嘘って素晴らしい!

嘘。虚構。

って、素晴らしいよね、という話。

「フィクション」とか「想像力」という言葉が好きな僕にとって、「現実は小説より奇なり」とか言われちゃうとちょっと悲しい。実感として「これは現実にあったことなんだ」という条件は、もちろん、「想像力」なんかよりもずっと重みというか、凄みがあるとは思う。例えば、2013年のアカデミー賞作品賞を受賞した「アルゴ」は、その典型で、あの映画は実話だからこそおもしろい。「え、まじか」という驚きとかそういうの。実話の持つ「重さ」。もし「アルゴ」がフィクションだったら、「まあ、そりゃ上手くいくよね、フィクションだもの」で終わっちゃう。

だけど、「フィクション」という“嘘”は、やっぱり素敵なところもある。そして、「フィクション」の持っている力強さでもある。それは「こういうことがあってね、僕はこう思うんだけどね、まあでも嘘だけど」という逃げ口上だ。僕が高校生のときにハマった『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』というラノベがあるんだけど、その主人公の口癖は「、嘘だけど」。その口癖が、当時から大好きで、「フィクション」も同じように「嘘だけど」という前提がある。「これはフィクションです」という言葉は、「嘘だけど」という前提なわけだ。その前提は「あ、嘘なんだ」と、人々の溜飲を下げる力があると思う。それはまるで何事にも逃げるみーくんのように。

 

喩え話をするなら、

自己紹介 | ちはるの森は「ノンフィクション」で

銀の匙 Silver Spoon 1 (少年サンデーコミックス)

銀の匙 Silver Spoon 1 (少年サンデーコミックス)

 

は、「フィクション」なわけです。

ちはるの森のちはるさんは、自分が食べる動物は自分で屠殺するという、食に対して(あるいはもっと生き方とか)とても丁寧な姿勢を持っていて、「こっちだな」と感じるほどで、おかげさまで、僕に屠殺する勇気はまだないけれど、手をあわせて「いただきます」を言うようにしようと思えた。だけど、彼女のホームページには賛否両論の意見がどんどん書かれているのもまた事実で。世界にはいろんな人がいるからそれは仕方ないことで、あるひとつの事実を許容できない人はたくさんいる。その一方で、『銀の匙』という漫画でも、動物の屠殺シーンがある。それでも、『銀の匙』はマンガ大賞を受賞したりアニメ化したりと大流行。僕も夢中になって読みました。たぶんちはるさんの活動よりも『銀の匙』に対する批判は少ないと思う(調べてないけど)漫画という「嘘だけど」には、事実を伝えるときの緩衝材という力がある。それぞれの使いドコロだけどね。事実、ご飯を食べるまえに「いただきます」と手を合わせようと僕が思ったのは、『銀の匙』でなくちはるさんでしたし、「嘘だけど」という逃げ口上を使わずに批判的なコメントを消さずに残し続ける彼女は美しいし、批判もあるという事実も引っくるめて、「屠殺する」を知ることができるわけで。

…「フィクション」擁護エントリのはずだったのに、全然できてねえや。

 

 最後に「フィクション」と「ノンフィクション」についてのアーサー・C・クラークの大好きな言葉を、大好きなモノであふれた宝箱を見せるようなテンションで。

われわれはいつの日か、人類と同等の存在―――もしかしたら人類より優れた存在と星の海で出会うことになるだろう。こうした展望を待つまでに、人は長い時間を要した。なかにはいまだに、その実現を望まない者もいる。だが、こう問いかける人の数はどんどん増えている―――
「なぜそのような出会いがまだ起こっていないのか? 
われわれ自身が宇宙の門口に立っているというのに」
本当に、なぜだろうか?
ここにあるのは、そうしたもっともな問いに対するひとつのありうる答えである。だが、お忘れなきよう。これはたんなるフィクションなのだ。
真実は、例のごとく、はるかに異様であるにちがいない。

 

 ああ…

「フィクション」を援護射撃するつもりが、とどめを刺す結果に…

現実が憎い…

 

ホントよりも、ウソの方が人間的真実である、というのが私の人生論である。
なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。
by寺山修司