すごくない人でも生きやすい方がより良い

「こいつ、おもしろいよ」「あいつ、すごいよ」

この世界は、そんな人たちが多すぎる。

 

 

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追記:

ぶっ飛んだことをやってみせる・人生を楽しんでいるところをみせることは、誰かの心が変わるきっかけになるでしょう。少し前のエントリでも書いたけど、「憧れ」は個人の能力を引き上げて、人類全体の能力(要検討)を向上させるための機能として備わっていますから。しかし、自分にとってのオモシロイコト・快感原則を理解・実感している人は少ない。たとえ、それが妄信だとしても。人それぞれ違う人生を歩んできたのだから、それぞれが楽しめる人生は違う。人生を楽しむ(棒読み)という目的は一緒でも(これはまるで「人類皆平等」並の違和感があるけど)、どうやって楽しむか?という方法は違う。商業主義・広告第一主義によって煽られる大きな欲望に対して、僕らのかすかな「感動」はあまりにも小さい。どんちゃん騒ぎのカーニバル的な欲望に対して、それは野に咲く小さな花のような感動だ。楽しそうな祭り囃子に誘われてフラフラと何も考えずに歩いていると、その途中にあった小さな花にはきっと気付かない。この広い世界の中で、たったひとつ咲いている小さな花の探し方、それをデザインしたい。fMRIあたりを使って個人個人の脳の動き・反応を調べて、「あなたの快感原則はこっちじゃね?」と提案できるツールとか。「自分らしく生きる」というスローガンでは人を救えない。

 

引用:「たとえ、それが妄信だとしても」

「妄信」という言葉は好きだ。狂信と同じようなモノで、ほんとうかどうかもわからない欲望をどこかのタイミングで泣きながら選択・決断しなければならないというキチガイ感。妄想のために、ありえたかもしれない選択肢を排除することの恐怖。選択した以上は、それが間違いだったとしても「妄信」する。ロンドン旅行で読んだ「日の名残り」という小説が、このあたりの「妄信」の話で僕好みだった理由にふと気付く。あとで、ちゃんとエントリ書こう。