うぐぅ…

 

追記:

他人を見下すということを冷静に考えてみた。

劣等感から他人を見下す、というのはアリますね。自己防衛として。だから、上のツイートに関しては同意なわけです。そして同時にそれは「友人ができない…」という悩み(?)にも繋がってくる。というか、理論として、あり得ると言いますか。他人を見下しているような人間が、まともな人間関係を築けるとは思いませんので。そして、僕も他人を見下すことがあり、そして、友人が多くてfbとかで楽しそうにしている人を見るとなんだか羨ましく感じます。だからこそ、僕は自分の劣等感に自覚的だからこそ、「理想の自分」になるべく努力をします。それは、他人から好かれたいという理由で他人に迎合することではなく、「こっちだな」という自分の理想像に達しさえすれば、自然とまともな人間関係が出来上がっているのではないか?と考えているからで。他人に調子を合わせて人間関係を作ろうとしても、いい人間関係を築けないということは僕の過去20年間くらいで実感としてある、ということを書こうと思ったけど、ってことは、過去の友人関係がダメだったのか?というところから始まり、そもそもいい友人関係とは?とかに行き着いて、あれ?思ったよりもうちょっと考えないといけないかも…という結論になりました。

とりあえず、人間関係云々については置いといて、他人を見下す人のいいところを考えてみた。まずは劣等感によって努力ができること。他人を見下すためには、相手よりも自分が優位だと思うところがないとダメなので。だから、僕は努力という言葉が好きだ。もっと言えば、努力している!という自己陶酔的な自分も好きだ。

で、色々とぐるぐると午前中はずっと考えてるんだけど、これだ!という結論が出ない。というか、出したくない。上記の「劣等感によって努力できる!」というのは、まあ確信的に合ってると思うけど、「でも、これって、ただの自己正論化でしかなくて、なんとでも言えるよな…」とか思っちゃって、うじうじとあーでもないこーでもないとパソコンを前にして悩んでて、「あ、こういうことかな」と思っても、「いやいやいや、でもさあ」と振り出しに戻って。それでもまあ、ふと気付いたことはあって、他人を見下すような人のいいところって、確固たる自信がないからこそ、ずっとうじうじと悩んでるところかなって。今なうで、いいところ発揮してるでござる。自信があって他人を見下さない人は、たいていのことだったり人だったりを、おおらかに受け入れることができるんだと思う。少し激しい言葉を使えば、それは、無批判でもある。僕はおおらかに受け入れることができない。常に疑ってしまう。友人と飲みにいって楽しく過ごした帰りの電車で、「あれ?楽な方に流されてない?」というような自己批判に陥ってしまう。それがいいか悪いかわからないけど、捉え方次第ということで。

とはいえ、上のツイートを見て「うぐぅ…」と僕の心にアッパーを打ち込まれたのは、「友達がいないのは、能力魅力の有無じゃない」という言葉。これは実感としてもあるんだけど、ある素敵な女性の方が「知識が豊富とか、頭がいいとか、そういうところと、その人と友人になるかどうかは別の問題だよね」ということを言っていて、ひとりの人間として他人を見ているようなその態度はすごく大切だと思っていて、つまり友人関係は「能力魅力の有無じゃない」よな、と。僕は素敵な考え方とか知識とかをどんどん吸収して、「理想の自分」になって、それで幸せになれれば、と思っているけど、でもそれは結局、自分という核に自信がなく、思考や知識という武器や鎧を身にまとってガチガチに武装しているだけでしかなく、中身は貧弱というか、根本的には他人を見下しているような人間でしかなく、自分という核をどうにかしない限りはどんだけ努力してもどうにもならんのではないか?という不安がすごくある。でも、この自信のなさこそが僕であって、ここはもうきっとどうしようもなく、つまり僕はきっとずっと幸せになれないんじゃないかなーという虚しさが沸々と。これを成し遂げたらきっと幸せになれる!そして、そのために努力を!という目標もあるけど、もしかしたら“そこじゃない”かもしれない。もっともっと、根本的なところ。もしも、その根本的なところに気付けて、幸せになれたら僕はきっと成し遂げたいことを放り投げ、努力をやめると思う。先日紹介した素敵な漫画『シュトヘル』にて、僕の心をぐちゃぐちゃにしたシーンがあるんだけど、とても素敵で「ああ、つまりそういうことだよな」という台詞があるので、本日はそれを引用して終わります。

(※ユルールとは、文字を守ろうとして必死に生きる少年です)

泣くな ユルール。
ありがとう。
文字を守れても
守れなくても、
おまえが大好きだ。