対複雑性兵器としての環境依存型情報生命体

結局は、学問も宗教なのかもしれない。神さまが唱えた世界の成り立ちを熱狂的に信じ、「死」や「存在理由」という不可解な難題を日常から遠ざける。「この世界は神さまが7日で創造した」「我々は生まれて死んでを繰り返している」という非科学的な物語ですら、そこに「納得感」さえあれば人間は受け入れてしまうのだなあ、と実感した今日この頃。先日、ようやく掴んだ核心たる「無意識」が、環境依存型であり、気分次第でどうにでも変化する不安定なモノだったと思い知り、意外とまじへこみしていた。核心の否定と同時に、「じゃあ、自分って一体なんなんだ」というありがちな恐怖のせいもあったと思う。一方で、20年間くらいの人生で考えたことが「人生の核心」であるなんて「そんなに人生って薄っぺらくないでしょ」とも思っていたので、妙な安堵感というか、ぶち壊されたことへの清清しさもあったりした。
それでも、ある種の怖さのようなモノは薄っすらと心のなかに持っていて「なるべく早く別の哲学を構築せねば」と思っていた。その矢先である。直感で「なんか好きだな。気になるなあ」と思っていた「弱さ」というフレーズの種が、ここで大きく花開くことになる。きっかけは、松岡正剛の「フラジャイル」という本。以前から日本文化に興味があり、数奇や移ろいなどの日本的概念を松岡正剛の書籍から学んでいたのだけど、その時々に「弱さ」という単語が登場していた。その「弱さ」についての総まとめが「フラジャイル」という本で、そこに救いともいえる世界が広がっていた。

生物が環境にたいして種々雑多な多様性を標榜できたのは(中略)分子進化のごく初期には文脈自由型であった戦略を、いくつかの生命体が出現した進化の途中 からは文脈依存型の戦略にきりかえたと思われる。(中略)あるときに複雑性を活用する戦略の変更が創発的に出てきたということである。

 

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

 

 



「確かな自分」という存在はないという恐怖感。しかし、生命は文脈依存型の戦略を採用しているという仮説によって救われた。例えば「バタフライ効果」のように、この世界は複雑に満ちていて、いつ何時どのような変化が起こるか判断できない。DNAを始めとした情報が存在し続けるために、僕たち人類という情報生命体が手段として存在する(という僕の大好きな仮説)のであれば、この世界は「複雑性」と「情報」の全面戦争。つまり、僕たち人類は手段であると同時に兵器でもあり、「情報」がこの複雑世界を生きるための生存戦略である。世界は複雑であるがゆえに、情報は複雑性を活用するという戦略システムへと僕たちを変更した。「複雑性を活用する」とは、環境依存型であり、気分次第でどうにでも変化する不安定な僕たちは、「情報」が複雑な世界に打ち勝つために編み出した決死の戦略だったのである。
「気分に左右されるような不確かな存在である僕たち」には理由があったのだという安堵感。そして、その不安定感はフラジャイルへと繋がっていくのかと思うと、「フラジャイル」を読み終わるのが楽しみ(まだ未読)想像するに、僕たちの「意識」はなんと弱々しい存在なのだろうか。気分に左右されながらもほんの少し残っている「好き嫌い」を感じる自分。それは儚く、移ろいやすい。ふと「自分」が現れた瞬間を、僕らはもっと大事にするべきなのかもしれない。

とはいえ、実際として科学的であれなんであれ、この物語が本当かどうかはわからない。学問全般がそうであるように、この物語は仮説でしかない。しかし、僕はこの仮説に「納得感」を覚える。そしてその行為は、宗教となんら変わるところがない。日本人は「宗教ワロタ」と思うけれど、昔の人々は宣教師が話す世界観に「納得感」を覚え、そこに救いを求めたのだろう、と。「情報」が複雑性を活用するという物語を知って「この考え方素敵!」と思い、それによって気持ちが楽になっていた自分に気づき、「ああ、宗教ってこんな感じかあ」としみじみ感じ入りました。

対複雑性兵器としての環境依存型情報生命体が考案されたとかもう最高にテンション上がる物語なので即採用!