すがりついているモノ

先週、熊野古道高野山に行ってきました。

つかの間の休息で、久々にゆっくりとできました。

熊野にある那智の滝、信仰への道・熊野古道、福智院で出会った重森三玲の庭園。

素敵な景色とたくさん出会ったけど、もっとも印象に残っているのは、『奥の院』にて出会ったお爺ちゃん。弘法大師に向かって、ずっと、ずっと、一生懸命に頭を下げてお祈りを続けるひとりのお爺ちゃんでした。話しかけたわけではないですが、祈りを声に出していたので、失礼かもと思いながらずっと耳を傾けてみた。今まで見守ってくださってありがとうございましたおかげさまで心臓の病気が治りました、というお礼から始まって、「南無、弘法大師さま、息子の精神病を治してください」と。必死に、必死に、必死になって、それはまるで小さな悲鳴のような声でずっと。

そのとき思ったのは、この人に他にすがるモノはないのか?という疑問。

家族は?医者は?

僕が、神さまを信じていないからだと思うけど、そんなことを思ってしまった。

ずっと、たぶん僕が来るよりも前から、1時間以上は祈っていたのかもしれない。杖をついて歩くことも大変そうな老人が、小さな背中をなんどもなんども曲げて、頭を下げてお祈りの言葉を口にする。老人にそんなことをさせる神なんて何が神だ!とかわけわかんないこと思ったし、一方で、じゃあ自分が何か出来るか?とか考えると、よっぽど神の方が、というか、弘法大師さまの方が人を救うのかもしれない。

 

信仰とは何か?信じるとは何か?

結局、人は自分よりも大きなモノにすがりつきたい生き物なのだ、と思った。

 

常々、人の個性は好き嫌いや興味関心、問題意識などなど、そういう理屈じゃない何かに理由があると思っていたのだけど、もっと言ってしまえば、それは信仰の問題なのかもしれない。人が何かを選択するとき、無意識のうちに信仰しているモノがある。

 

たとえば、僕は「人生、楽しく!」を信じることができない。

あるいは、誰かと一緒に幸せになるということを実感として信じられない。

それは、現状として、友達とワイワイ何かを成し遂げるという経験がないからだけど、それがとても大きい。経験がないことは理屈で理解できても心が納得しない。だから、誰かと会うことをせずに、本を読み、映画を観て、美術館に足を運ぶ。そうすることで、幸せを感じることができるという経験が僕にはあるから。そうすると、

『スーザン・ケイン 「内向的な人が秘めている力」 』みたいな動画や言葉を発見すると、嬉しくなるし、「これでいいんだ」と救われた気持ちがする。自己啓発系の本や記事なんかはこれに近い。これはもうひとつの信仰だと思う。

 

信仰の話をするとき、facebookはすごくわかりやすい。

「自由に生きるための10のこと」みたいな記事をシェアしている人は、それを信じたい人なんだと思う。今流行のどこどこに行ったという近況報告をアップしている人は「それが良しとされる世の中の雰囲気」を信じたい人なんだと思う。友人とワイワイやっている写真をアップしている人はそのコミュニティを信じたい人なんだと思う。

ブランド好きな人もそうだし、会社で働くということもきっと信仰だ。

経済成長期。会社は終身雇用で働けば働くほど大きくなって、社会に貢献しているという実感も得られる制度だった。だから、信じるに値する大きな存在だった。しかし、経済が低迷し、会社という信仰が脆くなると、「フリーランス」や「ノマド」などの別の信仰が生まれる。インターネットや書籍等々で、日々、新しい信仰の強靭さを根拠付けする情報が飛び交う。経済成長から低迷まで、汗水たらして働き続けてきた世代が仕事を辞すると、生きがいをなくして途方にくれるという話を時々耳にする。何十年も信じてきた“仕事”がなくなってしまったからではないか?

