「神話の力」とは何か?

ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズによる『神話の力』という本が、かなり僕好みなのでここに書き残しておく。ジョーゼフ・キャンベルという神話学者を知ったのは、『新しい主人公の作り方 ─アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』という別の本で、彼の有名な著作は『千の顔をもつ英雄』らしい。「神話」という言葉には、子どもの頃から興味があった。「オリュンポス十二神」とかそれに連なる怪物たちが好きな典型的な少年でしたし、大好きなゲーム『大神』を始めとした八岐之大蛇とか天照大神とかの日本神話も好きで。結局、アニメ・漫画的な「四天王」とか、次から次へとキャラ立ちした登場人物が出てくる展開が好きだったりとか、怪物・モンスターの造形や特殊能力が好きだったりとかして、そういうのに反応する快感原則が僕の中に蓄積されているんだろう。

そういう感じで元々興味があったのと、小説を書く上で人々が「美しい」と感じる基本的な物語のかたちを知りたく、古代脈々と輝き続ける「神話」から何かを盗めないものかと思い、ガイドブックとしての『神話の力』を手に取る。そしたら、まあ、むちゃくちゃおもしろいわけですよ。まだまだ完全に消化し切れていないけど、物語の可能性というか、イメージ(想像)の可能性というか、「感動という言葉はあっても、理動という言葉はない」という名無しの権兵衛さんの名言にあるように、伝えたいメッセージを伝えて人の心を動かすための方法論として、「神話」はえげつない力を持っている。理屈(意識)ではなく感情(無意識)に働きかける、芸術という力の、もっとも古いカタチのひとつ。「神話は人々の心の奥深くに眠る意識を---」とか言うても、どこぞの神秘主義、スピリチュアルだよ、と思ってしまうけど、試練を乗り越えて成長していく英雄の話だとか、それは完全に少年漫画の世界でして。英雄(主人公)が父親探しの旅に出るというストーリーは、完全に少年ジャンプの「HUNTER×HUNTER」ですし、僕らが知らないだけで、「神話」というカタチは、この現代にもさり気なく生きている。そしてそれは、「母親依存という状態から抜け出して成人化(父親化)する」というイメージであり、このイメージを達成するための民族的儀式もあった(ある?)ように、人間としてとても重要なことなのだと思う。女性は身体的になかば強制的に「大人」であることを自覚するけど、男はそうもいかないので「儀式」が必要だったという話はちょっとおもしろい。少年漫画的な冒険物を女性があまり好まない(最近はそうでもないけど)理由は、このあたりにあるのだろうか。それとあわせて、外的環境が人々に影響を与えるからこそ土地によって文化が異なる一方で、世界各地で似たような「神話」が誕生しているという現象にも興味が出始めた。文化は脳が生み出すわけだけど、脳を主人公に据えて考えると、人間であれば顔があり手足があり血が流れ言語を使うなどの基本操作があり、脳にとっての外的環境としての人体は誰でもどこでも共通している。その人類普遍の「何か」の存在が気になる。人間の心というモノが、それぞれの人生における経験によって形作られていて、その経験がマッチしたときに感動を覚えるとすれば(失恋したばかりのときに失恋漫画で感動するなど)、人間が共通して持っている「人体」という経験は(あるいは、それに伴う共通の現象)、「一体何か?」という話であり、それは同時に誰もが「美しい」と感じる「何か」である、とも言える。そのあたりを探るためにも、人々を感動させる「美しさ」という意味でも、「神話」というカタチはものすごい力を秘めているように思える。

あと、もうひとつ。『神話の力』を読んで興味が出始めたのは、「生きることのすべては悲苦である」という仏陀の(最初の)教えについて。

「生きることのすべては悲苦である」とは、ブッダの最初の教えですが、まさにそのとおりですね。生きることに〈はかなさ〉が伴わぬかぎり生とは言えません。はかなさは悲しみですーーー喪失、喪失、喪失。あなたは生を肯定し、このままでもすばらしいものだと見るべきです。by『神話の力』

 

もっと仏教思想を学ばないとブッダさんが言いたいことはわからないけど、でも、この最初の教えたる「言葉」を見てなんとなく感じたイメージは、結局人生は偶然の積み重ねでしかなく、何が起こるのかも自分がいつ死ぬのかもわからないけど、それでも生きることを肯定しなきゃいけないのかな、ということ。このイメージは2つの視点から僕好みであり、それは、まず「人生は悲苦、つまり偶然の積み重ねでしかないけど、“それでも”それを肯定して生きねばならぬ」という、それはまるで大好きな「ヒーロー像」に近いということ、そして「人生は悲苦、偶然の積み重ね」であるならば、それは複雑系との人類(情報生命体)の闘いでもあるということ。前者の例えでいえば、僕はこの「ヒーロー像」を宮﨑駿の『風立ちぬ』に見出す。自分の「美しさ」を追い求めていた堀越二郎は、“偶然にも”、“たまたま”、戦争という時代に生まれたがために、彼の「美しさ」は「人殺しの道具」となった。しかし、それでも、堀越二郎は自分の人生を肯定して生きねばならぬわけだ。なんとも言えない「はかなさ」がそこにある。後者でいえば、それは複雑系の話であり、「変化し続けているモノ」が美しいのではないか?という僕の仮説に基づけば、ゆらめく炎は美しいんだけど(ああ、キャンプ行きてえ)、それは同時に、飛行機のエンジンについて研究している方と会話したときのことが思い出される。彼は複雑にも思える炎のゆらめきを完璧に理解して、より効率的にエネルギーへと変える方法を求めていた。つまり、複雑系との闘いとは、炎のゆらめきという、複雑すぎて人間のコントロールが及ばない領域をコントロールする、ということであり、偶然の積み重ねである人生をコントロールすることにも繋がる(のではないか)。もちろん、「人生は偶然だからこそおもしろい!」というテンションは理解できますし、安易にコントロールすべきものではないけど、ひとつの「物語」として、フィクションとして、複雑系を(炎のゆらめきや人生すらも)コントロールする、というのはおもしろくないですか。たとえば宗教は、複雑系に対する人類の恐怖を和らげるための手段であるならば、複雑系のコントロールは、イエスやブッダをも超える。すべてが完全にコントロールされた世界というモノは、もう少し慎重に考えるべきだとは思うけど、(芸術の否定にも繋がりかねない。僕は芸術を愛する)フィクションとしてそれは、社会主義のような理想郷とか管理社会とか科学の究極系にも繋がってくるし、やっぱりおもしろい世界だと思うわけです。

 

誰でもどこでも、人類が共通して持っている「人体」の機能とは、つまりそれは「死」である。だからこそ、「死」は美しい、という言葉が頭をよぎった。人類が共通して持っているモノとは、「死」と「複雑系の(何が起こるかわからない)世界で生きているということ」。その「はかなさ」であり、それを肯定するための『神話の力』。いやはやそれは、「美しさとは何か?」ということでもあり、この世界の奥深さ(あるいは、人間の想像力!)は、ほんとにおもしろいです。