他人に対して“丁寧”に生きるとは?

最近、常々、思うこと。

それは、「自分とそれ以外の世界に対して丁寧に丁寧に接することで、理想とする自分や世界に到達できるのではないか?」ということ。“丁寧”という言葉もまたちょっと曖昧なもので、ちゃんと言語化しないといけないのかあーと思うけど、それは追々。パッと思い浮かぶことでいえば、「自分が何かに感動したとき、その感動は一体何に感動したのだろうか?とふと思い立ち止まること」であり、食事をする前に手をあわせて「いただきます」を言うことであり、わからないことがあればちゃんと「それは◯◯ということですか?」と確認ができるコミュニケーションであったりする。

昨晩は、追いコンカラオケオールという素敵なイベントがあって、若さを取り戻すかのように後輩たちと騒いだのだけど、やっぱり昔と比べて起床時間が遅くなるのだなあーと翌日の昼3時に目が覚めてふと思う。お酒も残っている感じがしてどうにもスッキリしないので、「ジムで筋トレでもするか…」と支度してのろのろと出発。

でね。玄関で靴を履いているときに「そういえば、学生証がもうないから今日からは学生料金じゃ無理だなー」とか、ふと思った。案の定というか、大人料金で入ろうとしたら受付の女の子が僕のことを覚えていた(?)らしくて、「今日は学生証を忘れてしまいましたか?」というようなことを言ってくれたわけ。だから、「いや今年卒業なのでもう持ってないんですよ」って答えたら、そしたら、「あ、すいませんでした」って、その女の子が言うの。この「すいませんでした」がすごく申し訳なさそうで心にひっかかった。「謝る必要ないのになー」とか思いつつ、更衣室に向かったんだけど、その途中で、罪悪感のようなモノがじわじわと僕の心を蝕んでくる。ただ一言「いやいや、謝ることないですよ」と言えばよかったのにって。その一言を残すだけで、受付の女の子の気分は良くなるというか、今日のアルバイトでのあれこれがいいモノに変わると思う。自分も飲食店でアルバイトをしていたから、「失敗したなー」と思ったとき、「いえ、大丈夫ですよ」と気さくに言ってくださるお客さんがいると、気分が晴れる。それだけで。

自分以外の世界に対して"丁寧”に接するということは、つまりこういうこと。ちゃんとコミュニケーションをする。思ったこと、感じたことをちゃんと言う。それが友人でもお店の人でも変わらない。焦ることはない。ゆっくりでいいから、自分が感じた感覚を会話の中で言葉にする。会話って相手の言葉に対してすぐに答えなきゃいけない、みたいな固定観念があったのだけど、それはもう捨てちゃった方がいいかもなあ。もちろん、それが必要な瞬間はあるのだけど、他人との軽いコミュニケーションであれば、「えーとですね…」ぐらい迷っていいんじゃないかな。「ちょっと待ってくださいね…(苦笑)」ぐらいのテンポでゆっくりと言葉にされる感覚は、やっぱりすごく丁寧な態度だと思う。

およそ10年間、「この空気・場ならこう言えば外れはない(あくまでも外れなので、当たりでもない)だろう」という思考回路しか持っていなかった、つまり半ば条件反射的に他人とのコミュニケーションを済ませてきたので、このあたりはすごく苦手分野だ。頑張りませう。

 

「“丁寧”に生きる」ということで、以前メモった言葉を。

人の性格をカテゴリー化してそれを参照しながら相手の喜ぶツボを突こうとする人がいます。僕はひとつひとつの出会いをリスタートしながらコミュニケーションをしたい。それが"丁寧"に生きるということ。それはすごく非効率的で、カテゴリー化さえしとけばすぐに相手のツボが予想できるはずなんだけど、毎回毎回ちゃんと積み上げるような、そんな不器用な生き方をしたい。