最近、嫌韓嫌中が流行り、『海外の反応』というサイトが流行ったりと、「日本って実はスゴイんだぜ!!」という流れが生まれている。これも信仰だと思う。彼らは信じたいんだと思う。自分ではないもっと大きな日本という存在を。震災のとき礼儀正しかった日本をなんだか嬉しく思い、ワールドカップで競技場を掃除する日本人に拍手を送る。「ニッポンヤバイネークレイジーダネー!!!」という海外の人たちの反応に、「ようやく世界が僕たちに追いついたか…!」と“海外”というより大きなモノに不安定な日本を証明してもらうことで安心感を得ている。

「自分は正しいのか?」「自分はこのままでいいのか?」ということを自分で決めることは、むちゃくちゃ不安だしすごく「…え、でも本当かな?」という疑問が無限ループする。厳しい現実を前にして、無力な自分なんて根拠として弱すぎる。不安定な世の中だからこそ。

 

「本を読むことは、僕にとって、祈りに近い」と思ったことがあるのだけど、それをカタチにした『sphinx』はもうまさに信仰そのものだった。これだけオモシロイもんなのだからきっと評価される(そして、なんか人生がいい方向にいくだろう)と思っていた。信じていた。それって「祈ってりゃ死んだあとにイイコトあるぜ?」という宗教と変わらない。「今」を耐えぬいて「将来」に期待する。しかし、実際の『sphinx』はあまりにも弱くて、自信は木っ端微塵に吹き飛んだ。たとえば、キリスト教は数百年の歴史を経て、なんちゃら公会議とかの議論を積み重ねることで、その揺るぎなさ(あるいは隙の無さ)を盤石のものとした。「自分」を信仰するためには、成功体験とかどん底の経験とか、そういう実感ベースの何かが必要になってくるのかもしれない。

 

「人はひとりで生きていけない」とはまさにそういうことなのではないでしょうか。自分以外の何かに寄り添わないと人間は弱すぎて不安定すぎて潰れてしまう。それは宗教でもいいし、コミュニティでもいいし、見知らぬ誰かの言葉でもいい。「すがりたいモノ」はきっと自分が今どこにいるか?で変わってくる。仕事がきつけりゃ「まあ、ほどほどに頑張れ」みたいな言葉にすがりたくなるし、孤独が寂しければ「いつかきっと誰かがあなたを理解してくれる」みたいな言葉にすがりたくなる。

 

でね。僕は「誰か大切な人と一緒に人生を歩んでいくことが人間にとって一番幸せなことなんじゃないか?」と今は実感としてないけど、いつかきっとそう感じる日が来るとなんとなく思っているのだけど、先日やっさんのfacebookでの投稿を見て、「ああ、やっぱりな」と感じました。

 

20歳の頃から職業と住む場所を転々とし続けました。
「俺の人生、こんなハズじゃねぇ! もっと楽しい場所が世界のどこかにあるはずだ!」
心が満ち足りることはなかった。 自分の心の居場所がない人生。
しかし、今、 ようやく旅をし続ける事よりもシアワセを感じられる居場所が僕にはできました。
ずっと続けたいと思えた 仕事も今の仕事が初めてです。
旅<池袋 家族、仲間、お客さん。 ようやく僕の居場所が見つかった。 沖縄で起業する必要はない。

 

家族っていいなあ。「お互いに認め合える2人」ってこれほど力強いモノない。

仕事が終わって、疲れているのか、最近は居間で両親と他愛のない会話をすることが多くなってきているんだけど、この空間は永遠じゃなくていつかきっと終わるときが来るんだなあ、とふと思う。でも、正直、自分の力でこれだけ暖かい家庭を築く自信がもうまったくないです。改めて、両親すごいなって実感してます。

 

どうにかしてもういちど自分を立て直さないといけない。

けど、なんか、こういった思考は結局フィクションで救いにゃならんわけだ…

結果、実績、実力。すべてがなさすぎて嫌になる。