ダミアン・ハーストはどうしてすごいのか。

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ダミアンハーストと、その作品。

エントリを書き直しました。

「死」すらも輝かせる現代芸術家・ダミアンハースト - ぐちゃぐちゃと書き殴る。

 

ロンドン旅行の目的のひとつに「ダミアン・ハーストの作品を観る!」というモノがありました。それも可能ならば「サメや羊のホルマリン漬けを観てみたい!」と。ダミアン・ハーストのことを初めて知ったのがいつだったかは覚えていないけど、「めっちゃかっこいい!」と強烈な印象を受けた記憶がある。まあ、彼の作品の性質上、そうなることはあたりまえなんだけど、それでもインタビューなどでの彼の発言も最高にかっこいいと感じた。

・『一千年』を作ったとき
このとき僕がはじめてつくり出したのは、コントロールできない独自の生を持ったもの、僕のコントロールの外にある何かだった。「僕はいったい何をやっちまったんだ?」というフランケンシュタイン的な瞬間を味わった。最初のハエが殺されたときは「おっと、ファック」って感じだったな。byダミアン・ハースト美術手帖7月号)

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片側に設置された白い箱には蛆が培養されており、もう片側には牛の頭が設置されている。 ハエは牛の頭に卵を生み蛆は牛の頭を食べて蝿になる。 また牛の頭が設置されたボックスの上部には殺虫灯が設置しており、死んだハエはそのままになっている。

 ダミアン・ハースト「千年」 - pastport


しかして、ダミアン・ハーストは芸術家である。彼の作品や発言を紙面上あるいはネット上だけで惚れ込むのもまた違うという感覚があるので、ぜひともこの目で、この肌で、この感覚で体験したい。そう思っていたのだけど、今回の旅行ではついぞ出会うことは叶わなかった。テート・ブリテンにあると言われていたので足を運んでみると、2000年代以降の作品ゾーンは閉鎖中だったり、サーチ・ギャラリーに展示してあるというような情報が某歩く地図に載っていたので足を運んでみるも置いてなく。出会ってみないと、心の底から自信を持って「好きだ!」と叫べないからもどかしい。また、実際に自分がその強烈な作品たちと触れ合うことでどんな心境になるのか?ということも気になる。その迫力と重厚さゆえに僕の心は打ち震えるか?それとも、「存外大したことないな」と鼻で笑うのか?まあでも、なんというか、日本に来ることはなさそうなので、その結論は当分先かも。

さて、以上のように僕はダミアン・ハーストの作品を直に触れていないということを考慮していただきつつも、ここはひとつダミアン・ハーストがなぜすごいのか?という質問に自分なりの答えを見つけたい。そもそもそう思ったのは、ロンドン観光のときにサーチ・ギャラリーというギャラリーを訪ね、そこで悪趣味な作品の数々と出会ったからであり、あるいは、そのギャラリーの雰囲気がダミアン・ハーストの作品と似ていると感じたからで、それによってふとその凄さが思い付いたからである。(床はフローリングで、壁は白。窓は半透明な水色。それは僕が画像で見た「ホルマリン漬け」の作品群と似ていた)「悪趣味」と表現したけれど、僕個人としては「悪趣味」もひとつの個性であり、尊重されるべきであると考える。それは、何を隠そう、この僕が「悪趣味」だから、という自分を守るための提案であるともいえるけど。僕が芸術作品を眺めていて「いいなあー」と思う作品の多くは「死」や「血」、「暴力」を彷彿とさせるような代物ばかりで、自分でもどうしてこうなったのかわからないけど、「そうなんだから仕方がない」とするしかない。好きなモノは好きなのだから仕方がない、と。

 

