じわけないじゃん!)ベルメールの場合も、ヒトラーへの攻撃手段として、自分にとっての「心を掴んで離さないモノ=快感原則=美しさ」を主軸にしている。だから、まずは彼の心を掴んで離さないモノ=彼が「美しい」と感じるモノを理解しないといけない。

では、それは何か?

ベルメールにとっての「美しい」モノは、子どもの頃の記憶に立ち戻る。(そして、それはもしかしたら、誰でもそうなのかもしれない)それは、人形遊びであり、幼少時代に一緒に遊んでいた従妹のウルスラに対する恋でもあった。少女の球体関節人形を制作するベルメールの快感原則は、幼い頃の恋心とその記憶だった。

同時に「愛とは、あらゆる遊戯の中で、どんな状況下においても断念することが最も困難な遊戯ではあるまいか」とベルメールは語る。だから、人形制作(人形遊び)だったのかもしれない。つまり、子どもの遊びベルメールウルスラへの愛が社会にとってはまったく役に立たないのであって、個人的なフェチズムによって制作される人形が「役立たず」✕「役立たず」で、もうどうしようもない「ポンコツ」であることは当然の結果だ。

しかし、ベルメールにとっては、個人的な性的嗜好としての少女人形であり、遊戯としての少女人形であり、武器としての少女人形だった。少女への個人的な恋心も人形制作という遊戯も、ベルメールにとって「美しい」モノでありながらも、 社会にとっては役に立たないポンコツな行為であり、つまり「社会にとって役立つモノを!」という価値観に対するひとつの“攻撃”だったわけだ。 「美しい」モノと向き合うことで辿り着いた少女に対する性的衝動と、 社会的に役に立たない遊戯(人形遊び)によって、ベルメールの『第1ドール』は完成する。

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ベルメール自費出版物『La Poupee(人形)』に掲載された『第1ドール』の写真)

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Hans Bellmer: Octopus Time

 

そして、 『第1ドール』の制作から1,2年後、ベルメールの攻撃はさらなる進化を遂げる。

ベルメールは、ベルリンのカイザー・フリードリヒ美術館にて16世紀に制作された球体関節人形と、当時美術界でブームを巻き起こしていたシュルレアリスムという美術運動と出会った。「球体関節人形」と「シュルレアリスム」という、この2つと出会うことによって、彼の能力は『第2ドール』へと覚醒した。

球体関節人形の特徴は、文字通りですが、人形の関節部分を球体化できるということ。思いのままに自由なポージングができるようになったり、あるいはカラダのパーツを自由に入れ替えて繋げることができるようになった。

そこでも、ハンス・ベルメールは止まらない。シュルレアリスムが開発した「アナグラム」というシステムを採用し、球体関節人形の自由度の高さを利用して、「上下とも少女の下半身」といった数々の衝撃的な光景を生み出した。(中々にショッキングな作品なので、興味ある方は自分で調べてね)「球体関節」と「アナグラム」を取り入れることで、ベルメールの能力『第1ドール』は、「役に立たない存在」としての意味合いを強め、より猟奇的になった見た目は圧倒的な破壊力を誇った。『第2ドール』の誕生だ。

事件性をおびたフィクション(映画や小説などなど)に僕らの心が奪われるのを見るにつけ、「美しさ」は時に残酷なのかもしれない。

Hans Bellmer: Octopus Time

(いくつか作品画像が見られます)

 

ベルメールは「少女を自分の意のままに操りたい!だから、人形をつくってやりたい放題!ドゥフフフ」というド変態な趣味嗜好を持っていた、と考えることもできるんだけど(そして、ただの萌え豚ロリコン野郎が世界を救うヒーローになるという設定は最高にかっこいいなと思うわけですが)、ただの「少女たん(*´Д`)ハァハァ」な大きいお友達が、少女人形のカラダをバラバラにして遊ぶなんてことにもちゃんとした(?)理由があったりします。それが、シュルレアリスムの「アナグラム」という言語システムです(「アートは難しい・わけわからん」と言われる原因はこのあたりの独特な美術史にあると思っている)

「そもそもシュルレアリスムってなに?」ってところだと思うんだけど…簡潔にパパっと説明できるほど詳しくないのでてきとーに紹介すると、フロイトが「夢だ!無意識だ!精神分析だ!」とか言うのに影響をうけて、「じゃあ、その無意識ってやつをどうやってカタチにすりゃいいんだ?」とああでもないこうでもないと様々な方法を考えて、試して、実際に制作していた人たちによる芸術ブーム1920年代)を「シュルレアリスム」と言います。有名ドコロの作家さんだと、サルバドール・ダリマックス・エルンストなどなど。で、その無意識を表現しよう!とする手法のひとつとして、「アナグラム」があります。

具体的には…。

Salvador Daliサルバドール・ダリシュールレアリスム画家)
↓ 解体
a a a d d i l l o r s v
↓ 変換
Ladai Dorvals (無意味)
↓ 変換
Avida dollars(ドル亡者)

 

