鶏とは、卵が卵を産むための手段にすぎない
それは衝動的な性質すらある。
まるで無意識に、気が付けば「今日は気持ちのいい天気ですねえ」なんて、そこに居る誰かに語りかけてしまったりするのだ。 まるでうつくしさが、ぼくに寄生して、ぼくを媒体にして、自らのうつくしさを広めようとしているみたいである。
ぼくはゆらゆらと操られているみたいに、誰かにうつくしさを伝えたくなる。
去年あたりだろうか、表参道のGYREというギャラリーで彼女の作品と出会ってから、少しだけ彼女の存在や言葉が気になっている。生まれた年が同じだということも驚いたけど、設定厨である僕はひとつの絵にひとつの世界が築かれているのにどうしようもなく惹かれ、また何よりも女の子的なモチーフが好きだったりする。ポロックのように絵を取り囲むように空白が存在する絵も好きだ。
まあ、フェチズムの話は置いといて、
という話をしたい。
伊藤計劃「屍者の帝国」にて登場する僕の好きな言葉なのだけど、鶏と卵において主体はどっちなの?ということに対するサミュエル・バトラーの言葉だ。思考というモノが僕ら人間側にあるがゆえに、あたかも僕ら(=鶏)が主体であるかのように思いがちだけど、ほんとうの主体は卵だ。
遥か昔、卵は考えた。「どうすれば次の卵を産むことができるだろうか?」と。
頭のいい卵は「鶏というモノをつくってそいつらに卵を産ませるのはどうかな?」と提案して、それを実践した。つまり、鶏は卵のために生きている補佐役でしかない。卵が自己増殖することができるのなら、鶏はこの世に存在しない。
卵とは、遺伝子情報(=DNA)のことだ。
遺伝子情報たちは「生き残り続けたい!」という欲求が強く、生き残るために必死だった。
僕らはDNAという「情報」が生き残り続けるための手段にすぎない。「情報」こそが主体であり、意思を持つ生命体である。宇宙が誕生した後、「情報」が生まれたのか?それとも、宇宙そのものが「情報」なのか、それはわからないが、「情報」はずっと生き続けている。
それは、子孫というかたちでもあるし、物語や建築、思想というかたちも含むのではないか?芸術などの創作意欲は、実は「情報」が後世まで生き残りつつけるための手段のひとつでしかないのではないか?何かひとつのアイデアが浮かんだときの人に伝えたいという欲求は、実は「情報」という生命体によるのではないか?
意識を超えた無意識という存在。
そして、その上をいく遺伝子=情報という存在があるのではないか?