他人の答えを参考・比較して自分なりの答えを

このエントリが素敵です。

人生に「意味」はありますか? - いつか電池がきれるまで

どんな人生にも、本当に意味はあるのか?
いや、『自虐の詩』の登場人物レベルであれば、まだ、「意味を見出す」ことは可能かもしれません。
でも、生まれた直後に命を落としてしまった赤ん坊とか、貧しい国で物心もつかないまま餓死してしまった子どもの人生に「意味」はあるのか? 「そういう人生にも、等しく意味はあるのだ」というのは、人生の意味なんて悠長なことを考えられる国・時代に生まれた僕の「傲慢」ではないのか?

人生に「意味」はありますか? - いつか電池がきれるまで

 

ほんとそうだな、と気付きました。

僕はもう「人生には意味がある!」だなんて、口が裂けても言えない。少なくとも「◯◯という場合においては、これこれこういう感じでもしかしたら人生に意味があるのかもしれませんが…」と歯切れの悪いかたちでしか断定できない。あるいは「生まれた直後に命を落としてしまった赤ん坊がいたとして、その死はきっとその子を産んでくれた両親にとって何かしらの意味がーー」とか言えちゃう可能性もあるけど、これほど残酷で身勝手なことはない。

だけど、「意味」を考え続けることに「意味」はあると思う。なんだか言葉遊びみたいになっちゃってるし、「我思う故に我あり、かよ」とツッコミも入れたくなっちゃうけど。人類の存在意義でも個人の存在意義でもいい。まあ、取り急ぎ、自分については特に考えないといけないとは思いつつ。「意味」というか、「どうやって」というもう少し具体的な感じだけど。

で、本を読むことの大切さを今一度感じたのは、この一冊の本。

タイトルにもあるように、V・E・フランクルさんは、この講演のなかで、「生きることを肯定する」という立場を貫いておられます。 強制収容所という「絶望」のなかで過ごし、奥様をはじめとする多くの家族を失ってもなお、「生きること」の素晴らしさを訴えかける人がいる。

人生に「意味」はありますか? - いつか電池がきれるまで

それは、『夜と霧』で有名なV・E・フランクルさんが書いたもう一冊の本。

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 

 あの第二次大戦において、ナチス強制収容所という地獄を経験した方が語る「生きる意味」。おいおい、嘘でしょ?と思わずその本の存在を疑う。一周回ってというか、自分なりに色々と考えた上でこの本の存在について冷静に考えると、 このような経験(ほんとにほんとうにこの言葉にはもっと重くて重くて重いモノがあると自覚的であるべきだけど)が、時間や国境、立場を越えて、僕が触れることのできる凄さ。赤ん坊の話もそうだけど、本などを通して別の視点・経験から物事を考えることはアリだと思う。というか、絶対に必要だ。他人の人生を歩むわけではないので、「生きる意味を考えるほどの余裕がない人もいるので、そもそも人生の意味を考えることは無意味である」というのは違うとしても、「参考にする」「比較対象にする」ことは積極的にするべきだし、その情報が多種多様であればなおよし。うん、(やっぱりもっと)本を読もう。