話題をサーチ・ギャラリーの「悪趣味な芸術作品」に戻そう。個人的な感覚として、サーチ・ギャラリーは「悪趣味な作品」が多かったように思える。だから、僕はとても好きなギャラリーだなあーと感じつつ眺めていたわけだ。そして、心の片隅に「ダミアン・ハーストの作品はどの部屋にあるのだろうか?」という期待を持っていた。(そのときはあるかもしれない!という僅かな希望があった)そして、想像した。大きめな部屋の真ん中で静かに鎮座している彼の作品を。それは「死」の気配を纏い、何も語らず、重厚さのある迫力と狂気を孕みながら、静かに存在しているはずだった。そのように、想像した。すると、それまで観てきた作品たちとは(失礼ながらも)「格」が違うように思えた。引き込まれるような圧倒的な存在感というか、迫力のこもった質量感というか、直に見ていないので想像でしかないのだけど、ダミアン・ハーストの作品(例えば、ホルマリン漬け)がそこに存在していることに違和感を感じるに違いない。ダミアン・ハーストの興味(おそらく「死」の匂い)こそ、彼の人生にとっての動かざる核心であり、それを社会に対して接点を持たせることが必要だった。その接点に到達するために必要なバランス感覚と、肥大に膨らんだ彼の「死」への核心。そして、その核心の大きさは、僕のような「死」への関心が日常において無意識である「隠れた支持層」を包み込むほどであったはずだ。しかし、だからと言って、人を殺しては犯罪となる。人や生き物を殺すということを別の手段で言い換えなければならないわけだ。ダミアン・ハーストは、そのボーダーライン感覚あるいはバランス感覚を持っていた。踏む越えてはいけないラインを知りつつ、自分の核心として存在する「死」を表現しなければならない。それが「ホルマリン漬け」だった。

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彼の初期作品である『一千年』は、おそらく一般的あるいは社会的にアウトなのだと思う。もしくは、ほんとにスレスレか。そこから彼は試行錯誤を繰り返し、より社会に適合するような「死」を表現した。それが「ホルマリン漬け」。好き勝手に自分の欲望や興味関心を描く子どもたちの絵が、芸術とされない理由は、この社会との接点を探るための思考錯誤にある、と僕は考えている。そして、それは人間だからこそできる荒業であるとも言える。「死」などの悪趣味な雰囲気に心が惹かれる人たちがいる中で、そのバランス感覚を持ってしてこれを作ったダミアン・ハーストは、やはり一定の評価を得られるのではないか?

あるいは、「ホルマリン漬け」スタイルはどことなくその生物が生きている感じがするので、「死」と「生」を同時に扱うことができたことも要因かも(と、このエントリを書いていてふと思った)

改めて、サーチ・ギャラリーで出会った作品を見てみたけど、やっぱり「悪趣味」という言葉はよくないかもなあ。「ちょっと暗い作品」くらいにしておこう。ってことで、以下にサーチ・ギャラリーで出会った「ちょっと暗い作品」の芸術家を羅列してみる。

Dana Schutz - Artist's Profile - The Saatchi Gallery

Helen Verhoeven - Artist's Profile - The Saatchi Gallery

Kate Hawkins - Artist's Profile - The Saatchi Gallery

Virgile Ittah - Artist's Profile - The Saatchi Gallery

この人の老婆(?)の作品はめちゃくちゃよかった。

あと、ロンドン旅行で、線の細い彫刻(ジャコメッティとか)が好きなんだなあ、と気付いた。作品から漂う哀愁のようなモノが好きなのかな。日本人なら誰でもそういうの好きそうだけど。

Chantal Joffe - Artist's Profile - The Saatchi Gallery

あと、「ちょっと暗い絵」じゃないけど、Chantal Joffeの作品でおもしろかったことがあって、それは、ある鑑賞者がJoffeの非性的な絵をスルーと眺めていたのだけど、性的な絵になったとき、ふと足を止めた(それでも数秒だけ)こと。「現代アートはわからない」という言葉はよく聞くし、実際ほとんど何も感じない作品(足をとめない作品)はすごく多い。あるいは、僕らが現実社会に存在する多くのモノに対して無感動であることを見ると、少しでも足を止めさせることができる「何か」は、やはりスゴイ。「じゃあ、卑猥な絵を描けばいいのか?」と言われるともちろんそうじゃないけど、性的なモノ、あるいは何かを感じざるを得ない残酷な作品・モノが人々の興味を引くという事実は示唆的であると思う。