アーティストとしての生き方by宮島達男

アーテイストとして生きること 宮島達男

1.この国でアーティストがどう生きるべきかリアルに考える。はっきり言って、絵で飯は喰えない。皆分かっているのに、その幻想の旗を降ろさない。なぜか。
2.幻想の原因は美大というよりも、美大の先生方がその幻想を信じているからでしょう。そして、その夢を若い連中に語る。まるで、それを捨ててしまったら、アーテイストではないと思い込んでいるからではないか。ここには、アーテイストという生き方の誤解があるように思う。
3. この幻想「プロのアーテイスト=絵で飯を喰う人」という図式は誤解ではないか。アートは職業になじまない。むしろ、アーテイストは生き方である。自分の生活は別途、自分で支え、自らの想いを納得のゆくまでカタチにし、他者へ伝えようとする人間。生き方。それは素晴らしい生き方だと思う。
4. そうした生き方と思い定めれば、自由になれる。うまいへた。評価されたされない。売れた売れない。人と比べない。楽しいから描いていた頃。そして見てくれた人に喜んでもらえたことが幸せだったあの頃。人の評価でなく、自分が良いと本当に思えるものができたときの喜び。それが本当の自由。
5. そうした生き方をした人に、ゴーギャンがいる、ルソーがいる。無数の絵描きがいる。むしろ、ピカソのように絵で喰えた人はまれ。全体の1%もいない。宝くじを当てるより難しい。そんなギャンブルのような賭けに自分のアートを翻弄されてはつまらない。
6. この生き方、絵描きに限らない。評価されるされないに関わらず、自分が良いと思える事を人と比べず追求する。そんな人はもうすでに本物のアーテイスト。そう、実は、アートは絵描きだけの専売特許ではない。誰もがアーテイストに成れる。Art in You
7.そもそも職業とは誰かのニーズがあり、そのニーズに応えて成立するもの。アートには、もともとニーズがない。自発的に想いをカタチしているだけ。だから職業となじまない。しかし、ごくまれに職業として成立してしまう者が現れる。ここが、幻想を生む原因だ。では、これを、どう考えれば良いか。
8. アートが職業として成立する。それは偶然としかいいようがない。もちろん、作品には「美の基準線」が存在する。作品として成立する最低限の質は昔から変わらずにある。努力次第でそれは手に入れられる。美大で教育するのはここ。だが、それを満たした作品が売れるかというと、そうとは限らない。
9. 偶然に作品が売れてしまうのは、時代や環境、流行など外的要因が大きい。だから、時代によって評価も変動する。たとえば、最近になって評価が高くなったフェルメール、逆にビュッフェのようなケースも。現在たまたま喰えているアーテイストもどうなるか。喰えることと質とは別次元である。
10. この「質」と向き合うことは、自分と向き合うこと。外的要因ではなく自分の努力で報われる世界。ここは裏切らない。「喰えることは偶然」と腹を決められれば、何も怖いものはなくなる。悲しいのは喰えないことではなく、アーテイストとしての目的を失うこと。
11. 目的を失うと、すべてまわりの責任にする。「環境が悪い」「日本の文化度が低い」「社会が悪い」「マーケットが悪い」・・そして、戦略を巡らし、外堀から埋めようとする。これではいつまでたっても自分の「質」と向き合えず、一流のアーテイストとして生きられない。
12. もちろん、社会構造の問題もあるので、私自身、「文化芸術基本法」の制定や、「文化防衛戦略」への答申、税制の改革など。日本の構造改革にも関わってきた。しかし、それでもアーテイストの生き方の問題は依然として解決しない。
13.むしろ、ア-テイストな生き方をする人が増えてくれば日本の構造も変わる。なぜなら、アートには人を思いやる想像力と、出口の見えない問題を突破する創造力の2つが獲得できるから。自分と向き合う感性を持った人がたくさん出れば、日本のカタチはすぐに変わるのは当然。
14.だから、すべての人にアーテイストな生き方が必要。「アーテイスト=絵で飯を喰う」という幻想が、すべての人のアート教育の機会を奪う。音楽、踊り、建築、書、どんな分野でも、人間を人間たらしめる根本の教育。それがアート教育。矮小な幻想を常識と勘違いしてはならない。
15.Art in You. こうしてアーテイストは、たかだか150年の小さな「名詞」の殻から解放され、悠久の大きな「形容詞」に変容する。そして、アーテイストは幻想でなく、リアルな「生きざま」として刻印される。連ツイを読んで下さってありがとう! 了。11/18 を記念し

 

「神は細部に宿る」といいますけど、言葉遊びをすれば、「神は内部に宿る」と思うんですよね。自分の中に。

さて、上記引用は、現代美術家・宮島達男の言葉たち。宮島達男さんの作品(特に、『MEGA DEATH』)は、その存在を知ってからずっと観てみたいと思っているモノのひとつ。「物語」「フィクション」が好きな僕にとって、『MEGA DEATH』という空間がつくる非現実な雰囲気にすごく惹かれる。

20世紀の総括というテーマで制作された《MEGA DEATH》は、「人為的な大量死」を意味します。宮島達男が一貫してテーマとしている「自然と人為」の対比において20世紀を振り返ってみるとき、生まれて死ぬという生命の自然なサイクル:Natural Life Cycle を突如として遮断してしまう大量虐殺や戦争など、今世紀は、人間が人間によって大量に死に至らされた世紀であるという意味でのMEGA DEATHなのです。 青い光を放つ2,400個のL.E.D.が、それぞれの生をまっとうせずに消えてしまう瞬間。視覚的な美しさとは対照的にその奥底からは、まだ生きることのできた生命の沈痛な叫びが聞こえてくるようでもあります。

作品に込められた想い(テキスト)も素敵だ。「人為的な大量死」という言葉から膨らむイメージが僕好み。内藤礼さんの作品と通じるような非現実感があるようにも思え、光と影のような関係として見るのもひとつの「物語」としておもしろいかも。宮島達男さん、内藤礼さん、杉本博司さんについては、もっと掘り下げたい。

 

若干、エントリの主旨から脱線したところで、本題に。

「アーティストとしての生き方」で、飯が食えるような世界にしたいね。ただ単純に、自分にとっての大切なモノを突き詰めていって(努力1)、その「答え」を世界や社会、他人と共有するために、コミュニケーションの方法を模索する(努力2)という生き方。自分と世界に対して“丁寧”に生きること。自分がどういう人間で、それに対して世界との接点はどこか?と考えること。自分を突き詰めると、世界と一致するニーズなんてなくなるんだけど、それでも、自分と世界がほんの少しでも重なるところを極めること。世界によって自分が出来上がるのだから、重なるところは必ずある。それを知るためには、本を読み、旅をして、世界を知る努力をしないといけない。そういう努力をすることが、「かっこいい」と言われるような世界を作りたい。

FBで数人の友人(非アーティスト畑)が、宮島達男さんの言葉をシェアしていたのを見るにつけ、そういうかっこよさの「ニーズ」はあると思うんだけどな。そういう生き方をする人を救えるようなシステムを作りたい。そういう人が救われるような、神話を作り直したい。古代から伝わるヒーロー像としての神話を、現代風に甦らせること。僕にとってのヒーロー像と、世界にとってのヒーロー像を重ねあわせること。頑張ります。