カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』
カズオ・イシグロがマイブームなのだけど、『わたしを離さないで』がこれまたよい。ロンドン旅行中に読んだ『日の名残り』の、「どうしてこうなっちゃったんだよ…!」という現実の理不尽さ・残酷さがもう病み付きで、どうしようもない現実と向き合ったときの、どうしようもない人間の悲哀がすごく好き。『わたしを離さないで』も、徐々に明かされる真実が、本を閉じることを許さず、没頭して読んだ。カズオ・イシグロは、情景描写や状況描写が上手い。例え話の出し方がとても自然で、しかも「ああ、あれね」と納得感もあり懐かしくもあり既視感があり、作品全体にノスタルジックが漂う。主人公のキャシーが社会人になってから学生時代を振り返るという大筋なのだけど、まるで思い出のアルバムを1ページ1ページ捲るかのような不思議な感覚があった。それは、悪ふざけをしたり、喧嘩をしたり、恋愛をしたり、どこにでもある学生時代。ひとつひとつの出来事に対する反応や感情の変化が、それは学生ならではの感受性なのだけど、とても丁寧な語り口で伝わってくる。文章を読んでいるのに空気感が伝わるというのは、やっぱりすごいこと。これほど美しい文章を書ける人はいない。
素敵な文章をいくつか抜粋。
一方で、それだけで終わらないのが、カズオ・イシグロ作品。そのキーワードは「違和感」。『日の名残り』もそうだったけど、主人公が過去の思い出を振り返りつつ、現在の物語が進行するわけだけど、美しさすら感じる主人公の語り口調に、事実として見え隠れするいくつかの違和感。酸いも甘いもある学生時代の雰囲気に酔いしれているうちに、「あれ?」と思います。だけど、そう思ったときにはもう手遅れで、そこからジワジワと、美しい世界が汚く理不尽で残酷な「何か」に侵食されていることに気付き始めます。それが、その瞬間が、もう最高に、むちゃくちゃ素敵で、ほんとうに美しいわけです。『日の名残り』とはまたちょっと違ったカタチなんだけど、それでもこの世界で誰しもが時々痛感する残酷さ(そして、同時にそれはカズオ・イシグロの残酷さでもある)が鬱々と潜んでいる。
そういう、残酷だけど美しい。そんな小説です。