三鷹天命反転住宅を訪れてみたときの話

そういえば、先々週あたりに荒川修作の『三鷹天命反転住宅』にて、MDF対談なるモノに参加してきた(三鷹天命反転住宅 – 荒川修作+マドリン・ギンズ » MDF対談 Vol.5 北川フラム x 池上高志)。初の『三鷹天命反転住宅』であり、初の荒川作品。外見はカラフルで不思議なかたちのマンション(アパート?)で、入り口の注意書きをみるにつけ、ほんとうにふつうに居住者がいるよう。歩き廻ったりとかはしていないので、身体性として、ふつうの家で生活するのとどう違うのかはあまりよくわからず。だけど、ひとつ気付いたことがある。僕らが生活する「家」は、人間が過ごしやすいように設計してある、その一方で、『三鷹天命反転住宅』の地面はでこぼこしていて正座するのも大変だった。身体を意識せざるを得ないわけだ。僕らはいつも意識せずとも座っているけど、座りにくいと座ることを意識する。住みやすい環境は、結果として人々から身体性を奪い去った。もちろん、便利であることは否定しない。過去何千年にも渡って、人間が築き上げてきた「住居」という便利な物体を否定はしない。だけれども、座る、歩く、呼吸をする、等々の、こういう当たり前の動作を、「呼吸をするとは何か?」と、立ち止まって考えることは大切かもしれない。『三鷹天命反転住宅』は、そういう仕掛けがたくさんあるのでしょう。それはつまり、荒川修作が信じていた身体性の大切さを社会に訴えることができる場所(芸術)であるということ。

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まあ、「芸術は人々がふだん気付かないことに気付かせてくれる」みたいなのは、超優等生的な模範解答で、だけどむちゃくちゃフワッとしていてその実何も語ってないみたいな、そこで止まっちゃなんねえわけだ。立ち止まって考えることで飯が食えるか?っていう実利の話。「どうして身体性を意識しないといけないのか?」という疑問に対してもっと一般受けするような、もっと根本的で深いような、解答を考えないと。それは論じる側の責任。

 

さて、話がズレた。なにはともあれMDF対談である。まあ、MDF対談については特に語ることはないのだけど。おもしろかったのは、対談のあと。池上高志は研究者兼芸術家みたいな人なので、僕みたいな「芸術、好きだ!」みたいなのがいる一方で、「大学で生命の研究をしています。芸術はあまり詳しくないです」みたいな方もいて、それがもう最高でした。芸術×◯◯がきっかけで興味を持ってくれるといいなあ。さすが研究者!(?)なのか、僕の「人が感動するとはどういうことか?」という疑問に対して真剣にあれやこれやと意見をくれたのが嬉しかった。

 

ちなみに、というか、これが本日の本題なんだけど、そのときに、

「アートを鑑賞して、感動して泣いたことがある?」という素朴な疑問を貰った。いい映画を見終わったあとの感動を、絵画や彫刻にも求めているんだろうなあ。1枚の絵のまえに佇み、そこでこみ上げるものがあって、気づけば瞳から涙が流れていたなんて経験があるならそれはほんとうに素敵なことだと思う。けど、それはなかなか難しい。よっぽどいい絵か、よっぽどの感性か。たぶん、美術館でアートを見て回るというのは、散歩に近いのかな。ふらーと知らない街を歩いていたら、偶然「お、いいな」と思える公園に出会えたみたいな。僕なんかは美術館で絵を見ながら、別のことを考えていたりする。「このあと、何しようかな」とか「今日は何を食べようかな」とか、そのときの悩みだったりをじっくりと考える。それでも、時々、「お、いいな」と感じる絵があって足を止める。寄り道みたいなものだ。そこでゆっくりと絵を見て、その絵の何に小さく感動したのかを考え始める。それだけでも、素敵な公園を見つけた散歩帰りのように、妙にホクホク顔になれるもんだ。いいもん見たな、と。いいもんと出会えたな、と。

そして、そうした経験は、案外、心にずっと残るのかもしれない。人生経験が乏しいことは置いといて、「人生で一番よかった瞬間はありますか?」と聞かれたら、僕はある芸術作品との出会いをあげると思う。泣いてはいけないけど、それでも。

まあ、しかし。心の底から震えるような感動も、小さな小さな感動も、どっちも大事です。感動するとは一体なにか。