結局、幸せについてリピートしてる

無意識レベルでの快不快原則を大事にすれば、少なくとも不幸になることはないんじゃないか?」という仮説ともいえる核心があって、そして無意識レベルでの快不快こそが「ほんとうの自分」であると思っていたのだけど、結局その快不快の原則は気分次第で大きく変化するモノであり、気分というモノが外界からの刺激に大きく依存するモノである以上、「ほんとうの自分」という確固たる存在ですら環境次第の不安定な存在でしかなかったという残念な結論に至ったのが今日のハイライト。ようやく掴んだ!と思っていた核心が足元からガラガラと崩れ去ったかのような感覚。周囲の環境を上手くコントロールすることで「ほんとうの自分だ」と確信できる方向性に気分を持っていくことは可能だけど、「では、その確信的な方向とはどっちですか?」という質問に答えることができない。だから、僕の幸福論は振り出しに戻った。その「確信的な方向」の根拠として快不快原則があったのだけど、それは環境依存型であり、その環境は自分で構築しなきゃいけないけどその方向性がわからないという無限ループ。振り出しに戻る。リピート。エッシャーの無限階段。無限回廊。仕切り直しだ。もはや「ほんとうの自分」なんて幻想であり、何かをすることに意味も意義も理由も糞もなく、存在理由なんて存在しないんじゃないか?と思い始めてるけど。たとえ存在理由がないとしてもそれでもどうやって生きるか?ということを決定しないと生きていくことは難しい。「その根拠を…!」とも思うが、「ねえよ、そんなもん」と。

 

最近、自分の心が動く瞬間を意識することに慣れてきたんだけど、そうすると「今日まじ寒くね?」という他人の発言やすれ違う人の表情という些細な一瞬にも心(というか、脳ですか)がほんの少しでも動いていることがわかり、それがもう情報過多すぎて気持ち悪くて、周囲の変化が視界に入らないように下を向いて歩いてたら「地面の模様が変わる」という変化にすら無意識に反応していることに気付き、なんかもう歩くのが嫌になったりとかしてた。正直、なんかもう疲れた。意識レベルでの情報容量って無意識レベルに比べたら全然少ないんだああと実感したというか。

今日はなんだかテンションが落ち込む日だ。都知事選も予想通りの結果に。根拠はないけど嫌な予感のする結果ですし、「ネットで政治を変える!」というキャッチフレーズも一切効果はなく(そもそもネット=社会じゃないということにいまだに気付いていなかったの?と。家入さんって誰?~妻の一言にみるネットという井の中の蛙)スポーツなら奇跡を信じられるけど、政治における奇跡がまったく起こる予感がしないという絶望感たるや。世の中には「おいおい、漫画かよ」とツッコミたくなるぐらいアホな設定が存在してて、そういうどうしようもない現実を前にして、僕はどういうことをして、どうやって生きていこうかとまたじっくりと考え直さないといけないなあーと。

あと、信者でもなんでもないけど、あずまんの冷静な態度はすごく大事だと思う。