個人欲求の追求=個性

自分の夢を褒められて、認められて、それがすごく嬉しくて、

ここ2,3日は気持ちがすごくフワフワしてる。

まるで誰かを好きになったときのような抑えがたいくすぐったさに似てる。

 

 

誰かと何かを共有する瞬間こそ人間の幸せなんじゃないかと思うんだけど、

20年間で刻み込まれた僕の興味関心・好き嫌いは、僕の根本的な快楽であり、欲望であり、僕自身そのものなわけだ。ようやくそこに気づいて、その欲望を希望に変えて、これこそ「自分だ」という確信を持ち始めていた。そして、その確信を褒められた。

むちゃくちゃ嬉しい。このくすぐったい幸福感いいね。幸福に包まれるとはこのことか。一方で、自分の「確信」を現実世界において適応させて、世界中の人たちに認められたとき、僕の確信を多くの人と共有できたとき、それはどれだけ幸せなのだろうか。確信を提出すること=アートであり、つまりビジネスもその提出方法のひとつだと思っているんだけど、もしビジネスに成功することはこの快感の何倍もの喜びであるならば、起業というモノはむちゃくちゃおもしろいのでは。

 

欲求に忠実じゃだめ。

それって犯罪だし。制限があることで自由は際立つ。負を背負うこと。

欲求を制限というフィルター(アートやビジネス)に通すことでいいモノができるし、社会と共有できる。欲求を共有することが大切。うーん。現実世界との接点を持つことで、共有される。

 

あるいは、自分の「確信」を共有できる喜び。

その確信という名の欲望さえ認識できていれば、人は幸せになれる。

広告によって作られた嘘のような商業的欲求じゃなくて、もっと根本的な欲求。

それはすごくプライベートな欲求だから、「世間で流行っているから、私も」みたいな偽物の承認欲求だと「どこか満たされない感」があるのでは?だから、過剰に消費してしまうのではないか。

 

この「自分だ」という確信を認められたときのフワフワ感は誰かを好きになったときのような感じ、と言ったけど、それはたぶん根本的なところでは同じなのかも。異性の好き嫌いも個人的な好みだし、理屈じゃないわけで。友達に「好きな人にフラレたけど、肉体的な関係は続いていて、それではダメだと周りは言うけど、結局嫌いになれない子」がいるんだけど、それがすごく健全だと思っている。どうしようもないんだよ。その自分というモノを共有する最も原始的なかたちが、恋愛であり、人間関係なのかも。だからきっとありのままの自分を認められたときの嬉しさはものすごいんじゃないか。

 

あと、僕は「目的」が好きなのかも。

多くのひとが、自分の根本的な欲求にしたがって生きると幸せになれる、と理解して行動しているだろうけど、僕がおもしろいのは、そこに興味があるっていうこと。幸せになりたい→自分が根本的に幸せになれる何かを探す→それを叶えて幸せになる、がふつうだけど、僕はその過程に興味がある。幸か不幸か、偶然か。僕はずっと茶の湯に興味があって、これもお茶を飲むという過程を追求した結果の文化である。fbとかでも「起業することが目的化しちゃダメですよね!手段の目的化反対!」みたいな投稿を見ては、「うぜえ(笑)別に手段の目的でもいいじゃん」とか思ってる。手段が目的化して、それがアホみたいに肥大して茶の湯のような最高の文化を作り上げることに興味がある。