意味のある言葉を一度解体して、文字を入れ替えることで、意味不明な言葉を作り出して遊ぶことを「アナグラム」と言う。例えば、Salvador Daliという人名(意味のある言葉)を入れ替えてLadai Dorvalsという意味不明な言葉を作る。パターンはいくつもあると思うが、「アナグラム」の醍醐味は、そのたくさんある意味不明な言葉の中から、意味深い言葉(意味ありそうな詩的な言葉)を発見することである。Ladai Dorvals(意味不明)→Avida dollars(ドル亡者)へ。意味のある言葉(有用性のある言葉)を、意味不明な言葉(社会的に無用な言葉)に変換して、その中から「意味」を見出す。

ということを「少女人形のカラダのパーツでやっちゃった」のがハンス・ベルメール、その人である。

この「アナグラム」の採用こそが、『第2ドール』の真髄だ。無用の象徴でもあった少女人形を、さらにバラバラに解体して、より無意味な存在になるようパーツを入れ替えて徹底的に変換させる。社会的には意味のないモノでありながらも、そこに「意味」を見出したベルメールの美学。「使えるモノを!」と声高に叫ばれる時代において、それに真っ向から対立するかのように、徹底的なまでの「ポンコツ」化。それが、ハンス・ベルメール球体関節人形である。  

 

Yahoo知恵袋の青年が秘めてる(かもしれない)カッコよさ

いくつにも重ねられた「役立たず」という烙印は、グロテスクな外見となって少女人形に刻印されていた。上半身を下半身に入れ替えたり、腕や足が欠損していたりと、「こうあるべき」というひとつの肉体像からは程遠い。「上も下も下半身だけ少女人形」など、僕にとって「美しい」作品ばかりではないけど、それでも、『第2ドール』を撮影した作品のうちの1枚に僕の心が掴まれたことは間違いない。その瞬間、 「不完全でも美しいモノがある」と、実感をともなって確信しました。

半世紀以上前に「こうあるのがいいよね」という基準に満たない人々が虐殺されていてそれがその時代の「正義」だった。

しかし、ひとりの芸術家が「そうじゃねえだろ!」と、不完全な人たちの美しさを証明してみせた。

 

ナチスドイツが奨励する芸術以外は「退廃芸術」として弾圧されていた時代において、「不完全なモノの美しさ」を黙々と人形に込め続けた。「ナチスドイツの考え方は正しくて、有用性を持たない人間は淘汰されるべきだ」という『ドイツ優生学』を認めるわけにはいかなかった。

ハンス・ベルメールの場合は「こうあるのがいいよね」という主観的基準における肉体的な差異ではあるし、想像もつかないような残酷な時代背景で生まれた「正義」でもあるけれど、21世紀に生きる僕たちにも通じるモノがあると感じています。

「完璧じゃなくていいんだ、不完全でも美しい」というひとつのメッセージは、「こうあるのがいいよね」という基準(=完璧)から出ちゃってもいいんだ!そんなん気にすんな!と、自分なりの「こうあるのがいい」を大切にする人たち(大切にせざるを得ない人たち)を救うことになるのではないか。例えば、コミュニケーション不全で他人から見放され見下され、アニメのキャラクターに救いを求めたひとりの青年とか。「こうあるのがいいよね」という雰囲気に翻弄されると、その行き着く先はアウシュヴィッツだ!というのはさすがに言い過ぎだろ…と思うけども、それでも、自分なりの「こうあるのがいい」を貫くような、まるでヒーローのような人が増えたらいいなあ、とはわりと本気で信じています。

自分なりの「こうあるのがいい」を大切にする人たち、つまり「芸術家」がもっともっとカッコイイとされる世界になればいいのに、と。

とあるテレビ番組で、写真家・蜷川実花さんの事務所の内装が紹介され、それを観た友人が「悪趣味だなあ」と呟いた。蜷川実花さんは「心地よい密度」「超落ち着く」と嬉しそうに語っていた。そういうことじゃん。蜷川実花さんは自分の快感原則に正直であり、だからこそ、彼女が写真を撮るとき上っ面だけの美しさではなく、もっともっと深くまで達して多くの人を魅了できるのではないか、と思うのです。自分にとっての「こうあるのがいい」という「美しさ」を大切にしているだけで、それだけのことで、世界がもっともっとカッコよくなるに違いない。

社会にとって役に立たないかもしれないけど、自分にとって美しい「少女」や「遊戯」、「無用性」を追求し続けて、『第2ドール』としてカタチにしたハンス・ベルメール。僕なんかはもうその「カッコよさ」に心惹かれちゃって、だからこそ、ベルメールは僕にとってむちゃくちゃカッコいいヒーローなんだ。そして、その『第2ドール』に込められた美しさは、完璧じゃなくてもいいんだ、不完全でも美しいんだということ。美しさは、宗教だから、彼の作品に惹かれる理由もなんとなくわかる。  

 

人形愛とはそもそも、 心の底に潜んでいる自己愛を人間の形をした対象の上に投影する可能性のことではなかったか。by夜想 特集『ハンス・ベルメール

 

夜想 特集『ハンス・ベルメール』

夜想 特集『ハンス・ベルメール』