モノマネ遺伝子

ぼくには以前から、次のような考え方があった。世の中には抑圧しても抑圧しきれないものがあって、それは「自由」ではなくて、実は「模倣」や「類似性」なのだろうということだ。模倣や類似はどんな時代のどんな場所にも発生し、波及し、蔓延する。それを流行といってもいいけれど、それだけではない。模倣や類似は家庭にも学校にも、言葉づかいにも文体にも、絵画にも音楽にも、商品にも価値観にも浸透する。意識も社会も、模倣と類似によって成り立っているのではないかと思われるほどだ。

1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド|松岡正剛の千夜千冊

 

この発想はすごく好き。かつ、それを説明する言葉も。

「真似ること」、つまり誰かと同じ何かを共有することは人間の根本的な幸福である、と僕は思う。友人と会って会話を楽しみ、同じ時間を共有することがなぜ楽しいと感じるのか?ライブやクラブで見ず知らずの他人と同じ音楽で盛り上がるあの瞬間はなぜ楽しいと感じるのか?好きな人に想いを告げ、お互いの気持ちが同じだったときのあの幸福感は一体何なのか?ビジネスを仲間と一緒に達成し、そのビジョンやアイデアが消費者に認められた(つまり、ビジョンやアイデアが共有された)ときの幸福感は一体何なのか?あるいは、小説を読んで感動をするとき、それは小説を通じて、著者との思想の共有ができたと感じるからではないか?

 

宇川直宏は言う。

黒澤明の『どですかでん』には、廃車になったシトロエンを住処とするホームレスの親子が登場します。父は息子といつも自分たちが未来につくる家を脳内で想像し、そのイメージを2人で共有するワンシーンがあります。僕はここにほんとうの豊かさを見出しています。あの親子のように、豊かさとはイマジネーションが生み出すモノではないか。そう、豊かさは我々人間ひとりひとりの想像力によって生まれます。そして、その想像力が共有できたとき、心と心が繋がったと実感できたとき、僕たちは至福に満ち溢れた「真の豊かさ」を感じ取ることができるのではないでしょうか。

 

想像力の共有。なんて素晴らしい言葉。

 

茶室が簡素であるのには理由がある。そこが空白であることによって、最小限のしつらいで、大きなイメージをそこに呼び入れることができるのだ。たとえば、水盤に水を張って、その水面に桜の花びらを浮かせて配するだけで、主客はあたかも満開の桜の木の下に座っているかのような幻想を共有することができる。by原研哉(白)

僕が茶の湯に興味があるのも、この「想像力の共有」にある。

桜の季節、千利休が秀吉を茶室に招いて、水盆に浮かべた花びらによって満開の桜というイメージを共有した。なんて贅沢な遊びであろうか。「想像力の共有」において、茶の湯は究極系のひとつに違いない。このような趣向の遊び心があるような人間になりたいし、物質社会と言われる現代において、この発想はきっとひとつの救いにもなるのではないか。

 

 そして、最近気になるワードとして、ミラーニューロンというモノの存在。

通称、「モノマネ遺伝子」とも。

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)

 

 はよ読まな、と思いつつ、後回しにしちゃってるのでしゃんとせねば。

 

この「真似ること」に対する近いアイデアは前々からあったのだけど、松岡正剛の素晴らしいところは、それを「自由」と対置して、「抑圧しても抑圧しきれないモノ」と、「模倣」の可能性を表現したこと。「共有」だけでは語り尽くせない社会の動向が、「模倣」という言葉によって成立し得る。そして、その抑えきれない現象がこれまでの社会を作ってきた、という方向性は、「模倣」の可能性とその深遠さを伝えるようで、なんとも言えないゾクゾク感がある。事実ではなく世界観(=物語)で語ることは、僕にとって興奮剤のひとつだ。