芸術家という特権階級をなくしたい

EテレSWITCHインタビュー 達人達(たち) - NHKが大好きで、いつも観ているのだけど、「浦沢直樹×佐野元春」の回がこれまたおもしろかった。特に、浦沢直樹の「水を両手で掬って(スクって)、それが溢れないように運ぶ」というイメージ。これは、浦沢直樹の脳内に思い浮かんだ光景(イメージ)を他者に伝えるときの喩え話。相手に伝えることで、こぼれ落ちてしまう大事なモノたち。共有できないモノ。それでも伝えたい「何か」。僕が(広い意味での)芸術家たちを尊敬するのは、彼らをかっこいいと思うのは、たとえ伝わらないとしてもそれでもどうにかして伝えたい!と必死になるほどの信念や美学を持っているところ。そして、絵を描き、音を鳴らし、詩を歌い、映像を操り、試行錯誤を繰り返して、どうにかして“自分”という核心を、人々に、この世界に、発信しようと努力をしているところ。浦沢直樹は、描きたい!と思った情景(シーン)を、漫画という言葉によって、人々に伝える。それを伝えるためには、絵の上手さや物語としてのおもしろさが大切であり(万人受けするので)、それこそが世界と自分との間にギャップ(差異)を埋めるためのコミュニケーションでもある。「これ美味しい!」と言って、「美味しいよねえー」と相手から同意が得られれば良いけれど、そうじゃないときもある。そのときは、あの手この手でいかに美味いかを説明するために思考錯誤する。それが、言葉なのか、絵なのか、音楽なのか、詩なのか、映像なのか、という手段の差でしかない。世界(人々)との差異を、どうにかして理解してもらおうと必死な芸術家たちの姿をみて、そこに、僕を掴んで離さない「ヒーロー」の後ろ姿を見出す。芸術家は、僕にとってヒーローなんだ。“自分”という核心(性格)と、世界(常識)とがずれてしまったとき(本来、これが一致することはないはずなのだけど)、僕らはどうしてもその差異を埋めなきゃいけない。じゃないと生きていけない。今の社会は、そういうルールだから。しかし、“自分”という核心とは、簡単に言ってしまえば、物事に対する興味関心・好き嫌いであり、自分が好きなモノと世界が好きなモノとが違ってしまったとしても、僕らは世界が好きなモノを好きになれるわけじゃない。芸術家は、「社会から理解されない・こうあるべきと決まっている社会」という重圧を背負いながらも、自分にとっての興味関心・好き嫌いを曲げず、「美しさ」によって社会との接点を持とうと必死に足掻いて必死に叫ぶ。それはまるで血反吐を吐きながらも立ち上がり、凶悪な敵を前にしても、自分の信念を貫こうとするヒーローのようだ。だからこそ、僕は芸術家が好きだし、同時に彼らの信念である“芸術”が好きなのかもしれない。

 

同時に、この僕にとってのヒーローは、社会にとってのヒーローになり得る時代かもしれない。社会という世界(常識)に出ることを意識し始めた大学3年生の頃から、就活という常識に馴染めず、鬱になった友人や自殺をしてしまった学生の存在を知る。理屈(意識)では理解できても、感情(無意識)は抵抗する。「就職をして企業で働かなきゃいけない」という常識を理解できても、身体は調子を悪くしたり病気になったりと、抵抗をする(そして、鬱や自殺へと)。17世紀において、僕らは近代国家を作るために僕らの理性(意識)を、国家(あるいは、法律)に委ねた。そして、戦後の大量生産・大量消費やテレビなどのマス・メディアの登場によって、感情(無意識)すらも僕らは社会に委ねてしまった。一軒家と車がある生活こそ幸せであるという理想像が、実際に(ある程度の)幸福をもたらす高度経済成長期ならいざ知らず、そうではない不景気な現代においては、僕らの理性や感情を自分自身に取り戻さないといけない。興味関心・好き嫌いは、もっと言えば「何を幸せと思うか?(=感情)」ということは、子どもの頃の経験から生まれるモノであり、ひとりひとり違うのだから。まずは、意識と無意識が存在することに自覚的になること、そうしないと、「自分は社会に適合できない、ダメな人間だ。だから、死のう」という悲劇が生まれる。もっともっと“自分”という核心を大切にする世界になってほしい。そういう空気を作りたい。だからこそ、芸術が今こそ必要だし、“自分”という核心を大切にしながらも、社会との接点を見出そうとする芸術家という生き方が必要だ。だからこそ、僕は芸術家という(ある意味での)特権階級をなくしたい。「自分らしく生きる」というスローガンじゃ、ヒトは救えない。だって、意味分かんないから。もっともっと具体的であるべき。「芸術は難しい」とか、「芸術家は天才肌」とか、そんなこと言ってる場合じゃない。芸術の方法論を確立しないと、それもなるべく早急に。自分という“核心”(興味関心・好き嫌い)との出会い方から、それを上手く社会と接点を持てるようにする方法論の確立。つまり、それは「美学」とも言える。

以上が、僕なりの「美学」であるけれど、この美学を社会と共有するためには「美しさ」が必要になってくる。ざっくり言えば、こんな説教臭い文章を真剣に読んでくれる人は少ないし、実感としても薄く共感できないに違いない。一方で、これを社会に対してどうやって伝えるか?という思考錯誤こそが、芸術だったりするわけで、「ぐちゃぐちゃになりながらも、重圧に負けそうでも、泣きながらでも、それでも、自分が信じた想いや現実を貫き通す」という理想のヒーロー像でもあり、自分をそこに重ね合わせてたりもする。超絶マイナス思考で、将来に対して恐怖しかない僕が、それでもどうにかしたい!と思い続けていられるのは、ヒーローのおかげかもしれない。亀並みの歩みですが、頑張るしかないのです。